FC2ブログ

中日新聞インタビュー「これは教育政策ではなく経済政策である」―― 大学入試「民間委託試験」を岐阜県立看護大学が見送り

英語教育(2019/08/15) 香港「逃亡条例」、カンフー(中国拳法)、ジャッキー・チェン(Jackie Chan)、大学入試「英語」の民営化=民間委託、イラン戦争に向けた「有志連合」、全て英語で指揮・命令される軍事行動

香港「逃亡条例」抗議デモに抗議声明を発表するジャッキー・チェン
ジャッキー・チェン
https://on.rt.com/9zws
 香港では相変わらず「逃亡条例」に反対するデモhttps://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=349が荒れ狂っています。
 この抗議デモに参加する若者が(中国国旗を海に投げ捨て)アメリカ国旗を振り回したり、香港在住のアメリカ大使館員がデモの若者を激励している映像が流れたりして、この抗議デモを裏で動かしているのは誰かが、ますます明らかになってきました。
 それを端的に示すのが、有名なカンフー映画の俳優ジャッキー・チェン(Jackie Chan)でした。香港生まれでアメリカに移住しているにもかかわらず、現在の「抗議デモ」に抗議することを、公の場で正式に表明したからです。

*Hong Kong native Jackie Chan takes part in pro-Beijing campaign to protect national flag
「香港生まれのジャッキー・チェンが中国国旗を守るため「抗議デモ」に抗議する」

https://www.rt.com/news/466444-jackie-chan-china-protests/

 このようにアメリカ政府はイランや中国に対する包囲網を強化し「不安定化工作」を煽っているのですが、それに全面的に協力しているのが我が安倍政権です。今ではイランを包囲し、あわよくば戦争に持ち込もうとする「有志連合」に、安倍政権は先頭に立って参加しようとしています。
 この「有志連合」は、欧州諸国でさえ参加を躊躇しているのに、安倍政権は、アメリカ軍の指揮の下で、自衛隊を積極的に参加させようとしているのです。そこで先ず必要になるのは英語力です。米軍の英語による指揮を理解しなければならないからです。大学から小学校まで英語一色にしようとしているのは、このためだったのかという疑いすら出てきます。
 それに輪をかける動きが大学入試「英語」の民間委託です。これについては、先日、中日新聞から取材の依頼があり、その記事が2019年8月9日号に載りました(後掲)。その記事の最後あたりで、私が「四技能を試験で測るのはナンセンスだ」と語ったことになっていますが、これは「四技能を民間試験で測るのはナンセンスだ」の誤植ですからご注意ください。

中日新聞インタビュー記事20190804 入試に民間試験370

<註>
先日、次の記事を見つけたので追加しておきます。
* 日本も参加要請されている「有志連合」から、ドイツがいち抜けた!
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/08/post-12711.php
(ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)
スポンサーサイト



大学入学共通テスト英語の「民営化」中止を求める国会請願・記者会見、署名は1週間足らずで全国から8100筆!!

英語教育(2019/06/19) 「CEFR対照表」、ケンブリッジ英語検定、TOEFL iBTテスト、IELTS、TOEIC L&RおよびTOEIC S&W、GTEC、TEAP、TEAP CBT、英検(S-Interview、S-1day、CBT)の8種類

大学入試「英語」外部試験に反対する国会請願
英語民間試験の利用中止を求める要請文を、文科省の担当者に渡す京都工芸繊維大の羽藤由美教授(右)(18日午後、東京都内)=共同

 前回のブログでは「2021年度(2020年度実施)の大学入学共通テストにおける英語民間試験の利用中止を求めます」と題する緊急の国会請願署名について紹介しました。私も求められて、その賛同人のひとりになりました。

 この緊急署名運動は、立ち上がりが遅かったので、国会請願の受付6月 19 日(水)までに余り時間がなく、署名用紙必着日( 6 月 16 日)までに1週間ほどしかありませんでした。それで果たしてどれほどの署名が集まるか心配でした。
 しかし短期決戦の署名運動であったにもかかわらず、全国から集まった署名は8100筆にも及びました。このことは、文科省の新しい大学入試制度に、いかに多くの人が不満や疑問をもっているかを如実に示すものとなりました。
 もうひとつ心配だったのは、たとえ多くの署名が集まったにしても、それを大手メディアが報道してくれるかどうかという点でした。大手メディアが報道してくれなければ、運動の効果は半減してしまいます。

 ところが、これは杞憂に終わりました。NHKでも報道されましたし、朝日新聞・読売新聞・日経新聞なども取りあげてくれました。共同通信も取材に来てくれましたから全国の地方紙にも載る可能性があります。
 このことは、「大学入学共通テスト「英語」の民営化に反対する国民が、いかに多く潜在していたか」を改めて示すことになったように思います。
 矛盾した受験制度に翻弄され苦悩する教師、思い惑っている受験生とそのような子どもを抱える親など、本当は疑問や怒りを胸に秘めながらも、今までそれを声にできなかったひとたちが、この署名で初めて自分の思いを表明できる機会が与えられた――それが署名数と大手メデイアの報道に現れたのではないでしょうか。

 あとは、国会で各党の議員がこの問題にどう立ち向かうかです。これが次の国会議員選挙で大きな争点になれば、情勢はさらに好転する可能性もあります。その意味では、地元の国会議員に「入試民営化に反対しない限りあなたには投票できません」という文面の公開質問状を送りつけるのも、効果的かも知れません。
 以下に紹介するのは、インターネットで検索し、2019年6月19日15時の時点で私が収集できた限りでの、報道のすべてです。この問題に対する各報道機関の姿勢の違いも、文面から読み取っていただければ幸いです。


大学入学共通テストに英語の民間検定試験 大学教授らが中止訴え
LivedoorNews 2019年6月18日 18時4分
https://news.livedoor.com/article/detail/16638986/
大学入学共通テストを巡り、大学教授らが18日に国会内で会見した
導入される英語の民間検定試験について当面の利用中止を訴えた
公平性が確保されておらず、受験生の間に不安が広がっているとしている


英語民間試験の利用中止訴える 大学教授ら、公平性に懸念
共同通信2019年6月18日 18時4分
https://news.livedoor.com/article/detail/16638986/

 大学入学共通テストに導入される英語の民間検定試験を巡り、英語科専門の大学教授らが18日、国会内で記者会見し、公平性が確保されておらず、受験生の間に不安が広がっているとして、当面の利用中止を訴えた。

 会見したのは、京都工芸繊維大の羽藤由美教授や、東大の阿部公彦教授ら。同日、趣旨に賛同する大学関係者ら約8千人分の署名を、衆参両院への提出に向けて国会議員に預けたほか、文部科学省の担当者にも中止を求める要請文を渡した。

 共通テストの英語民間検定試験は2020年4月開始予定で、受験生は同年12月までに「英検」など計8種類の試験から最大2回受験する。


朝日新聞デジタル2019年6月19日 
英語民間試験導入、中止に8千筆 大学教授ら野党に請願
https://www.asahi.com/articles/ASM6L4WRJM6LUTIL01Z.html

 2020年度から始まる大学入学共通テストをめぐり、英語の民間試験の導入に反対する大学教授らが18日、活用の中止などを求めて野党の衆参議員計11人に請願を提出した。大学や高校の教員ら約8千人分の署名を添え、「公平性や公正性の問題が解決できていない」と訴えた。

 共通テストの英語は「読む・聞く・書く・話す」の4技能を測るため、民間試験を活用することになっている。20年度は英検やTOEICなど8種類の民間試験の成績が活用される予定だ。請願を提出後に会見した荒井克弘・大学入試センター名誉教授らは、目的が異なる試験の結果を比較することはできないと指摘。「このまま実施すれば、多くの受験生がトラブルに巻き込まれる可能性が高い」として、活用をやめるよう求めた。

 要請者代表で、京都工芸繊維大で英語のスピーキングテストを開発した羽藤由美教授は、「制度の問題点を訴えてきたが、文部科学省などが方針を変えないまま、実施が迫っており、とにかく動こうと請願した。これを機会に、広く社会で議論してもらいたい」と話した。同様の内容の要請書は、文科省側にも手渡した。(増谷文生)


英語民間試験中止求め国会請願へ
NHK首都圏 NEWS WEB 06月18日19時10分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/shutoken/20190618/1000031421.html
[動画ニュースあり、1分30秒]

再来年から始まる「大学入学共通テスト」に導入される英語の民間試験について、入試の専門家らが今のままでは最低限の公平性が確保できないなどとして、導入の中止を求める請願書を近く国会に提出することになりました。

請願書を提出するのは、大学入試制度や英語教育に詳しい専門家などです。

このなかでは、再来年1月から始まる「大学入学共通テスト」に導入される英語の民間試験について、「深刻な欠陥があり、大学入試に必要な最低限の公平性、公正性が確保できていない。このまま導入すれば、多くの受験生が犠牲になる」などとして、導入を中止するよう求めています。

英語の民間試験は日本英語検定協会やベネッセなど7つの事業者が実施しますが、異なる目的の試験の成績を1つの指標で評価することの難しさなどが指摘されています。
請願書は、8100人あまりの署名を添えて近く国会に提出される予定です。

請願の賛同者の1人で大学入試制度に詳しい東北大学の荒井克弘名誉教授は、「入試は理論的にはトラブルがないよう準備しなければならないが、今回そのレベルに達しているかというとほど遠い状況で、見直しを求めたい」と話していました。



「英語民間試験、利用中止を」 学識者らが国会請願
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46257240Y9A610C1CR8000/
日経新聞2019/6/18 19:38
英語民間試験の利用中止を求める要請文を、文科省の担当者に渡す京都工芸繊維大の羽藤由美教授(右)(18日午後、東京都内)=共同
大学入試「英語」外部試験に反対する国会請願 2020年度に始まる大学入学共通テストを巡り、学識者のグループが18日、英語民間試験の利用の中止を求め、約8千筆の署名を添えた請願書を衆参両院にそれぞれ提出した。

学識者は京都工芸繊維大の羽藤由美教授(外国語教育)ら。18日、東京都内で記者会見した羽藤教授は、8種類ある民間試験は測る英語力がそれぞれ異なり、成績の一律比較はできないと指摘。利用すれば「入試への国民の信頼が一気に失われる」と批判した。

試験の日程や会場などの詳細がいまだに示されていないことや、受験生の居住地や家庭の経済状況によって受験機会に差が出る恐れも指摘。制度の見直しを求めた。

広尾学園中学・高校の南風原朝和校長(元東京大教授)は「民間試験の受験を課しながら成績は不問にする大学も出てきている。大学にも社会から厳しい目を向けてほしい」と話した。

請願には苅谷剛彦・オックスフォード大教授や鳥飼玖美子・立教大名誉教授、荒井克弘・大学入試センター名誉教授らが賛同している。


民間英語試験の利用は中止すべき…大学教授ら請願【大学受験2021】
RakutenNews 2019年6月19日 11時45分
https://news.infoseek.co.jp/article/resemom_51086/

 2021年度の大学入学共通テストで民間の英語資格・検定試験を活用することについて、大学教授らが2019年6月18日、利用中止と制度の見直しを求める請願書を国会に提出した。「公正性・公平性が確保されていない」と、英語民間試験の利用を批判している。

 2021年度大学入学者選抜では、英語4技能を評価するため、民間の英語資格・検定試験の成績情報を大学入試センターが一元的に集約し、各大学に提供する「大学入試英語成績提供システム」を導入する。

2021年度入試には、ケンブリッジ英語検定、TOEFL iBTテスト、IELTS、TOEIC L&RおよびTOEIC S&W、GTEC、TEAP、TEAP CBT、英検(S-Interview、S-1day、CBT)の8種類が参加を予定している。

 これに対して、大学入試センター名誉教授で東北大学名誉教授の荒井克弘氏らは、請願書で「新制度には多数の深刻な欠陥があり、大学入試が有するべき最低限の公正性・公平性が確保されていない。それどころか、2020年4月の新制度導入を間近に控えた現時点でも、希望者全員がトラブルなく民間試験を受験できるめどが立たず、高校生や保護者、学校関係者に不安が広がっている」と指摘している。

 さらに「このまま導入を強行すれば、多くの受験生が制度の不備の犠牲になり、民間試験の受検のために不合理な経済的、時間的、精神的負担を強いられる。また、予想される各種のトラブルのために、当該年度の入学者選抜が大きく混乱することも危惧される」と訴え、「2021年度大学入学共通テストにおける英語民間試験の利用中止」と「新制度の見直し」を求めている。

 大学教授ら学識者グループでは新制度について、各資格・検定試験の結果スコアから英語4技能の能力を6段階で認定する「CEFR対照表」の科学的な裏づけがないこと、受験機会の不平等なども問題視している。

 請願書は6月18日、全国から集めた約8,100筆の署名とともに衆議院と参議院に提出。文部科学省にも要請書を手渡した。

 同日の記者会見には、荒井氏のほか、東京大学大学院人文社会系研究科教授の阿部公彦氏、東京大学大学院教育学研究科教授の中村高康氏、元東京大学大学院教育学研究科教授の南風原朝和氏、京都工芸繊維大学基盤科学系教授の羽藤由美氏も出席した。



英語民間試験「中止を」東大の元副学長ら請願書
読売新聞20190618
https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20190618-OYT1T50262/

 2021年1月に始まる「大学入学共通テスト」で導入される英語の民間試験について東京大の元副学長らが18日、東京都内で記者会見を開き、「民間試験の制度に多くの問題点がある」などとして利用中止を求める請願書を野党の国会議員に提出したと明らかにした。

 記者会見を行ったのは、今年3月で東大を定年退職した南風原朝和(はえばら ともかず)元副学長や大学入試センター元副所長の荒井克弘氏、羽藤由美京都工芸繊維大教授ら5人。約8000人分の署名を添えて同日、国会議員に渡し、文部科学省に対しても民間試験の利用中止を要請した。

 南風原氏らは、実用英語技能検定(英検)やTOEFLiBTなどの民間試験と、試験結果を6段階で評価する国際標準規格「CEFR」との対照について「科学的な裏付けがない」と指摘。また、これらの民間試験について、「所得や地域によって受験機会が均等ではない」「採点ミスや機器トラブル発生時の責任体制が構築されていない」などの課題を挙げた。

 国立大学協会は昨年3月、国立大の全受験生に民間試験を課す指針を発表した。東大は利用について「拙速」としたが、その後、活用を検討する方針を示し、昨年9月には「必須としない」と表明。国立大では北海道大、東北大、京都工芸繊維大が、民間試験を活用しないことを公表している。

大学入学共通テスト「英語」に、民間試験を利用することに対して、緊急の国会請願署名

英語教育(2019/06/09) 安倍政権の民営化路線、水道の民営化→大学入試の民営化、教育政策ではなく経済政策、教育産業への巨大な補助金政策

検証 迷走する英語入試 『英語で大学が亡びるとき』

 私のところに和歌山大学の江利川先生から「国会請願署名(6/7〜6/16)にご協力ください!」とする案内が送られてきました。
 読んでみると、羽籐由美さん(京都工芸繊維大学教授)が中心になって「大学入学共通テスト英語に民間試験を利用することに反対し,その中止と制度の見直しを国会に求める運動」を起ち上げるので、賛同者になってほしいというものでした。
 私も大学英語入試への民間試験導入にたいして強い憤りを感じて、すでに下記のブログで2度にわたって私見を述べてきましたから、喜んで賛同者になる旨を伝えました。
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-325.html
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-326.html
 しかし請願署名の締切が「6 月 16 日(日)署名用紙必着」となっていて、時間が余り残されていないので、私のブログでもこの反対運動について紹介し、少しでも羽籐由美さんたちの運動に協力したいと考えました。
 羽藤さんたちが起ち上げた「2021年度(2020年度実施)の大学入学共通テストにおける英語民間試験の利用中止を求めます」と題するサイトのトップページは、次のようになっていました。

国会請願署名(6/7〜6/16)にご協力ください!
 私たちは,2021年度(2020年度実施)の大学入学共通テストにおいて英語の民間試験を利用することに反対し,その中止と制度の見直しを国会に求めます。
 国会請願は,国民が国政に対する要望を直接国会に述べることのできる,憲法で保証された権利です。日本に住んでいれば,外国人や未成年(たとえば,小・中・高生)も請願することができます。
 今国会における請願の受付は 6 月 19 日(水)まで。そのために短期決戦の署名運動になりますが,国政選挙の直前でもあり,私たちの声を国会に届ける大きなチャンスです。
 署名・送付の方法のページをご参照のうえ,署名運動にご協力ください。
 締切 6 月 16 日(日)[署名用紙必着]


 この「署名・送付の方法のページ」は下記のURLにリンクが貼られていました。
https://nominkaninkyotsu.com/signaturecampaign/
 また「以下の請願書を衆議院と参議院に提出します」と題して、次の文面が枠で囲まれて掲示されていました。調べてみると、これは署名用紙の冒頭に書かれているものと同一のものでした。
 しかし「一 請願要旨」は、段落改行が全くない13行にもわたる文章だったので非常に読みづらいものでした。そこで以下では私の判断で適当と思われるところに改行を加えました。お許しただければ幸いです。

一 請願要旨
  2021年度(2020年度実施)の⼤学⼊学共通テストにおいては,⼤学⼊試センターが作成する 英語の試験と,英検,GTECなど8種類,計23の民間試験が併⽤されることになっている。
 文部科学省は,大学⼊試センターが作る英語の試験を2024年度から廃⽌し,民間試験に⼀本化したい意向といわれる。しかし多くの専⾨家が指摘するように,新制度には多数の深刻な⽋陥があり,大学入試が有するべき最低限の公正性・公平性が確保されていない。
 それどころか,2020 年 4 ⽉の新制度導⼊を間近に控えた現時点でも,希望者全員がトラブルなく民間試験を受検できる目処が立たず,高校生や保護者,学校関係者に不安が広がっている。
 このように,ずさんな 制度設計,拙速な計画の弊害が,制度の開始前から表面化しているにもかかわらず,当初の予定どおりの導⼊にこだわることは高大接続改⾰の意義をないがしろにする。
 このまま導⼊を強行すれば,多くの受験生が制度の不備の犠牲になり,民間試験の受検のために不合理な経済的,時間的,精神的負担を強いられる。また,予想される各種のトラブルのために,当該年度の⼊学者選抜が⼤きく混乱することも危惧される。


上記のホームページでは、上の「一 請願要旨」を受けて、次の2項目が「二 請願事項」として記載されています。

以上の趣旨から、次の事項を速やかに実現するよう請願いたします。
⼆ 請願事項
1 2021年度大学入学共通テストにおける英語民間試験の利用を中⽌すること。
2 大学入学共通テスト全体としての整合性を考慮し,公平性・公正性を確保するために新制度のあり方を見直すこと。


 さらに、このホームページでは、先に紹介した「署名・送付の方法のページ」だけでなく、次の項目が設けられていて、それぞれにリンクが貼られています。
 「Home」「新制度の問題点」「賛同研究者」「参考リンク」「お問い合わせ」
 まだ未完成のページもありますが、「参考リンク」には貴重な情報が載せられていました。とりわけ私のとって興味深かったのは「東大で開催されたシンポジウムの報告書」でした。
 このシンポジウムについては、すでに『検証 迷走する英語入試――スピーキング導入と民間委託』(岩波ブックレット)となって公刊されているのですが、ここに盛り込まれなかったものを知ることができて便利でした。

英語教育残酷物語 「『英語で授業』という名の拷問」その4――大学「共通教育 英語」の闇  

英語教育(2019/03/06) 刑法246条、会社法第7条、「英語で授業」と「マケレレ原則」、native speakers「母語話者」という神話、統一教科書・統一進度・統一テストという悪弊

41pSAO2CzQL.jpg 『英語で大学が亡びるとき』

私は前回のブログを次のように結びました。

 ・・・。とすれば、現在の「英語で授業」は、税金を食い潰しながら生徒も教師も疲弊させているだけでなく、平和憲法の土台を掘り崩す悪質な役割すら果たしていることになります。
 ひょっとして、これが「英語で授業」という政策の真の狙いではないかと疑りたくなります。こうして「英語で授業」という政策を震源地とする「英語教育残酷物語」は終わるところがありません。
 しかし、もう十分に長くなったので、一旦ここで今回は打ち止めにしたいと思います。次回は「英語教育残酷物語その4」として、大学教師・村上春樹の「英語で授業」を書きたいと思います。


 そこで今回は、「小説家村上春樹が客員教授としてアメリカの大学にいたころ英語で授業をせざるを得なくなり、どんなに苦労したか」「あの英語が出来るはずの村上春樹でさえ英語で授業することが一種の拷問だった」ということを紹介するつもりでした.
 しかし最近もっとひどい事件が起きたので、今回はそれを取りあげたいと思います。
 というのは、中日新聞(2019年2月21日)の33面に、カラーの写真入りで、しかも四段抜きの大出しで「架空出版社名で教材PR、岐阜大准教授 HP作成 出版装う」という記事が出たからです。その記事を読んでみると、まず冒頭で次のような説明が書かれていました。

 岐阜大(岐阜市)で全学部共通の英語教育を集約的に担う「イングリッシュ・センター」のセンター長が、架空の出版社名でホームページ(HP)を運営していたことが分かった。
 HPでPRした自著は、英語教材として岐阜大の授業で使われている。センター長は取材に「社名を名乗れば、正式に(出版したように)見えると思った」と釈明している。
 出版社名として使われていたのは「BTB Press」(以下BTB)。本紙取材に大学側は「テキストなどの編集グループの名称だ。誤解のないよう修正するよう依頼した」と回答。今月中旬、HPからはBTBが出版社であるかのような表現は削除された。


 この社名として使われているBTBというのは何を意味するのかと思って教材現物を取り寄せてみたら、Back to Basics だということが分かりましたが、これが架空の出版社ということに、まず驚かされました。
 しかも、この架空の出版社をつくって、「イングリッシュ・センター」のセンター長であるバーカー准教授は、売上金約680万円を自分の懐に入れている疑いがあります。というのは、上記の記事では、さらに次のように書かれていたからです。

2種類の著作(税別1900円、同1700円)は本年度、英語の「話す」「書く」技能を学ぶ2科目の計67授業で使われた。受講する約1900人のほとんどが事実上の教科書として購入したとみられる。


 この記事が正しいとすると、2冊の教科書は合計3600円(=1900+1700円)で、それに1900人の人数を掛けると、684万円になります。
 このような大金を自分個人の懐に入れているとすれば、それだけでも問題なのに、それが自分のでっち上げた架空の出版社から出されたものだったというのですから、これは明らかに犯罪ではないでしょうか(会社法第7条)。
 またバーカー准教授は、センター長という地位を利用して、嘘をついて、自分の著作物を受講生全員に買わせたことになるとすれば、これは詐欺罪ではないのでしょうか(刑法246条)。
 中日新聞は、この件について、次のような説明を加えています。

 センター長は、教育学部のデイビッド・バーカー准教授(英語教育)。
 BTBのHPは「日本人英語学習者向けの教材を制作している出版社です」と記し、会社紹介の欄もあった。自身を「BTBのオーナー兼設立者」と説明していた。
 ところが、BTBの実態について本紙が問い合わせたところ、准教授は「法人登記はしておらず、会社にもなっていない。自費出版だ」と明らかにした。



 ところで、会社法第7条は次のように記述しています。

会社法 第1編 総則 第2章 会社の商号(会社と誤認させる名称等の使用の禁止)
第7条 会社でない者は、その名称又は商号中に、会社であると誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
会社法 第8編 罰則
第978条 次のいずれかに該当する者は、100万円以下の過料に処する。
一 第6条第3項の規定に違反して、他の種類の会社であると誤認されるおそれのある文字をその商号中に用いた者
二 第7条の規定に違反して、会社であると誤認されるおそれのある文字をその名称又は商号中に使用した者
三 第8条第1項の規定に違反して、他の会社(外国会社を含む。)であると誤認されるおそれのある名称又は商号を使用した者


 バーカー准教授がでっちあげた会社名は、BTB Pressとなっています。...Pressという名前の付け方は、明らかに出版社を名乗るものです。前述のとおり、中日新聞の記事でも次のように書かれていますから、これは明らかに「会社法」違反でしょう。

 BTBのHPは「日本人英語学習者向けの教材を制作している出版社です」と記し、会社紹介の欄もあった。自身を「BTBのオーナー兼設立者」と説明していた。
 HPでPRした自著は、英語教材として岐阜大の授業で使われている。センター長は取材に「社名を名乗れば、正式に(出版したように)見えると思った」と釈明している。


 ところがバーカー氏は、このような犯罪が明るみに出たにもかかわらず、何ら処分を受けた形跡はなく、それどころか上記の記事では、次のように釈明しています。

准教授は、自身の著作を多くの学生が購入する形になっていることについて「(授業を行う非常勤講師らに)強制でなく、推薦しただけ」と話している。


 しかし実際に非常勤講師として岐阜大学で教えた知人に尋ねたところ、「推薦しただけ」どころか、実質的「強制」だったそうです。それどころか、「大学の方針すなわちセンター長の命令に従えないものは身分を保障しない」とすら言われたそうです。
 そのせいかどうか分かりませんが、今までいた非常勤講師(日本人)のほぼ全てが、この3月で辞職したと聞きました。教えたくもない教科書を強制されることにたいする抗議の意思表明だったのかも知れません。「日本語を使うな、英語だけで教えろ」という指示も、不愉快だったでしょう。
 あるいはバーカー氏の犯罪行為に対する抗議の意思表示だったのかも知れません。というのは、、このような事件があったにもかかわらず、バーカー氏が、処罰されるどころか、相変わらず横柄な態度でのさばっていることにも嫌気がさしたのではないか、と知人は言っていたからです。
 その証拠に、岐阜大学側の態度は奇々怪々です。というのは、上記の中日新聞記事は次ような叙述で結ばれていたからです。

センターを統括する岐阜大教学担当の江馬諭・理事は「BTBが法人登記された会社でないことは認識していた。教科書として指定する場合には、しかるべきプロセスを設ける予定だ」と話している。


 何と驚いたことに、上記の記事によると、教学担当の江馬理事は「BTBが法人登記された会社でないことは認識していた」と言っているのです。江馬氏は、これが会社法違反であることを知らなかったのでしょうか。もし知らなかったとすれば理事失格でしょうし、知っていたとすれば「共謀罪」ということになります。
 いずれにしても、一刻も早くバーカー氏を辞職させることが、いま岐阜大学として最も緊急に求められていることではないでしょうか。

 ここで、もうひとつ問題なのは、学生や非常勤講師に強制的使わせた教科書のなかみです。中日新聞は学生にもインタビューを試みています。それについて同記事は次のように述べています。

著作は英語で自己紹介をしたり、簡単な英文を参考に英作文をしたりする内容。学生の中には大学レベルの教材としてふさわしいか疑問視する声もある。地域科学部1年の男子学生(18)は「中学生向けといってもおかしくない」。工学部1年の男子学生(19)は「易しすぎ、英語の勉強そのものをしなくなった」と話す。


 私が岐阜大学に勤務していたときの経験で言えば、工学部の学生は英語嫌い、英語が苦手だというのが一般的です。その工学部の学生でさえ「易しすぎ、英語の勉強そのものをしなくなった」と言っているのですから、この教科書のおおよその傾向は分かってもらえるのではないでしょうか。
 念のため私も現物を調べてみましたが、『Nice to Meet You』という教科書は、ほとんど中学高校レベルと言ってもよいものだと思いました。なぜなら文科省の新指導要領は会話一辺倒に大きく傾斜していますから、この教科書で展開されているような練習は、すでに中学高校でいやというほどやらされてきたものばかりではないかと思わされたからです。
 もちろん進学校では会話練習をあまりやらずに受験勉強ばかりやらされてきたので新鮮だったという学生もいる可能性はあります。しかし全ての学生にこのような教科書と練習をやらせることに、ほとんど意味はないと思わざるを得ません。地域科学部の学生が「中学生向けといってもおかしくない」と言ったそうですが、さもありなんと思いました。
 これは、「話す」ではなく、書く」という領域を念頭においた教科書『Read to Write』についても同じでした。というのは、この教科書は作文の初歩を教えることに焦点をおいているのですが、説明がすべて英語で書かれていることを除いては(ですから文法用語もすべて英語です)、高校の文法で習うべきことばかりだったからです。
 そもそも日本語で説明すれば短時間ですむことを、文法用語もその説明も、すべて英語を使っておこなうことに、どれだけの意味があるでしょうか。壮大な時間の無駄遣いでしょう。完了形や進行形の意味や用法を日本語で説明しても、なかなか理解させることが難しいのに、それを英語でおこなって、どれだけ教育効果があるのでしょうか。
 たとえば、“He is dying."は、なぜ「彼は死んでいる」のではなくて「死にかけている」という意味になるのでしょうか。それを、進行形というものの本義からどのように説明すれば生徒・学生は納得するのでしょうか。それを日本語できちんと説明できる教師はどれだけいるのでしょうか。まして、それを英語で生徒・学生に説明できる教師は?
 このように考えれば「英語で授業」という教え方が、いかに荒唐無稽なものか、よく分かってもらえるはずです。それはNHKの外国語講座「ロシア語」を、最初から日本語を使わずにロシア語だけで教えるということを、ちょっと想像しただけでも分かるはずです。そのような講座や授業に何人の人が参加するでしょうか。
 そもそも「英語の理想的教師は母語話者である」「英語は、英語を使って教えるべきである」などという原則は、1961年にウガンダのマケレレで開かれた「英語教育をめぐるイギリス連邦会議」で提起された、いわゆる「マケレレ5原則」をそのまま鵜呑みにしたものです。詳しくは下記を御覧ください。
*英語教師残酷物語、その1―「英語で授業」と「マケレレ原則」
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-313.html
 イギリスが旧植民地を維持するために打ち立てた原則を、なぜ日本人が後生大事に守らなければならないのでしょうか。日本はアメリカの属国としての地位を未来永劫に守り続けて行くつもりなのでしょうか。いつまで「自己家畜化」の教育政策を続けるつもりなのでしょうか。
 チョムスキーは、『チョムスキーの教育論』(明石書店2006)で、「ほとんど常に公教育は生徒・学生の家畜化を狙いとしてきた」と述べていましたが、日本の英語教育は、「日本を家畜化・属国化を狙いとしておこなわれている」と言ってよいのではないか、と最近、強く思うようになりました。
 政府・文科省はそんなことを意識し意図的におこなっているとは思いませんが、結果として、そのような働きをしているということです。自衛隊がアメリカと合同軍事演習をするとき全て英語でおこなわれますから、日本人を小さいときから英語漬けにしておくことは、アメリカにとって巨大な利点利益があります。
 (日本がアメリカその他と交渉していたTPPは、政府がもつ正式な文書は英語版しかがありません。カナダが仏語圏であるケベック州のために仏語版をつくらせたのとは雲泥の差です。ここでも日本の属国ぶりは歴然としています。どうも日本は主権国家ではないようです。)
 日本もかつて朝鮮を支配し、満州国をつくって属国化したとき、真っ先に手をつけたのが朝鮮人や満州人に日本語を強制し日本語で教育をすることでした。いま日本政府は、かつて朝鮮や満州で現地人に強制したのと同じことを、いま自ら求めて実行しようとしているのです。この点については『英語で大学が亡びるとき―「英語力=グローバル人材」というイデオロギー』で詳しく説明しました。

 大学とは本来、自分の意志・興味・能力に従って自由に自分の学びたい科目を選べるところに大学らしさがあるはずです。統一教科書・統一進度・統一テストは、高校までの授業のあり方であり、それを超えたところに高等教育としての大学教育があるはずです。ところが、岐阜大学の英語教育は、それを高校や中学レベルに引き下げるようとしています。
 大学の共通教育「英語」に統一教科書・統一進度・統一テストを持ち込んだ元凶は、東大教養部にありました。彼らは 『Universe of English』 という教科書を編集し、それを非常勤講師に強制しました。それ以降、全国の大学で統一教科書を編集し、学生・非常勤講師に強制することが広がり始めました。
 これについては拙著『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー』で厳しく批判しましたし、その当時、研究社『現代英語教育』の編集長をしていた津田正さんに頼んで、『Universe of English』の編集者と対談する機会をつくってもらい、そのような方針に強い異議を唱えました(その一部始終は『現代英語教育』1993年11月号32-37頁)に載っています)。
 しかし最近、仕入れた情報では、東大もこのような統一教科書・統一進度・統一テストの制度をやめて、学生が自分の能力や興味にあった授業内容(教師・教科書)を選択・受講できる制度に戻したそうです。これでやっと大学本来の姿に戻ったと言うべきでしょう。私が上記の対談をして数年もたたないうちに、『Universe of English』の統一テストでは、カニングが横行して対応に追われているという噂を聞きましたから、当然と言えば当然の成り行きでした。
 私が岐阜大学に在職していた頃は、共通教育「英語」は担当者がどのような教科書を使い、どのような授業をするかをあらかじめ公開し、学生はそれを読んで自分の取りたい授業を選択できようにしていました。それが破壊され始めたのが、東大の統一教科書・統一進度・統一テストという制度が広く知られるようになった頃です。文科省の意向を受けて、第2外国語を必修から外し、英語に一極集中させ、大学当局が「岐阜大学も東大方式にしたらどうか」という圧力を掛けるようになってきたからです。
 しかし考えてみれば、大学どころか高校や中学でも、学年全体で「統一教科書・統一進度・統一テスト」をするというのは、本来おかしなことです。授業は教師が生徒の顔を見ながら、生徒の興味や学力に応じて担当教師が自由に教材を選んでこそ教育効果があがるものです。しかし毎回そのつど自主教材を教師が自分で編集して生徒に与えるというのは大変な作業ですから、試され済みの典型教材や市販教材を与えて、その授業の評判が良ければ、それが自然と学年全体に広まっていくというのが、最も望ましいスタイルでしょう。
 事実、学力世界一として有名なったフィンランドでは、外国語教育どころか全ての教科で教師に教育研究の自由が与えられています。もちろんフィンランドでも指導要領らしきものはありますが、それは全くの大綱を示すにすぎず、教室でどのような教材を使い、それをどのように教えるかは、担当教師の自由に任されています。しかし優れた教師の授業は強制しなくても他の教師が授業を見学に来たりして自然に広まって行きます。それどころか一時期、世界中からフィンランドへの訪問者が絶えないという状況になりました。
 ところが文科省は、検定教科書を与えて、指導要領というかたちで教え方も縛ってしまい、教育研究の自由が現場教師にほとんど認められないような仕組みにしました。その典型例が「英語の授業は日本語を使うな、英語の授業は英語でしろ」という新指導要領の方針でした。このような制度で教育効果が出ればまだ我慢もできるでしょうが、むしろ英語力が停滞どころが劣化しているのが実態です。そして、このような悪行を大学に持ち込んだ典型例が岐阜大学だというわけです。
 しかし岐阜大学をこのような事態に追い込んだのが、文科省の「英語の授業だけでなく他の科目も授業を英語でおこなえ」という方針でした。それが大学を「国際化」する最も有効な方法だというのが文科省の方針で、そのような政策を追求する大学には巨額の助成金を出すということまでやるようになりました。このような政策で大学の教育力や研究力が向上すれば、これも我慢できないわけでないでしょうが、日本の研究力がとみに劣化しつつあることは、世界に向けて発表される論文数の激減ぶりに、よく表れています。
 この事実を私はすでに下記ブログで詳細に論じて来ました。時間と興味のある方は覗いてみていただけると有り難いと思います。

*書評『英語で大学が亡びるとき』に寄せて(その5)――ノーベル賞・大隅良典氏の軌跡から学ぶ (2017/10/04)
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-303.html
*書評『英語で大学が亡びるとき』に寄せて(その4)――米国の貿易相手は今や日本ではなく中国! (2017/09/07)
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-302.html
*書評『英語で大学が亡びるとき』に寄せて(その3)――米国は共同研究に日本よりも中国を選ぶ! (2017/08/23)
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-301.html
*書評『英語で大学が亡びるとき』に寄せて(その2)――科学誌『Nature』の5つのグラフの衝撃 (2017/08/08)
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-300.html
*書評『英語で大学が亡びるとき』に寄せて(その1)――急速に失速しつつある日本の科学力 (2017/07/28)
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-299.html

 岐阜大学で上記のような馬鹿げた制度を推進した岐阜大教学担当の江馬諭理事は、おそらく文科省の政策を良しと信じて、バーカー准教授の提言を受け入れたのでしょう。その意味では江馬氏も「英語で授業」という政策の犠牲者という言うべきかも知れません。
 しかし、「英語で授業」ということは、「外国人教師」「英語の母語話者」を優先して採用するということは、岐阜大学学生の英語力・思考力・研究力を劣化させるだけでなく、それまで英語の授業を担当していた日本人非常勤講師の首切りにつながっているわけですから、単なる被害者ではなくて、むしろ加害者でもあります。
 こうして、またもや、「英語教育残酷物語」はとうぶん終わることがないように見えます。


<註1> 日本のように日常生活で英語を使う必要にせまられない環境では、公教育で教えられるべき英語教育は、「学習言語」「研究言語」としての英語であって「生活言語」としての英語ではありません。ところがバーカー氏も江馬理事も、この自覚がまったく欠けているように思えてなりません。この二つを区別できれば、教材も教え方もまったく違ってくるはずなのですが、この区別が出来ないからこそ、バーカー氏が編集したような教科書が誕生するわけでしょう。

<註2> バーカー氏が編集・執筆したとされる教科書『Read to Write』を見ると、英語の母語話者が執筆に関わっているはずなのに、不自然な英語が散見されます。たとえば、本書の22頁では、"So"と"Because”の使い方として次のような例文が掲げられています。
(X) I put on a jacket. Because I was cold.
) I put on a jacket because I was cold.
(X) I was cold. So I put on a jacket.
) I was cold, so I put on a jacket.
 上記の英文は「寒かったからジャケットを着た」と言いたかったのでしょうが、だとすれば、 "I was cold"ではなく、"It was cold"とするのが標準的な英語表現だと思われるのですが、いかがでしょうか。
 この教科書では、このように気になる説明が散見されます。「母語話者こそ最善の英語教師である」という神話が、いかに信用ならないかの、一つの例と言えるかも知れません。


<追記1> 本日(2016/03/17)、友人からいただいた情報によると、東大の共通教育「英語」は次のようになっているそうです。

 東大生の必修英語は「英語一列、英語二列W、英語二列S、英語中級」の4つの系列に分かれ、内容は順に「読む、書く、話す、多様」となっている。
 英語一列で統一テキスト「東京大学教養英語読本」が使われる。入試成績の上位から10%、30%、60%の割合でG1、G2、G3に分かれるが、途中の試験結果でクラスが変わる。
 英語二列W(Writing)には文系向きALESAと理系向きALESSがある。
 英語二列S(Speaking)はFLOW(Fluency-Oriented Workshop)とも呼ばれ6つのレベルに分かれていて自分でレベルを選択できる。
 中級英語は教員ごとにテーマや内容が異なり、希望者が多いと抽選になる。
 統一テキストが使われるのは時間で見ると全体の25%である。以下のサイトを参考にした。   
   https://goukaku-suppli.com/archives/45557
   https://bonjintoudai.com/entry/2018/11/10/213255
   https://www.asuka-ukaru.com/entry/2018/07/15/213000

 以上の情報が正しいとすれば、「英語一列」は相変わらず「統一テキスト」が残っているようです。
 しかし、「統一テキストが使われるのは時間で見ると全体の25%」だそうですから、基本的には、これまでの「統一教科書・統一進度・統一テスト」の体制が崩れたことだけは確かでしょう。
 しかも統一教科書「東京大学教養英語読本」を使う「英語一列」にしても、前期・後期に各々1.5ヶ月のみで、グレード別に分かれ授業の仕方も違うのですから、統一進度・統一テスト」は実質的には意味を成していません。
 ところが岐阜大学は相変わらず旧体制の東大を見習おうとしているかのようです。 

<追記2> この記事を書いている現在(2016/03/17)、刑法246条および会社法第7条に違反した可能性がある人物と、それに共謀した人物は、相変わらず何の処分も受けていないようです。
 我が国のトップである安倍首相でさえ、数々の不正を働きながら、未だに辞職をしていませんから、当然と言えば当然かも知れません。元大統領パク・クネ(朴 槿恵)を刑務所に送り込んだ韓国の民主化ぶりがうらやましく見えてきます。


英語教育残酷物語 「『英語で授業』という名の拷問」その3

英語教育(2019/02/09) 母語力上限の法則、「ザルみず効果」

『英語にとって教師とは何か』 山田昇司

 前回のブログでは、「日本語を使わないでおこなわれる英語の授業」を受けることが、いかに苦痛で拷問に近いものになるかを考察したのですが、今回はそのような授業を「する側」から考察してみたいと思います。
 そのことを前回のブログで予告していたにもかかわらず、『寺島メソッド「日本語教室」レポートの作文技術』の出版準備に追われ、あっという間に1ヶ月が経ってしまいました。その結果、ブログのトップにいかがわしい宣伝が出てくるようになって、読者の皆さんに本当に申し訳なく思っています。

 そもそも、この日本の地で、外国語の授業を「日本語を使わないで」教えたり学んだりすることが、いかに非能率的で教育効果も薄いか。
 このことは、少し日本語で考えるちからがありさせすれば、すぐ分かりそうなものです。が、いまだにそのような考え方がまかり通っているのは、文科省の知性の程度を示すもので、唖然とさせられます。
 なぜなら、そのような考え方が正しいとすれば、なぜNHKの外国語講座は、日本人の講師によっておこなわれ、その外国語の母語話者はあくまで助手の役割しか与えられていないのでしょうか。しかもその母語話者は日本語も理解できるひとが人気なのです。
 もし「中国語を中国語で教える」「ロシア語をロシア語で教える」のが正しい教授法であれば。日本人講師はいらないはずですが、現実はそうなっていませんし、そのことにたいして政府や文科省からの抗議があったという話も聞いたことがありません。
 ところが不思議なことに学校英語の世界だけは例外のようで、高校の学習指導要領は「英語を英語で教えろ」と書いてありますし、今度は新指導要領で中学校までも「英語を英語で教えろ」となりました。そして、そのことに疑問を感じない若い英語教師が増えてきているように思います。
 というのは最近、文科省・教育委員会が教員として採用するのは「英語大好き人間」「アメリカ大好き人間」で、「英会話をすること」「英語で話すこと」だけに無上の喜びを感じる人間ばかりを採用する傾向があるからです。人間に興味があるのではなく英語にだけ興味があるのですから。英語だけを使って授業を受ける側の悩みや苦しみを知りません。分かろうとしません。
 ですから前のブログで紹介したように、そのような授業に耐えきれなかった生徒が実力テストの答案用紙に「○○死ね!」と書いた事件が起きても、その名指しされた教師や英語科が、これを契機に反省することもありませんでした。その学校では「○○死ね!」と書いた生徒が校長訓戒という処罰を受けただけで、「英語の授業を英語で」という体制そのものは、ほとんど揺らがなかったそうです。
 しかし「英語大好き人間」「アメリカ大好き人間」で、「英会話をすること」「英語で話すこと」だけに無上の喜びを感じる人間を、英語教師として採用したとしても、そのことが生徒の英語力を高めることに貢献しているかと言えば、事態は全く逆で、英語力はますます低下または停滞しているように思います。それは、全国学力テストをやればやるほど、その結果によく表れています。
 これは考えてみれば当然のことで、会話中心の授業では、生徒に要求されるのは丸暗記ばかりで思考力は要求されないからです。日本では日常生活に英語は必要ありませんから、憶えても憶えても、日常的に使わない単語や言い回しは、一週間も経たないうちに忘れてしまいます。私の言う「ザルみず効果」です。憶えても憶えても忘れていく、そこでさらにまた憶え直すという作業の繰り返しです。
 多くの生徒は、このような作業に疲れ果てて英語に絶望し、英語嫌いになります(私もそのひとりでした。だから大学は理系学部を選びました)。そして新指導要領のため、最近ますます、暗記力が優れている「英語大好き人間」だけが英語教師になっていく傾向が強まっていますから、このような悪循環は終わることがありません。だからこそ英語力は停滞または低下していくのです。
 進学校ですら、生徒は教科書とは無関係の分厚い単語集を与えられ、毎週のように「単語テスト」を受けさせられ、基準点に達しない生徒は居残りさせられ、基準点に達するまで「単語テスト」を受験させられるところもあるそうです。
 ですから教科書の文章は単なる「会話ごっこ」の材料であり、読んで思考力・創造力・作文力・批判的読解力を鍛える教材として使われることはほとんどありません。英語を読むことの面白さ楽しさを知らないで英語学習を終える生徒がますます増えています。
 教科書とは無関係の分厚い単語集を与えられ、毎週のように「単語テスト」を受けさせられる学習から、どんな学力が育つというのでしょうか。
 読んで面白い教材をどんどん読むなかで自然と語彙力は増えていきます。また読むちからは思考力を育て、かつ作文力を鍛えます。「英作文は英借文」だとよく言われますが、これは日本語でも同じで、読書量の少ない生徒の作文が良い文章になることなど、あり得ない話です。また作文力は会話力に転化します。貧しい日本語しか書けないひとが、豊かな日本語を話せるはずがありません。それと同じです。
 まして貧しい日本語しか欠けない教師が、それを超える英語を書けるはずもありません。だから話す英語も貧しいものになります。私の言う「母語力上限の法則」です。

 話が少し横道にそれたので、元に戻します。今日の本題は、「英語で授業」という体制が、いかに「生徒だけでなく英語教師をも残酷物語に引きずり込むか」という話です。
 「英会話をすること」「英語で話すこと」だけに無上の喜びを感じる人間が、英語教師になって、新指導要領に従って、「日本語をなるべく使わずに」授業したとしても、そのことを生徒が楽しまなければ、それは教師に跳ね返っていきます。
 それは「○○死ね!」ということばを答案用紙に書き込まれた教師の心をいたく傷つけたはずです。
 その教師は表面的には、「私は指導要領に指示に従って授業をしているだけで私に非はない」とふるまっていて、他の教師には、彼女に何も動揺するところがないように見えるかも知れませんが、心の奥深いところでは必ず傷ついているはずだと思うです。
今は「死ね!」という言葉だけ済みましたが、かつて中学校の英語女教師がナイフで刺される事件がおきました(拙著『英語にとって教師とは何か』あすなろ社/三友社出版を参照)、そのような事態になったとしたらどうでしょう。
 彼女にとって「英語で授業」という体制は、自分がいかに英語の出来る教師かを生徒の前でひけらかす自己満足の場だったはずのものが、一転して地獄の場に転化していたはずです。
 私の主宰する研究所に大阪外国語大学(現在は大阪大学外国語学部)を卒業し、大学時代に英検1級をとった教師がいます。彼は、「高校英語教師なったら日本語を使わずに英語の授業をしたい」と思って、意気揚々と最初の赴任校に行ったそうです。
 そこでは念願の「英語で授業」ができたので、おおいに満足して次の赴任校である工業高校で同じような授業を始めたら、今度は、廊下を歩いていると教室の中から牛乳パックが彼をめがけて飛んでくるようになったそうです。
 考えてみれば、最初の赴任校は元商業高校で女子生徒が多かったし、女子生徒は英語に対する憧れが強いというのが一般的だったので、「英語で授業」は何とか通用したのかも知れません。しかし工業高校は男子生徒が圧倒的ですから、「おまえはどんなつもりで英語だけで授業しているのか」という反発が、牛乳パック事件になったのかも知れないと、彼は自著『英語教育が甦えるとき』(明石書店)で自戒・述懐しています。
 つまり大学時代に英検1級をとっていた英語教師にとっても、「英語で授業」という体制、は教室を地獄の場に変えることがあるのです。まして今の教育現場では、英会話がそれほど得意でなくても生活の糧として英語教師なったひとは少なくありません。そのようなひとには「英語で授業」を強制されることは、毎日毎日が地獄であり拷問です。
 ですから私の周りにはうつ病になって精神科まわりをしている教師を少なからず見かけましたし、実際に退職した人もいました。教師が授業を楽しめなくて、どうして生徒は授業を楽しむことができるのでしょうか。生徒が授業を楽しめなくて、どうして学力が定着するのでしょうか。
 また授業をするたびに校長が日本語を使った授業をしているのではないかと点検に来るので、辞表を叩きつけて私学に転じた教師もいました。私学は指導要領に縛られないからです。それどころか「英語で授業」というやりかただと受験学力が落ちるので、日本人の英語教師には「英語で授業」は望まずに、英会話の授業は外人教師を雇って、彼らにそのような授業をうますというところが少なくないのです。

 また「会話力」としての英語が得意でなくても素晴らしい授業をする教師はいくらでもいます。ところが「英語大好き人間」の英語教師は、ともすると、英語が嫌いという生徒、英語が分からない生徒の気持ちが分かりません。
 生徒がどこでつまずいているかも分からないことが少なくないのです。
 というよりも、そもそも人間に興味がなくて英語だけにしか興味がないのですから、英語が嫌いだとか英語が分からないといった生徒に、あまり興味関心をいだかないと言った方が正確なのかも知れません。
 難病を治す医者こそ名医と言われます。だとすれば、「躓(つまず)いている生徒」に学ぶ意欲を与える教師こそ名教師のはずですが、今の「英語で授業」で、そのような教師を育てる気風が雲散霧消しかけているように思われます。
 最近、私の研究所のワークショップに、先述とは別の外国語大学を卒業した若い教師が参加して来たことがあります。その教師は外国語大学英文科を卒業してきただけあって英語力もかなりあるように見受けました。そしてワークショップで学んだ教材や教授法に大いに興味を持ち、それを使って秋学期の授業をやってみたいと言って、意気揚々とワークショップを会場を去って行きました。
 ですから私はその若い教師に大きな期待をもっていたのですが、あとで聞くところによると、結局その教師は教壇を去ることになってしまいました。どうも学級担任として学級経営がうまく出来なくなって休職し、けっきょく教師になる道を諦めたようでした。
 だとすると「英語で授業」というシステムは、その教師に別の苦痛・拷問を与えたことになったのかも知れません。もともと彼は英語にだけ関心があり、人間そのものに余り関心がなかった、だから彼は、人間としての生徒に関心を持つどころか、学級経営を通じて人間を育てることに苦痛・拷問を感じるようになったのではないかと思うからです。
 というのは、英語教員を採用するさい教育委員会は、「英語で授業」という観点で、英語教師に「会話力」「英語力」だけを要求し、学級担任として「日本語を使いながら生徒を説得する」「学級経営を通じて人間を育てる」という、「母語力」「人間力」を要求しなかったことが、その教師に教壇を去らせることになったとも考えられるからです。
 その若い教師は、聞くところによると、もともと教師という仕事にそれほど魅力を感じていたわけではなく、たまたま就職口の一つとして教員採用試験を受けたら、たまたま採用されてしまった、と以前から友人に語っていたそうです。
 教育委員会が英語教師を採用する際、「英語力」「会話力」という観点だけでなく、「母語力」「人間力」をも考慮に入れた、総合的観点で教員採用をおこなっていれば、その若い教師も英語教師として採用されず、英語力を生かした別の道を選んでいたかもしれません。
 しかし文科省・教育委員会は、「英語力」という観点でしか人間を見れなかったために、ひとりの若者に学級担任という別の拷問を味わせてしまったと言えるのではないでしょうか。
 だとすれば、これも、「英語で授業」という体制・システムが生み出した別のかたちでの拷問でしょう。つまり生徒だけでなく教師も、「英語で授業」とうシステムによって、様々なかたちの拷問にかけられているわけです。 
 中学や高校の教員は教科担任制だと言っても、大学の教員と違って必ず学級担任という仕事をしなければなりません。ですから私がまだ大学に異動する前の、高教教員をしていたとき、教科別の民間教育団体だけでなく全生研(全国生活指導研究会)といったような生活指導の民間教育団体が存在していて、私はその研究会で「人間の見方」「生徒の捉え方」「指導の仕方」を徹底的に鍛えられました。
 ところが最近の学校は、少しでも荒れた生徒がいれば、すぐその生徒を警察や鑑別所に引き渡したり、精神科医に引き渡して「アスペルガー」という病名を与えたりします。私が高校の教員だった頃は、生徒を警察や鑑別所に引き渡したりすることは、学級担任の指導力さの無さの表れであり恥だとする雰囲気がありました。
 先にも述べたように、難病を治す医者こそ名医と言われます。だとすれば「躓いている生徒」に学ぶ意欲を与える教師こそ名教師のはずですが、そのような教師を育てる気風が、教育現場では雲散霧消しかけているように思われます。今の「英語で授業」という体制が、そのような雰囲気を助長しているように思われてなりません。
 現在のような体制では、「トットちゃん」として有名になった黒柳徹子も、ADHD(多動性症候群)の患者として小さいときに精神科送りになったり薬漬けになったりして、タレントとしての黒柳徹子は存在していなかったかも知れません。

 繰り返しになりますが、英語教育に必要なのは、英語力・母語力(日本語力)・人間力という三つの力です。このどれが欠けても教育は機能しません。ところが文科省・教育委員会が求めているのは、ともすると英語力だけなのです。
 そして「英語教育がうまくいかないのは英語教師に会話力がないからだ」として、強制的にTOEICを全員に受験させたり、「英語で授業」の研修会を教育院会主催でおこない、それを強制的に全員に受けさせたりしています。これらもまた、英語教師にとって一種の拷問です。
 なぜなら理科教育や国語教育などを見れば分かるように、英語教師以外は、そのような試験を全員が受ける義務もありませんし、そのような資格試験の点数を問われることもありません。
 しかもTOEICはビネスマン向けに開発されたアメリカ製のテストですから、そのような試験を受けさせられることは無意味だという思いが、英語教師にいっそう強くなります。ですから、なおさら精神的に苦痛であり、拷問に近くなります。
 そのうえ、このような資格試験を、税金を使って受験させるわけですから、その無意味さは二重になります。アメリカの赤字対策のためにTOEICを受験させられることに何の意味があるでしょう。そのようなことに税金を使うくらいなら、夏休みを使って海外研修に出かける自由や金銭的援助を英語教師に与えるべきでしょう。
 ところが現在の学校は、夏休みですら教師を学校に縛りつけ、教育委員会主催の強制研修を受けさせることはしても、英語教師が自分の学びたいと思っている民間教育団体のワークショップや宿泊セミナーに参加する時間的ゆとりを、ほとんど与えられていないのが現実です。
 かつて私の研究所の研究員から「私の中学校では、英語教師の半分しか専任教員がいない。残りは専任または非常勤の講師ばかりです」との便りもいただきました。これでは専任教師の疲労は溜まる一方です。
 さらにまた、最近は高校の修学旅行で海外に出かけることも増えていますから、その交渉も英語教師の負担になっているところも少なくありません。別の研究員から、公用語が英語だからという理由でマレーシアに修学旅行に行くことになり、訪問先の学校との交渉を一手に引きうけさせられて、その負担に喘いでいるという便りもきました。
 つまり今では修学旅行に広島や長崎を訪れることはほとんどなくなってきているらしいのです。
 これでは「英語で授業」という政策は、英語教師を疲弊させているだけでなく、世界で唯一の被爆国なのに広島・長崎の惨状をほとんど知らない若者を大量に育てていくことになります。今では、中沢啓治が自分の被曝体験をもとに描いた『はだしのゲン』という漫画すら、松江市のように、閲覧制限する公立図書館すら出てきているのですから、日本の惨状は推して知るべきでしょう。
 だとすれば、現在の「英語で授業」は、税金を食い潰しながら生徒も教師も疲弊させているだけでなく、平和憲法の土台を掘り崩す悪質な役割すら果たしていることになります。ひょっとして、これが「英語で授業」という政策の真の狙いではないかと疑りたくなります。
 こうして「英語で授業」という政策を震源地とする「英語教育残酷物語」は終わるところがありません。
 しかし、もう十分に長くなったので、一旦ここで今回は打ち止めにしたいと思います。次回は「英語教育残酷物語その4」として、大学教師・村上春樹の「英語で授業」を書きたいと思います。

英語教育残酷物語 「『英語で授業』という名の拷問」その2

英語教育(2019/01/05) 潰瘍性大腸炎、難病指定の「不治」の病、<英語で授業>という名の拷問、「マケレレ原則」という名の植民地的言語政策

森下敬一桜沢如一 (2)


 前回のブログでは、「英語で授業」という文科省の政策で、そういう方針を真面目に実施している学校ほど、生徒の苦悩が深まり、ついに「学力テスト」の答案用紙に、処罰覚悟で担当教師を名指して「○○は死ね」と書く生徒が現れていることを紹介しました。
 そして、その紹介文の末尾を次のように結びました。
 <その男子生徒は、生徒指導部の事情聴取で、「(日本語を使わない授業だから)本文も指示も、何もかもわからなくなってきて、“悪いのは先生”だという気持ちが抑えられなくなった」と言っているそうですから、なおさらのことです。この生徒の言葉は、「英語で授業」という授業のありかたが、生徒にとって一種の拷問であったことを何よりも雄弁に物語っているのではないでしょうか。>

 ところが前回のブログでも紹介したように。「英語で授業」を売り物にしているICU(国際基督教大学)でさえ、ICUで生活する学生には「心理的カウンセリングの支援体制も必要」と言いながら、同時に「実際にカウンセリングが必要な学生も増えて」いるというのです。
 しかも、「学生と目線を合わせて真剣に意見交換をするには、・・・おのずと少人数クラスになります。現在、先生ひとりに学生が19人ですが、これでも多いですね」と学長が言っている大学で、「カウンセリングが必要な学生も増えている」のです。だとすれば、このような支援体制のない学校では、何が起きるでしょうか。
 それを典型的に示してくれたのが上記の高校生でしたが、アメリカに留学した学生でも同じ現象が起きています。
 それを示すのが次に紹介する留学生の例です。これはアメリカに留学した女子学生が潰瘍性大腸炎になり、帰国して医師(石原結實)の指導する断食療法のおかげで救われたという手記です。(石原結實『食べない健康法』PHP文庫2012、182-186頁)
 まず、その原文を下に紹介しますが、結論から先に言うと、その女子学生が潰瘍性大腸炎から救われたのは、石原医師の指導する「伊豆のサナトリウムにおける断食療法」のおかげより、むしろ、アメリカの大学を卒業して4年間の留学生活から解放されたからではなかったか、というのが私の意見です。
 すなわちアメリカの大学で受け続けた「<英語で授業>という拷問」から解放されたからこそ、帰国後の彼女に潰瘍性大腸炎は再発しなかったのです。これが私の判断ですが、以下に紹介する彼女の手記で、それを検証していただければ幸いです。(下線は寺島)

手記4 潰瘍性大腸炎が完治 (N.H.23歳女性)

 ほとんど病院と縁がなく、健康優良を信じて疑わなかった私が潰瘍性大腸炎を発症したのは18歳の秋でした。医師からこの先完治する見込みはなく一生涯入退院をくり返すことになるでしょうとの宣告を受けてから4年。絶え間ない腹痛と下痢に日常生活すらままならなかった日々を思うと、現在の健康は夢のようです。
 病状初期の段階で石原先生の断食療法に巡りあっていなかったら、今でも闘病を続けていたに違いありません。朝日が覚めて体調の良さを実感するたび、ご縁をいただけたことに感謝する毎日です。
 体調不良の兆候が表れたのは高校卒業後の夏に遡ります。9月から米国の大学に入学を控え、受験からの解放にほっと一息ついたものの、対人関係において大きな悩みを抱える時期でもありました。顔と脚の尋常でないむくみと、便に時折混じる血を怪訝に思いつつも、深く気にかけることはなく予定どおり渡米しました。
 予想外に寒い留学先では新環境からくる緊張感と不規則な生活リズム、脂質糖質に偏った食事そして運動不足が病状の進行に拍車をかけたようです。
 下血の量は次第に増え、貧血から動悸、目眩、だるさなどの症状も覚えるようになりました。また大量の寝汗をかき、夜中に何度着替えても朝になると布団がぐっしょり濡れている状態でした。2ヶ月も経たないうちに異常を感じ取った母に説得されて緊急帰国し、潰瘍性大腸炎という病名を初めて知ることになりました。
 診断を受けてすぐ投与された鉄剤やステロイドなどの薬品は体に合わず、西洋的な薬による治療は続けられないと実感しました。そんな折に断食療法を長く続けける叔母から勧められたのが伊豆のサナトリウムです。
 初めて石原先生に診察していただいた時のことは忘れられません。私の胃の上を叩かれてぽちゃぽちゃと水音がするのを確かめられると、「水毒です」とおっしゃって、冷えから余分な水分が溜まり病気に至る因果関係を鮮やかに説明してくださいました。
 それまでは病因は解明されていないと信じていたので、その明快な理論に目からうろこが落ちるような思いでした。何よりも先生の気さくなお人柄が、痛みと不安で暗く落ち込んだ心にはこの上なくありがたく、「絶対治りますよ」と断言していただいたことを励みに、この療法で治そうと決心しました。
 断食の効果はすぐに現れ、下血の量も下痢の回数も驚くほど少なくなって、翌年の2月には復学できるほどに回復しました。留学先では人参ジュースなどの入手が困難なため、日本と同じ食事療法は続けられませんでしたが、それでも少食と体を温めることに留意して体調を保ち続けました。
 朝食の代わりに紅茶に粉末生姜を混ぜたものを飲み、また腹巻の着用は常に忘れず、寒い季節にはホッカイロを重宝しました。それでも学期末にはどうしても体調が衰えてしまうので、冬と夏の長期休暇中には必ずサナトリウムでの断食で一気に回復してまた新学期に挑む、という生活をくり返していました。
 発症から2年目、期末試験を終えた後、症状が急激に悪化し、水を飲んでもお腹を下して、脱水症状と体力の消耗とでほとんど寝たきりの状態になってしまったことがありました。友人たちに入院を強く勧められましたが数日後の帰国まで耐えられたらサナトリウムで回復できるとの思いで、西洋的な施術を断固拒否し続けました。
 今にしてみると究極の選択だったと思います。なんとか伊豆に辿り着いて2週間近い断食を続け、危険な状態からは脱することができました。そしてこのときを最後に症状が完全に治まり、痛みに苦しむことのない生活が甦りました。
 潰瘍性大腸炎が完治した現在でも、石原先生に教えていただいた健康法は守り続けています。朝食は摂らず、魔法瓶につめた生姜紅茶を午前中ずっと飲み続け、昼は小豆を炊き込んだ玄米に大根おろしとお味噌汁、夜の食事には特に制限を設けませんが、野菜を主とした和食を好んで食べます。
 關病生活から得た収穫として、目で欲しいと思うものと体が摂りたいとするものの違いがわかるようになったことがあります。以前は牛乳や甘い砂糖菓子、塩味の薄く水分の多い陰性食品に嗜好が偏っていましたが、今ではあまり食べたいという欲求が起こりません。
 また、体の出す冷えのサインに敏感になり、体温の低下を未然に防げるようになりました。盛夏でも腹巻を欠かしたことはありません。症状が出てしまった病気を治癒するだけではなく、未病の段階で発症を防ぐ術を身につけさせていただいたと、心から感謝しております。(石原優實『食べない健康法』PHP文庫、2012、pp.182-186)


 以上の手記を読んでお分かりだと思いますが、NHさんは、石原医師の言いつけどおり、少食と体を温めることに留意して体調を保ち続けましたが、「それでも学期末にはどうしても体調が衰えてしまうので、冬と夏の長期休暇中には必ずサナトリウムでの断食で一気に回復して、また新学期に挑む、という生活をくり返していた」のです。
 つまりアメリカの大学では、授業に出れば<「英語で授業」の拷問>が待っているわけですから、心とからだが休まる暇がありません。ですから学期末にはどうしても体の不調が始まってしまいます。その追い詰められた体に休息と安息を与えてくれたのが、伊豆のサナトリウムにおける断食療法でした。
 断食療法が大きな医療効果をもつことは古来いろいろなかたちで試されていますから、この治療法が彼女の潰瘍性大腸炎を直すのに役立ったことは否定しません。しかし、彼女がアメリカに帰れば、また潰瘍性大腸炎が再発するのですから、最終的な解決にならないことは明白です。
 彼女の潰瘍性大腸炎の最終的解決になったのは、4年間の留学生活を終え、「<英語で授業>という拷問」から解放されたときでした。ですから帰国して一度も再発しないのは、ある意味で当然のことだったのです。その喜びを彼女は手記の冒頭で次のように述べています。
 「医師からこの先完治する見込みはなく一生涯入退院をくり返すことになるでしょうとの宣告を受けてから4年。絶え間ない腹痛と下痢に日常生活すらままならなかった日々を思うと、現在の健康は夢のようです。」

 ご承知のとおり潰瘍性大腸炎は、「病因が解明されていない」とされている「難病指定の病気」です。つまり「不治の病」と言われているのですが、潰瘍性大腸炎が何らかの大きなストレスをかかえているひとに発症することは、多くの症例が示しています。
 西洋医学に頼らずに自分の潰瘍性大腸炎を治して一躍有名になった西本真司医師も、29歳のときにこの病気を発症したときは、研修医として熊本赤十字病院に勤務しており、特にその前の月はほぼ24時間、働きづめの毎日だったそうです。その後、約7年をかけてさまざまな療法を試し、結局たどり着いたのが自己免疫力をたかめる「代替治療」でした。
 西本医師は、自分の潰瘍性大腸炎を完治させた体験、自分の患者の潰瘍性大腸炎を完治させた治験から、その結論を次のように述べています。

 私自身もそうでしたが、家族の中でも兄と弟に挟まれて、他人や周囲に気を遣いつつ、物事がうまくいかないときは自分を責める癖がありました。潰瘍性大腸炎は自己免疫疾患です。つまり、自分の免疫が自分の健康な細胞を攻撃してしまう。患者さんは、いわば自分で自分を責める思考が体の細胞レベルでも展開されているのです。このことに気づいてからは、(「断食」などによる)治療と共に、患者さんの心理的な問題を探し出し、問題が解決できるよう患者さんと一緒に取り組むようにしました。(中略)
 代替療法を取り入れることには賛否があると思います。ただし症状にフタをするだけの治療では根治はしません。やはり、その人の根本部分から病気の原因を取り除き、時間がかかっても体を変えていくという取り組みが必要です。それには代替療法は有効なものだといえます。
(潰瘍性大腸炎は本当に“不治の病”なのか―自らの難病を克服した医師の教え)
https://president.jp/articles/-/24146?page=3


 この病気の怖いところは、再燃を繰り返すということです。西洋薬による治療で改善はされるのですが、2度、3度と再燃を繰り返し、そのたびに症状が重くなっていきます。にもかかわらず、根本的な原因を取り除き、東洋医学を中心とする「粗食少食」「玄米菜食」「代替療法」で潰瘍性大腸炎は治るのです。
 ところが歴代の政府は、潰瘍性大腸炎など治るはずの病気も難病指定して、医療機関を儲けさせる政策に邁進し、他方で「医療費が高騰しているから」という理由で消費税増税を打ち打ち出す始末です。その一方で、医療費に回るはずの消費税は、いつのまにかアメリカ製の高額兵器を購入する財源に化けてしまっています。
 これでは庶民の苦悩は尽きることがありません。生徒・学生の「<英語で授業>という名の拷問」も、安倍政権が続くかぎり、終わることはなさそうです。次回のブログでは、生徒・学生ではなく、教師・教授が「<英語で授業>という拷問」でいかに苦しんでいるかを紹介したいと思います。

<註> 実を言うと私も石原医師の「サナトリウムにおける断食療法」を体験したくて伊豆に出かけて、味噌汁・生姜紅茶・ニンジンジュース(とサウナ風呂)だけの4泊5日を過ごしました。私はその頃すでに少食・玄米菜食の毎日をすごしていましたから、この4泊5日を特に苦痛とは感じませんでした。
 しかし、多くのひとは、「美食大食」「肉乳食(←→穀菜食)」に慣れきっていて、そこから抜け出す道を求めて伊豆に来ていることを知りました。ここに来るひとたちは、それほど肥満体が多く、しかも自力で「断食」する気力・意志力がないので、サナトリウムに自分を閉じ込めることによって地獄から脱出しようとしていたのでした。
 このサナトリウムに来て、そのことがよく分かりました。
 なお「肉乳食」「美食大食」をやめ、「穀菜食」「粗食少食」で健康を取りもどしたいひとには、森下敬一や桜沢如一の一読をおすすめします。また森下自然医学の言う「自然食」と「自然医食」の違いにも留意してください。
 ちなみに、桜沢如一の『ゼン・マクロビオティック』は、岡倉天心の『茶の本』と同じく、まず英語で書かれ、アメリカで出版されました。

英語教育残酷物語 <「英語で授業」という名の拷問>その1

英語教育(2018/12/08) 「英語で授業」のイデオロギー、英語大好き人間VS英語恐怖症の生徒、心理的カウンセリングの支援体制

『英語にとって教師とは何か』 『英語教育が亡びるとき』で

 最近の国立大学でさえ1年に何回も入試があるので、その問題作成と採点で疲れ切っています。文科省は「世界ランキング○○位に入る大学を目指せ」と上から圧力をかけているのですが、こんな状態では研究に専念する時間が奪われる一方です。
 そのうえ上意下達の無駄な会議や教授会を乱発し出欠点検ばかりに熱心だが、教師に自由に研究する時間とお金をださないという大学運営も、大学教師を疲弊させています。これではノーベル賞をとる研究など望むベクもありません。
 そう言えば、本庶佑氏を初めとする日本人のノーベル賞受賞者も、かつて日本の大学が法人化される以前の、まだまだ自由の雰囲気が溢れていた時代に研究生活を送ったひとたちばかりです。本庶佑氏も1942年生まれの高齢者です。
 今は政府が軍事費をうなぎ登りに増やす一方で、国立大学への交付金は一貫して減らし続けているのですから、大学研究者は民間資金を得るために奔走したり、外部研究費を得るための書類づくりに膨大な時間と精力を奪われています。
 こうして、肝心の研究をする時間が減少し精力が大量に消耗させられています。
 おまけに最近は大学までもが、「共通科目」を「英語で授業おこなう」ことを要請され、教師も学生も、ますます多忙化を極めています。本庶佑氏も、若いときから英語学習のみに時間と精力を奪われていたら、おそらく今日のノーベル賞受賞はありえなかったでしょう。
 自由であるべき大学でさえこんな状態なのですから、高校以下の教育現場はもっと悲惨であることは疑いありません。そう思っていた矢先に、ある高校教師(前川さん=仮名)から下記のようなメールが届きました。

 10月半ばに中間考査があり、その採点を済ませ、得点入力が終わったと思ったら⒒月初めに「学力テスト」というよくわからない実力テストがあり、その採点、成績処理が終わったところで、もう今週半ばからは期末試験週間に入りました。
 今はその試験の問題作成です。その途中にも教材研究と教材作成などがあり、このところ土日も学校か家で仕事で、休養できていません。
 先日、校長面談があったので、私は「試験漬け」はやめて欲しいと強く要求しました。度重なるテストで生徒だけでなく教師も疲れ切っているからです。
 そんなふうで、肉体的疲労がある中で、事件が起きました。一年生の生徒が英語の学力テストの答案用紙に、教科担任の名前を出して「○○死ね」と書き込んだのです。○○先生は流暢な英語を使って「英語による英語」の授業をスラスラ進める女性教諭です。
 生徒指導部の事情聴取でその男子生徒は、「本文も指示も、何もかもわからなくなってきて、”悪いのは先生”だという気持ちが抑えられなくなった」と言っているそうです。私は「とうとう来たか」という気がして気持ちが沈んでしまい、余計に疲れを感じてしまいました。


 前川さんは、上記で「<とうとう来たか>という気がして気持ちが沈んでしまい、余計に疲れを感じてしまいます」と書いているのですが、私は、これを読んでむしろ一縷の光を見出した気がしました。
 というのは、「英語で授業」という文科省・指導要領の政策は、生徒と教師を疲弊させるだけで教育効果はゼロどころかマイナスになりかねないのですから、いつか必ず何かが起きるのではないかと思っていたからです。
 かつて生徒が英語女教師をナイフで刺す時間が起きましたが、同じことがおきるのではないかという不安です。前川さんも上記のメールで、「とうとう来たか」という気がして・・・と書いているのですから、彼も同じ不安を感じていたことが分かります。
 まさにその不安が的中したわけですが、その一方で、この事件をきっかけに「英語で授業」という文科省や教育委員会の方針に現場から疑問の声が出てくるのではないかと私は期待したからです。「これを読んでむしろ一縷の光を見出した気がしました」と書いた所以です。
 この生徒は、「学力テスト」の答案に、処罰覚悟で、「<英語で授業>という拷問」を告発したのですから、前川さんはその勇気をむしろ褒めてやるべきではなかったのか、「落ち込む」どころか、むしろ「よくぞやった!」と、生徒の行動をバネに、元気を回復すべきではなかったかと思ったのです。
 日頃から管理職や教育委員会から、英語の授業では「日本語を使うな英語だけででやれ」という強い圧力があり、疑問を感じていてもそれに異を唱える自由のない職場では、なかなか声を上げることは難しいでしょうが、こんな事件が起きれば「やはり来るべきものがきた」ということで、意見を言いやすくなるはずだからです。
  文科省による「<英語で授業>という拷問」から生徒を守るべきなのは、本来は、教師なのですから、こんなときこそ英語教師には声を上げてほしかったのです。
 その男子生徒は、生徒指導部の事情聴取で、「(日本語を使わない授業だから)本文も指示も、何もかもわからなくなってきて、”悪いのは先生”だという気持ちが抑えられなくなった」と言っているそうですから、なおさらのことです。
 この生徒の言葉は、<英語で授業>という授業のありかたが、生徒にとって一種の拷問であったことを何よりも雄弁に物語っているのではないでしょうか。


 今度の事件がショックでその女教師も何か反省を迫られたのであれば、それはそれでよかったのですが、前川さんに電話で聞いたかぎりでは、そのようすもなかったようで、それが私のとって大きなショックでした。
 流暢な英語を使って「英語による英語」の授業をスラスラ進めるその女性教諭にとっては、「私のどこが悪いのよ」「私は文科省や教育委員会の言いつけどおり、『英語による英語』の授業を忠実にやっているだけです」と言いたかったのかも知れません。
 中学校で女性英語教教師が刺された事件については「女性教師と英語教育」(『英語にとって教師とは何か』第Ⅱ部第5章(あすなろ社)でも詳しく論じました。英語教師は「英語大好き人間」が多いので、ともすると「英語には興味関心があるが人間や社会にはあまり関心がないひと」が少なくないように思います。
 <英語による授業>は、英語が大好きで「英語を話せる自分」を生徒の前に披露したい教師には、最高の場かも知れませんが、意味不明の英語を 1時間じゅう聞き続けていなければならない生徒にとっては拷問以外の何物でもないでしょう。
 国際基督教大学(ICU)と言えば、4年間すべてが教養課程(リベラル・アーツ)であり、英語で授業がおこなわれる大学として有名ですが、その大学の学長である鈴木典比古氏でさえ『TOEFLメールマガジン36号』で、次のように言っていることに注目してください。(https://www.cieej.or.jp/toefl/mailmagazine/mm36/icu.html#top、下線は寺島)

 ICUでは「英語でリベラル・アーツを」がキャッチフレーズですから、英語は授業を受けるための手段です。新入生はほっとする間もなく、入学式の翌日にはTOEFL-ITPを使ったプレイスメントテストで英語のレベルを判別し、クラス分けされます。そこからもう英語がどんどん始まります。
 すごいカルチャーショックもあるでしょうが、これがなるほど大学の勉強かと受け止めざるを得ない。初めにジャポーンとELP(English Language Program)に飛び込み、訳もわからず、犬かきでもなんでもいいから泳ぎだすのが一学期ですから、おそらくかなり大変だと思います。しかしこの1年間の悪戦苦闘が、実は大きな違いを生み出します。(中略)
  学生が積極的に考え方と生き方の基礎を学び、自己表現を会得するには、バランスのとれたリベラル・アーツ教育が必要です。そのためには心理的カウンセリングの支援体制も必要です。実際にカウンセリングが必要な学生も増えています


 つまり、ICUのように英語漬けになることを覚悟の上で、入学した学生でも、「心理的カウンセリングの支援体制も必要で」、かつ「実際にカウンセリングが必要な学生も増えて」いるというのです。
 ましてや英語嫌いの生徒も多く含まれているはずの中学高校で英語漬けにされたらノイローゼ(精神不安定)になるのは当然とも言えます。だからこそICUでは「心理的カウンセリングの支援体制」を整備した上で「英語で授業」をおこなっているのに、公立高校校ではそのような支援体制なしに「英語で授業」が強行されているのです。
 しかも、ここで鈴木氏は「学生と目線を合わせて真剣に意見交換をするには、・・・おのずと少人数クラスになります。現在、先生ひとりに学生が19人ですが、これでも多いですね」と言っているのです。
 ところが今の学校では、こんな贅沢な環境は英語の授業に保証されていません。だから馬鹿げた指導要領のもとで、多数の生徒を前に教師がひとりで英語による説明や指示を続けていく授業にならざるをえません。
 これでは、いったん落ちこぼれた生徒は、英語という海のなかで溺れ死ぬ以外になくなるでしょう。しかし哀しいことに、そのことにたいする生徒の不安や恐怖にもっとも鈍感なのが、ともすると「真面目で」かつ「英語大好き」の女教師であることが少なくないのです。
 その結果が先述の「中学生が女教師をナイフで刺す」という事件だったのですが、それが今回は「○○死ね」と教科担任のテスト用紙に書き込んだのが事件となったわけです。

 ところで、鈴木典比古学長は『TOEFLメールマガジン36号』で、次のような興味深いことも述べています。
 「国際化というと英語で全て行うことだと思われがちですが、本来なら英語と日本語で行うべきだと考えます。最近は留学生が、ICUにきたのは日本語で授業を受けられるようになるためだと言って、親切心で英語を使っても逆に嫌がったりしますよ。」
 鈴木典比古氏は上記で、「国際化というと英語で全て行うことだと思われがちですが、本来なら英語と日本語で行うべきだと考えます」と言っているのです。
 つまり、この記事を読むかぎり、ICUでさえ「英語だけで授業」があるのは、新入生のELPプログラム1年間のみで、あとは「本来どおり」日本語と英語の両方を使うと言っているのです。それでも、ICUは少人数体制で、しかも心理的カウンセリングの支援体制があるのです。
 英語漬けになるのを覚悟で、英語大好き人間が入学してくるICUでさえ、このような支援体制を整えてELPの授業をおこなっているのに、そのような体制なしに多人数の中学高校の普通クラスで「英語で授業」をおこなうことが、いかに無謀かつ無意味か。それを、この事件はよく示してくれたように思います。
 というよりも、そもそも普通の中学や高校で「英語だけでおこなう授業」は、「本来」あってはならないことなのです。英語教育の効果から言っても、「害あって益なし」なのですから。

<註> 鈴木典比古死は、ICU学長としては「本来なら英語と日本語で行うべきだ」と言っていたのに、朝日新聞「争論:大学生は英語で学べ」(2014年7月3日)に載ったインタビューでは、私との論争で、「日本語は使うな、英語で学べ」と主張しているのですから、実に不可解な話です。秋田国際大学学長になったとたんに、自分の主張を変えたのでしょうか。


大学入試「民営化」で苦悩する高校、荒廃する大学――季刊誌『I B』 2018夏季特集号の反響3

英語教育(20181024)、大学入試、主体性評価、e-portfolio、「発話力、スピーキング力」の試験、外部試験という名の「民営化」、CEFR (Common European Framework of Reference for Languages ヨーロッパ言語共通参照枠)

213893.jpg 66049.jpg

 沖縄県知事選に引き続き、那覇市長選でも米軍基地反対派が勝利しました。アメリカにとっても安倍政権にとっても手痛い打撃になったことでしょう。もっと大きな衝撃を受けたのは、自民党の傭兵部隊となって選挙戦を闘った公明党・創価学会だったかも知れません。 
 他方、視野を国外に転じると、アメリカは相変わらず混迷と孤立を続けています。一方ではサウジアラビア政府が関与していると強く疑われている殺人事件をトランプ政権は擁護する姿勢を崩していませんし、もう一方ではで中距離核戦力(INF)廃棄条約からも脱退する意向を表明しているからです。
 このようなアメリカの行動に、EUなどの同盟国すらアメリカに対する反感を隠していません。しかし、このように混迷と孤立を続けるアメリカを、あくまで擁護しようとしているのが、東西2匹のプードル犬、すなわち日本と英国です。アメリカから自立する姿勢を強めている韓国やフィリピンの姿と比べると、日本の現状は哀しいかぎりです。
 それをある意味で象徴的に示すが、国民をあくまで英語漬けにしようという安倍政権の外国語政策でしょう。
 このような英語に対する姿勢は外交文書・経済政策にも露骨に顕れています。なにしろトランプ氏が脱退を表明した後、TPPを主導してきたのが日本でありながら、正式な文書が日本語でつくられず、国会でその是非を議論しようにも、英語版しか手に入らないていたらくでした。

 これと同じことが教育現場でも横行しています。その典型例が「日本語を使うな、英語教育は英語だけでおこなえ」という政策でしょう。しかも現場の教師はアメリカからの輸入商品である試験(TOEIC)を、「英語教師に対する研修」という口実で、強制的に受験させられている都道府県が少なくないのです。
 表向きは「英語教育のため」と称しながら、実はアメリカの赤字財政を救うために、英語教育と英語教師が、人身御供としてアメリカ資本に差し出されているわけです。イラク戦争が「大量破壊兵器の存在」を口実にしながら、本当の理由は「イラクの石油」「ドルからの自立を目指すフセイン政権の打倒」だったのと同じ構造と言うべきでしょう。
 安倍政権が同じ口実で、もっと大規模におこなおうとしたのが、「スピーキング力を測る」という口実で、大学入試「英語」を民営化しようとする政策でした。つまり大学入試の科目で英語だけを切り離して、民間企業に任せようとする政策です。
 このような民営化政策が出始めたとき、政府・文科省が初めの頃しきりに口にしていたのが、やはりアメリカ資本の資格試験TOEIC、TOEFLを英語入試として採用し、それを受験生に受けさせるという政策でした。
 すでに日本の多くの大学では、「日本の大学の国際競争力を高めるため」という口実で、TOEICというビジネスマン向けの資格試験が、理工系の学部でさえ、強制または推奨されていましたが、今度はアメリカの大学に留学するための資格試験であるTOEFLまでも追加されたのです。
 アメリカ資本にとっては、こんなに美味しい話はないでしょう。 何しろ以前は会場も試験監督も自費で用意しなければならなかったのに、大学側がそれをやってくれるようになっただけでも有難かったのに、今度は大学入試という口実で、個々の大学ではなく国家が自ら全国に檄を飛ばして、TOEICやTOEFLを受験生全員に受けさせてくれるわけですから、アメリカ資本にとっては笑いが止まらない話です。
 しかし、これには日本の民間企業もさすがに我慢がならなかったのでしょう。「なぜ外国の試験でなければならないのか」「なぜ日本の企業が開発した試験ではいけないのか」というわけです。こうして資格試験の老舗である英検(日本英語検定協会のいわゆる実用英語技能検定)や進研模試で有名だった企業ベネッセだけでなく、他にも多くの企業が名乗りをあげました。

 こうして今や大学入試は混乱の真っただ中です。このような状況のなかで発行された季刊誌『IB』2018夏季特集号への反響も大きかったのだと思います。先日も、ある県の高校教師(英語)から、私宛に便りが届きました。以下がそのメールです。

寺島先生
 ご無沙汰しております。この度は、I.Bを送っていただきありがとうございます。
 この間、大学入試改革が本当にいろいろと進み、昨年より母校の進路指導部長をしているので、立場上その情報を追いかけるのに大変です。
 進路指導主事の会議では、「大学側の主体性評価」と「英語4技能の民間テスト」の話題でもちきりです。ただし、どちらもあまり文科省の思惑どおりには進んでいないようですが。
 「主体性評価」の目玉「e-portfolio」なるものは、私の予想では当分は広まらず、各大学における調査書だけでの評価になる気がします。「4技能テスト」も、CEFRの段階との適合があやしいので、各大学とも相当低い得点化になるような気もします。
 それでもセンター試験は、「共通テスト」と名前を変え、英語は現6年生が高3になるまでは、民間テストと併用で、当分は残るものの、リスニングとリーディングだけとなるようです。文法問題や発音アクセント問題、並べ替え問題はなくなります。
 英語入試改革の目玉は「英語4技能の試験」、とりわけ「スピーキング力の試験」だったはずが、センター試験は、なぜか2技能となるのは変な感じです。ベネッセが、英語資格試験のGTECだけでなく、「主体性評価」では「e-portfolio」なるものも売り出しはじめ、この分野で独り勝ちしそうなのも気になっています。

 季刊誌 IB 夏季特集号で書かれていた「英語で授業」は、以前にも話しましたように、予想通り、現場では、「できる教師はやり過ごす」ってなっていると感じていたのですが、茨城だけなんでしょうか?
 確かに、この間の動きで、生徒に英語を話させる時間はだいぶ以前より増えていると思いますが、教師が日本語を使わず英語だけでおこなうというのは、実際の授業では、生徒にとっても教師にとっても迷惑極まりないものですから、それほど多くの人が、以前よりやっているとは感じていませんでした。
 しかし、「やらないと法律違反」とまで言うお偉い方が今もいるとは驚きです。もっとも、今の文科省教科調査官(英語)の女性は私の県で指導主事をしていた方ですが、何かの会合で、英語でやらないと「単位未履修」になると言って、陰で笑われていました。が、そういうことを言っていた方があそこまで出世すると笑えませんね。

残暑厳しい日が続くかと思いますが、お体ご自愛ください。

追伸:私の隣の席に、年配の先生が座っていらっしゃるのですが、寺島先生のブログを紹介したらファンになって、ブログを楽しみにしています。本も数冊、貸し出しました。この先生は、先生のブログを読んでいたからか、トランプ当選を予想していて、生徒の前でも宣言していた強者です。


 いただいたメールによると、進路指導主事の会議では、「大学側の主体性評価」と「英語4技能の民間テスト」の話題でもちきりだとのことですが、「主体性評価」とは受験生の能力を入試の成績だけで判断するのではなく、受験生の「主体性」も評価の対象に入れろということです。
 しかし、こんなことを大学側に要求したら、今でさえ文科省が大学への地方交付金を削減しつつあるなかで資金繰りのため多忙化を極めている大学は、あっという間にパンクしてしまうでしょう。大学に「世界ランキングの上昇をめざせ」という強い要求を出しながら、こんなことを同時に押しつけたら、大学教員に研究する時間もゆとりもなくなります。
 なぜなら「主体性評価」の目玉「e-portfolio」なるものは、デジタル大辞泉の解説によれば、「生徒学生の日々の学習や活動の記録を電子化したもの」「生徒学生が提出したレポート、教員からのコメント、部活動や課外活動の記録などのデータ」だからです。
 最近では、年に何回もおこなわれるようになった入試業務だけでも疲弊している大学現場で、高校側から提出された膨大な受験生のデータを読んで評価する暇がどこにあるのでしょうか。また高校側でも、最近はますます正教員が減らされているのですから、高校現場も疲弊します。
 そこで「待ってました」とばかりに登場するのが民間の教育産業です。今や税金を食いものにした民間企業が大手を振ってまかりとおる時代になってきたようです。一般市民が貧困化し、ものが買えなくなってきたので、民間企業は政府に商品を買わせようとするわけです。その絶好の機会として大学入試に目を付けたのでしょう。


  他方、大学入試「英語」についても、いただいたメールでは、「4技能テストも、CEFRの段階との適合があやしいので、各大学とも相当低い得点化になるような気もします」とありました。
 ここで言われている「CEFR」とは、“Common European Framework of Reference for Languages”の略で、「ヨーロッパ言語共通参照枠」の意味です。名称にもあるように、この「ものさし」はヨーロッパで作られたものです
 この「ものさし」を、英検、TOEIC、TOEFLなどを受けた受験生の能力を測る共通の道具として使おうというのが文科省の考えですが、もともと目的が違って開発されたものを(たとえばTOEFLは留学生用、TOEICはビジネス用)、強引に大学入試にも利用しようというのですから、初めから無理な話なのです。
 またCEFRはEU加盟国の人間が国境を越えて自由に交流できるようになったことを反映してつくられたものです。ですから「最低二つの外国語を習得しよう」を合言葉にしていますが、「4技能の習得」を目標に掲げていません。そのひとが必要な外国語能力、たとえば「読むこと」だけが必要な人は、それでよしとされているのです。
 ところが文科省は大学入試で「4技能」を掲げ、とりわけ「スピーキング力」を測る試験が必要だからという理由で、入試の英語を民間に丸投げするという施策をとりました。しかし「スピーキング力」を測る試験が必要だというのであれば国家が責任をもって、そのような試験を開発すればよいのであって民営化する必要は全くありません。
 要するに、イラク戦争の時と同じように、表向きの理由とは別の、隠された本音があるのです。つまり、英語の入試を民間に丸投げする本当の理由は、「教育を民営化」し、企業を儲けさせることにあるのです。つまり政府、文科省の政策は、教育の論理ではなく経済の論理で動いているのです。

 前回のブログで紹介したように、羽籐由美氏(京都工芸繊維大学教授)は、「大学入試でスピーキングの試験をするのは反対ではないが、それを種々雑多な民間会社に丸投げするのは無責任であり、受験生にとっても公平な制度ではない」と主張し、その理由を『検証、迷走する大学入試』(岩波ブックレット)のなかで詳しく述べています。
 これは私の意見と似ているようですが、実は似て非なるものです。なぜなら彼女は、「そもそも大学入試でスピーキングの試験をすることは本当に必要なのか」ということを深く考察していないからです。私は大学入試で「発話力=スピーキング力」を測る必要はないと考えているからです。そんなことをしようとすれば莫大な費用と時間がかかります。
 羽籐由美氏が主張するように、「スピーキング力」を測る試験が必要だというのであれば国家が責任をもって、そのような試験を開発すればよいのであって民営化する必要は全くありません。ノーベル賞の受賞者を続出させている日本人の頭脳をもってすれば、そのような試験を開発することは不可能ではないはずなのです。
 そのためにこそ国立の教育政策研究所があるのです。わざわざ外国の商品を輸入する必要もありませんし、民間企業に頼る必要もありません。しかし、そのような「発話力テスト」が開発されたとしても、そのような試験を実施するためには膨大な費用と人員と手間暇がかかります。それは現在の「聴解力テスト」を見れば分かります。
 また、そもそも受験生の本当の「発話力」を測りたいのであれば、英検が今までおこなってきたように、試験官が受験生と一対一の会話を試みる以外にありません。しかし膨大な数の受験生を相手に、そんなことをできるはずもありません。その対策として試験官の数を多くすれば、今度は評価に統一性と客観性が失われていきます。
 これらの弱点を回避するためにインターネットや電子機器を利用する方法も考えられます。実は羽籐由美氏の研究テーマは、まさに「インターネットや電子機器を利用する方法」でした。少しずつ光が見え始めたときに文科省がいきなり民間に丸投げするという政策を発表したのですから、彼女の怒りもひとしおだったことでしょう。
 しかし国が総力をあげて電子機器を利用した「発話力テスト」を開発したとしても、多分それは「真の発話力を試すテスト」にはなりえないでしょう。なぜなら、前述のとおり、受験生の本当の「発話力」を測りたいのであれば、試験官が受験生と一対一の会話を試みる以外にないからです。
 電子機器を利用した「発話力テスト」は、電子機器にのるような問題しか出題できません。ですから本当の発話力をためす試験になりようがないのです。しかも、試験当日も、莫大な費用と人員をかけて全国に会場を用意しなければなりません。つまり、この試験のためにかけたコストに見合った成果を、あまり期待できないのです。


 これは既におこなわれている「聴解力テスト」についても言えることです。同時通訳者として有名だった鳥飼玖美子氏は、「現在おこなわれている聴解力テストは電子機器を提供する企業をもうけさせているだけで、真の聴解力テストとしては役立たない。なぜなら真の聴解力は分からなかったら聞き返す能力だからだ」と述べています。しかし鳥飼氏は現在の聴解力テストに代わる代案を提出していません。
 では現在の聴解力テストの代案として何が考えられるでしょうか。その一番簡単な方法は「直読直解する力」を試すテストです。従来のような「語彙力」「文法力」「精読力」を試すテストではなく「速読力」を試すテストです。読みには「素読」「精読」「味読」の3種類があると言われていますが、「聴解力」の代用として「素読力」「速読力」を試すテストにするわけです。
 こうすれば莫大な費用をかけておこなわれてきた「聴解力テスト」をおこう必要がなくなり巨大な省エネになります。受験生のストレスも回避されますし、聴解力試験を用意したり、試験場に駆り出される教員の、巨大な精神的負担も解消されます。なにしろ現在の試験会場は「針が1本落ちる音」すら許されないのですから、会場で立ち番する教員のそのストレスたるや大変なものです。
 それはともかく、「素読力」「速読力」を試すテストが、なぜ「聴解力」の代用になるのでしょうか。それは「速読力」なしには「聴解力」は成立しようがないからです。音声は瞬間的に消えて行きますが、文字は消えていきません。しかも文字の場合、速読しようと思っても少し意味がとれないと思ったら、立ち止まって考えたり少し前にもどって読み直すことできます。ところが音声の場合、この作業ができません。
 つまり言い換えれば、文字ですら「直読直解」ができないひとが、瞬間的に消えて行く音声の「直聴直解」をできるはずがないのです。だから「速読力」を試すテストは、間接的に「聴解力」を測るテストになりうるのです。従来の英語入試の「読解力テスト」に、新し問題を付け加えるだけでよいのです。こうすれば何度も言うように、現在の「聴解力テスト」に浪費されている時間・費用・精力を大きく節約でき、教員の研究成果もあがります。

253459.jpg 魔法の英会話

 このように言うと、「それでは現場の英語教育は元の木阿弥で、読み書き中心の授業に戻ってしまう」という声が聞こえてきそうです。しかし文科省が「英語を話せない日本人」を殺し文句にして、コミュニケーション中心の授業を推進すればするほど若者の英語力は低下しているのです。これは文科省の調査そのものがよく示しています。私の言う「ザルみず効果」です。
 もちろん、英語には同時通訳の草分け國弘正雄氏の言う「音の化学変化」がありますから「速読力」をつけただけでは聞けるようになりません。語の音声を習得するには独自の方法が必要になります。しかし私たち研究所の実践が証明しているように、聴く力を伸ばす最もよい方法は「英語のリズムで音読する」という方法です。
 不思議に思われるかも知れませんが、聴解力を伸ばすのに最も良い方法は、「繰り返し聞く」ことではなく、英語のリズムで「音読する」ことなのです。つまり「聴解力」は再び「読み」に戻るわけです。とりわけ「音読力」です。生徒・学生に「英音法」についての基本的知識を与えながら「リズムよみ」させれば、「音の化学変化」を着実に身につけ、いつのまにか聞けるようになっているのです。
 ところが文科省は「会話力」「コミュニケーション」ばかりを声高に叫んでいるので、教科書の音読は投げ捨てられ、現場の授業では教科書に出てくるフレーズを使った「会話ごっこ」ばかりが氾濫することになっています。これでは、いつまでたっても、聴解力はおろか読解力も身につきません。ですから文科省が「会話力」を強調すればするほど生徒の英語力が低下するのは当然なのです。
 実を言うと、教育現場では「読むこと」がきちんと教えられていないのです。どうすれば「直読直解」ができるようになるのか、その手順が全く教えられていません。それを素っ飛ばして「会話ごっこ」ばかりやらせるから学力が低下しても当然なのです。読みには先述のように「素読→精読→味読」の三段階がありますが、その区別さえ知らない英語教師も少なくありません。
 私たちの研究所では、この三つの読みを、「構造読み」→「形象読み」→「主題読み」、あるいは「構造読み」→「要約読み」→「要旨読み」という方法で教えていますが、このような丁寧な読解指導なしには、真に役立つ英語力が身につくとはとても思えません。文科省の言う「英語で授業」や「会話ごっこ」では、批判的・創造的に読むちから(Critical reading, Creative reading)は、永遠に育たないからです。
 (以上で述べてきた寺島メソッドについては『寺島メソッド 英語アクティブラーニング』(明石書店2016)がありますから興味のある方は、ぜひ参照してみてください。)


 さて最後に残された課題として「大学入試の発話力テスト」をどうするかという問題があります。電子機器を使った「発話力テスト」は問題が多すぎるとすれば、その代案として何があるかという問題です。
 結論から先に言うと、私は「発話力テスト」の代案として「自由英作文テスト」が、電子機器を使った「発話力テスト」と違って、入試にかかる莫大な費用もかからず、生徒の会話力を底上げする最も良い土台を提供することになると思っています。
 つまり現在の英語入試と切り離して、「自由英作文テスト」を、「発話力テスト」の代案として、設定するわけです。従来も英語入試にも「英作文」の問題が出されているのですが、採点が面倒だからという理由で、あらかじめ与えられた日本文を英訳する「和文英訳」の問題が多かったのです。
 たしかに「自由英作文」の採点は手間ひまがかかります。しかし電子機器を使った「発話力テスト」にかかる巨大な費用のことを考えれば、「自由英作文」にかかる費用や手間ひまは、許容範囲に入るのではないでしょうか。フランスでは有名なバカロレアという全国統一の学力試験がありますが、どの科目に関しても、記述式のものばかりです。この採点には膨大な手間ひまがかかります。
 バカロレアには、解答選択や穴埋めなどはありません。例えば歴史・地理の問題は、「第二次世界大戦以降の、中東と近東における紛争について説明せよ」というようなもので、これについて年号なども入れながら、論文形式で解答しなければならないのです。フランスでやっていることが、なぜ日本ではできないのでしょうか。私の提案は全科目ではなく「自由英作文」だけという提案なのです。
 ところで「自由英作文」の試験は、なぜ「発話力テスト」の代案になるのでしょうか。それは「書く力があるひとで話せない人はほとんどいない」という事実です。日本語を考えても、饒舌に話す人でも書かせてみると、誤字脱字はもちろんこと、主語と述語が対応していなかったり論旨がでたらめだったりするひとは珍しくありません。しかし論旨の通った文章を書ける人の話は、実に理解しやすい発話になっています。
 これは英語の場合でも同じです。自分の意見を自由に筋道立って英作文できれば、それを口に出して言いさえすれば相手は理解してくれます。取り立てて「発話力テスト」をする必要はないのです。ところが、何度も言うように、文科省が「会話ごっこ」「コミュニケーション」を強調するものとなり、教科書に出てくる単語やフレーズを使っておこなう会話練習ばかりですから、まとまった英文を書く時間がほとんどありません。
 しかし教科書に出てくる単語やフレーズを使って、いくら会話練習をしても、日常的に使わないことばは時間が経てばすぐ消えて行きます。いま憶えたつもりの単語やフレーズも、次週には、もう忘れてしまっていることは、珍しくありません。私の言う「ザルみず効果」です。しかし自分の考えを英語で自由に書く力は、簡単に消えることはありません。それどころか鍛えれば鍛えるほど、その力は蓄積され強力になっていきます。
 ところが、何度も言うように、教育現場では自由英作文で生徒を鍛えることは、ほとんどできません。指導要領がコミュニケーション重視ですから、かける時間の比重が違ってくるからです。それと同時に、「日本語を使わずに英語だけで授業しろ」という文科省の指示が教師を金縛りにしているからです。日本語を使えば「英語が話せないのは日本語ができないからだ」ということを簡単に説明できるのに、それを文科省が妨げているのです。
 具体的に言えば、「自由英作文ができないのは、頭に浮かんでくる複文の日本語をそのまま英語にしようとするからであって、それを易しい短文の日本語に言い換えることができれば簡単に英語にできる」ことを、日本語で実例を使って説明し、練習させることができるのですが、今の学校現場では、それが許される雰囲気ではないからです。下手をすると、管理職が日本語を使っていないかを、いつも監視に来るという学校すらあるのですから。
 いずれにしろ、このような英語教育体制のなかでは、いくら国の総力をあげて大学入試の「発話力テスト」を開発しても、真の「発話力」は永遠に育たないでしょう。財力と精力の壮大な浪費に終わる可能性があります。しかし、だからこそ安倍政権は「発話力テスト」を民間に丸投げしようとしたのでしょう。彼らの頭にあったのは、「いかにして教育を建て直すか」ではなく、「いかにして企業を儲けさせるか」だったのですから。
 (なお私たちの研究所が、この30年にわたって積み重ねて来た「会話力」の研究と実践の一端は、『魔法の英会話』理論編・実践編として公刊されています。時間と興味のある方は参照していただければ幸いです。)


<註1> 
 外部試験という名の「大学入試の民営化」は、大都市に住む受験生と地方の小都市に住む受験生との間では巨大な格差が生じます。まして小さな田舎町や山間僻地に住む受験生は、いったいどうすれば良いのでしょう。また受験料も巨額ですから、貧富の格差が巨大に広がりつつある現状では、別の大きな問題が生じてきます。このような問題については、『検証、迷走する大学入試』(岩波ブックレット)の第1章で、元東大副学長かつ編者の南風原朝和(はえはら ともかず)氏が詳しく論じていますので、ぜひ御一読ください。
<註2> 
 文科省による大学入試「英語」の民営化=「外部試験」で、外資・教育産業がいかに色めき立っているかについては、季刊誌 IB (InfromationBank)2018夏季特集号の巻頭インタビューで、私は日経新聞の記事(2018/4/26)を引用しながら、その一例を詳しく紹介しました。その記事の一部を以下に再録しておきます。
 

全国で社会人向けの教室を186カ所展開するECCは実用英語技能検定(英検)の準2級と2級レベルを想定した授業をする。1回100分、15回が1単位で、料金は生徒1人当たり4万円。高校の授業の一部または放課後の課外授業などとして提供する。
 「高校生はアルバイトをすべきか」といったテーマに対し、賛否双方の立場から日本語で意見を考えさせた上で英訳するなどの方法で記述問題を指導する。全15回のうち最後の3回は面接対策と位置づけ、会話の練習をする。高校生同士で面接官と受験生の役割を演じさせたり、講師が面接官となったりして模擬面接もする。
 初年度は2500人が3単位程度利用すると想定し、売上高は3億円を見込む。
 英語圏出身者が高校などの授業を補助する外国語指導助手(ALT)の派遣事業も強化する。現在、ECCに登録しているALTの候補者は10人。フィリピンにある現地法人などを通じて5年後に300人まで増やす。ALTの採用主体となる自治体への営業も強化して、現在は数千万円程度の売上高を5年で10億円程度まで引き上げたい考えだ。


 この記事では、イーオンなど他の企業も、いかに「大はしゃぎ」しているかについても紹介しています。興味のある方は下記を参照ください。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29858310W8A420C1MM0000/?n_cid=NMAIL007

英語教育を踏み台にして、「美しい国」を破壊している元凶は誰か――季刊誌『IB』2018夏季特集号の反響2

英語教育(201810012) 大学入試、スピーキングテスト導入、民間委託=大学入試の民営化、「美しい国」の荒廃

迷走する英語入試

 相変わらずIBの反響が(電話、手紙、メールというかたちで)次々と届いています。今回は取り合えず以下のメールをお裾分けさせていただきます。
 送り主は岐阜大学医学部の卒業生で、私は彼に共通教育の英語を教えただけですが、いまだに付き合いが続いています。彼はいま私立大学部付属病院で眼科医(医学博士)をしています。
 ちなみに当時の岐阜大学医学部眼科は世界的にも有数の研究と治療技術を誇っていました(現状は知りません)。私は彼を通じて、医者の卵がどのような過程を経て一人前の医者(眼科医)になっていくのかを、つぶさに知ることができました。

寺島先生
 インタビュー記事の掲載誌を下さいましてありがとうございました。
 偶然なのですが今チョムスキー氏の最近の本『誰が世界を支配しているのか』を読んでいるところです。郵便が届いた時に「あ、寺島先生からだ。チョムスキー読んでたからだなぁ!」と自然につながっていました。不思議な感覚です。
 小学生に英語を正式科目として導入する件は、私は反対です。
 日本語で思考するので、小さいうちはきちんと日本語の教育をするべきです。
 大きくなっても(高校や大学で)教育は日本語でおこなうべきです。英語を英語で教育するとは!?それなら語学の超専門家を養成する外語大ではペルシア語をペルシア語で教育するのか!そんなアホなことはありません。
 私は中学の時に英語研究部に所属していて顧問の先生と雑談をする機会があり、学校の英語を習っていてもアメリカ人と会話できるようにはならないのではないですか?と質問したことがあります。
 先生はシェイクスピアの英語劇をしていたけれど英会話が得意ではないと笑っていました。そしてそんなことは当たり前であって、英語を勉強するのは英語圏の文化を知ること、主にアメリカの先進的な研究などの文書(雑誌や論文)を読んで自分で勉強できるようにするのが目的で、会話は別のことであるとおっしゃいました。今でもそれが正しいと思っています。
 私は国家主義的な安倍総理が嫌いです。安倍総理の時代になってから妙に英語教育がかき回されているように思います。(国家主義者が英語一辺倒・アメリカ一辺倒というのもおかしな話ですが)
 これまで「学校の英語を習っても英会話ができないじゃないか!」という声がマスコミで流れても歴代の総理大臣は無視していたか、私の中学の先生のような見解の文部官僚が当時はそれを遮っていたかのどちらかであるように感じていました。
 マスコミが煽っても教育は揺るがなかったのです。ところが安倍総理になった途端に、小学生から導入だとか、会話重視だとか妙な変化が起きました。
 学問体系に沿ってきちんと修練した指導者・文科省役人なら、容易にはこの体系を崩しにかかったりしないと思います。思うに安倍はあまり勉強をしないで大人になったのではないかと思います。だから安易な声に従っているのだと思います。
 読み書き重視の英語教育は、今までは、ある意味での岩盤規制がかかっている状態でしたが、安倍は規制を粉砕することばかりに熱心であるようです(教育における「規制緩和」)。岩盤規制というのは国の根幹を形成している場合が多いので、単に粉砕すればよいというものでもないのです。
 「英語教育を大転換するべきなのか」、それは、そもそも現場の英語の先生たちの意見によって決めることで、教育にはあまり関わりのない種類の(あるいは教育に全く素人の)国会議員が決めることではないのです。

 共通試験の英語の点数を外部の検定試験に置き換えるというのは全く意味不明です。試験問題は、大学教育に必要なレベルを測定するために大学教師が作成するのであって、外部の検定会社を使うというのは目的が違うからです。
 なんとなく良さそうな英語の試験があるから、ちょっとそれを使ってみようかという軽率な考えが透けて見えます。
 そんなことがまかり通るなら、国語の試験は漢字検定と日本語検定に置き換えればよいし、数学などは『大学への数学』誌の懸賞問題にすればよい。

 小学生に英語を教えるとか、高校や大学で「英語だけで授業をする」ということを認めるとしたら、まず全国の教育学部に小学校英語教諭コースと高校英語「無日本語」教育コースを設置して新しい科目の教員を養成しなければならないと思います。
 教員をきちんと確保してからようやく新しい科目をスタートするべきです。これまでの英語とは全く異なるものなので、それぐらいの準備が必要です。というか、先述のとおり、そんなことはするべきではないのです。

 英会話はそんなに必要なのだろうかという疑問もあります。英会話はできないよりできた方がよいけれど、全員ができる必要はない。テニスや野球も、できないよりできた方が良いけれど、全員ができる必要はない。必要な人がやればよい、やりたい人がやればよいのです。
 機械による自動翻訳が登場しています。会話が出来なくても音声解読ソフトで文章化してスマホに表示させたりできます。普通の人の外国旅行はそれで済みます。そんな時代になぜ1億総英会話教育を始めなければならないのかわかりません。

 戦後にアメリカは、日本の強さの根源は大家族生活による知識の伝承であると見て、核家族文化住宅が先進的であると見せ掛けて日本に導入させたと聞いたことがあります。 日本語でしっかり考えることを骨抜きにして英会話に走らせれば、ますます日本は弱体化します。
 安倍は「美しい国」だの「伝統を愛する」だの「国益を守る」という言葉をよく使いますが、英会話を強制したり英語で英語教育をさせるのは、何よりも国益を損ね、美しい日本の伝統を荒廃させているのです。彼はいったい何人(なにじん)なのか?見本人なのか、アイデンティティーはどこなのか?あるのか?

 私の分野の眼科では、20年前は、日本語の眼科医学書は数種類しかなくて、英語の教科書を読む必要がありました。特に手術の本はありませんでした。
 今は日本語の眼科の本がたくさんありますから、後輩たちは英語の教科書を読む必要はありません。
 研究はやはりアメリカが先進的なので、最先端の技術を導入したい場合は英語論文を読まなければなりません。最先端で勝負する眼科医とは、学会のリーダー的な少数の先生やその次を狙う候補生たちです。
 そのような人はアメリカの学会で発表するので英語で討論しなければなりませんから英語のプレゼンテーションが必要です。そのようなひとたちは、この分野で一握りしかいません。
 私のような普通の医者はリーダーが教えてくれたことを実地の治療に使うだけなので、英語は使わなくても済みます。英語学習に無駄な時間や精力を使うくらいなら治療技術を磨くことに使いたいと思っています。
 先生のインタビュー記事を読んでいろいろ考えたことを書いてみました。
 これからもよろしくお願いします。先生ますますのご健勝をお祈り申し上げます。


 以上は大学病院で眼科医をしている教え子からの便りでしたが、次に紹介するのは、英語関係の出版社で編集者をしている方からの便りです。
 この方は、大学入試を民間会社に丸投げしようとする文科省の政策に、強い疑念を提示されています。
 英語関係の出版社は、ともすると、これを機会に、英検・TOEIC・TOEFLその他の受験問題集を売り出して一儲けをしようとするところが多いのですが、そうではない方もいるのだということを知り、おおいに励まされました。
 また下記の便りでは、ほとんどの大学英語教師が文科省の政策と正面切って闘おうとしていないなかで、孤軍奮闘している人物として羽籐由美氏を紹介していますが、彼女の意見を知るには『検証、迷走する英語入試』第3章(岩波ブックレット)が役立ちます。

寺島隆吉先生
 暑かった夏もようやく一段落、ここ数日でやっと秋らしくなってまいりました。その後、すっかりご無沙汰しておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
 さて、この度は、『I.B』をお送りいただき、ありがとうございました。写真付きの先生のお元気そうなお姿を懐かしく拝見し、また変わらず、現状への批判を忘れない姿勢に感激いたしました。

 このところ、英語教育の議論を見ていると――とりわけ民間試験導入をめぐる論争を見ていると、英語教育関係者の不甲斐ない姿を見せつけられるにつけ、寺島先生のような姿勢を引き継いでくれる人は出てこないものかと思うことが多いので、なおさらそのように思いました。
(私にとっては特に興味深かったのは、「教員の研究費を削ってTOEICの受験料を捻出」という部分です。)

 この半年ほどの私の、英語教育に関することでの最大の関心事は、上に書いたとおり、民間試験導入の件です。世間では4技能か2技能かの対立みたいに言う人もいますが、いやいやどうして、制度設計があまりに杜撰で、これではいわゆる4技能派といわれる人ですら賛成できなような代物です。
 こんなものを支持している英語教員がいるのかと思うとうんざりしますが、先日、大学英語教育学会(JACET)の報告書を見ていたら、民間試験を導入することを推進するための諮問委員になったことを自慢して書いている文章があって、その見識のなさに唖然としてしまいました。
 JACETの人たちは、こういう動きは自分たちの主張する「使える英語」路線を支援するものと思っているのかもしれませんが、こういう政策は、一方では、大学の英語教員への不信感から生まれているところもあるわけで、いずれ大学の英語教員じたいが要らないと言われかねない危険があると私には見えます。
 それなのに、こういう政策を支持するとは、いったいどういうことなんだろう、とあまりのおめでたい姿勢に愕然とします。

 腹立たしいことの多いなかで、この民間試験導入をめぐる議論で、1人だけ、すごいと思った方がいます。京都繊維大の羽藤由美先生です。
 羽藤先生は立場としては4技能派で、みずからスピーキングテストを開発しているような方ですが、今回の民間試験については、徹底批判の側で、いまもっとも実質的かつ徹底的な論陣をはっているのは羽藤先生です。
 JACET会員でもある彼女は、JACETの対応についても孤軍奮闘、闘っています。英語教育にもまだこんな人がいたんだなあ、と思って感心していま
す。
 急に涼しくなってきました。どうぞくれぐれもお体にはお気を付け下さい。
 取り急ぎ、御礼のみにて失礼いたします。


 上のメールで紹介されている羽籐由美氏の主張は「大学入試でスピーキングの試験をするのは反対ではないが、それを種々雑多な民間会社に丸投げするのは無責任であり、受験生にとっても公平な制度ではない」というものです。
 これについては次回のブログで私見を述べるつもりです。というのは、私は「大学入試でスピーキングテストは不要だ考えているからです。その理由については次回までお待ちください。


ソフトバンクCEO「英語学習にうつつを抜かす暇があったら創造的思考力を磨くことに使え」―季刊誌 『IB』2018夏号インタビューへの反響1

英語教育(20181009)、沖縄県知事選、玉城デニー、ソフトバンクCEO=宮川潤一、セミリンガル←→バイリンガル←→モノリンガル、カンピーナス大学=ブラジルの国立大学、英語教師三つの仕事三つの危険

『英語教育原論』

 沖縄県知事選における玉城デニー候補の勝利は実に快挙でした。自民党幹部や公明党・創価学会が本土から乗り込んでいって強烈な工作を展開すればするほど逆効果になったのですから、皮肉なことでした。
 他方で世界情勢です。DeepStateによるトランプ降ろしで、相変わらず混沌としているアメリカ情勢。ロシアのもつ高度な軍事力のため、アメリカやNATO諸国が手を出しかねているシリアのイドリブ情勢。
 これらについても書きたいことは山積しているのですが、これについても断念することにしました。というのは、季刊誌 IB (InfromationBank)2018夏季特集号のインタビューにたいする反響が(電話、手紙、メールというかたちで)次々と私にあてに届いているからです。
 私が本年5月19日に書き始めた連載「世界はいま『大転換』のとき」3部作のうち、第1-2部は書き終えたのですが、第3部がまだ残っています。しかしIBインタビューにたいする反響も、なかなか捨てがたいものが多く、それを紹介してから第3部に移りたいと思うようになりました。

 そこで今回のブログで紹介しようと思っているのは、私が岐阜大学教養部時代の教え子から届いたIB インタビューへ感想です。
 彼女は岐阜大学教育学部(社会科教育講座)を卒業して**市役所に就職しました。就職して最初の所属は、市の国際観光センターでした。
 岐阜県や愛知県ではブラジルからの移民が多かったことを反映して、その国際観光センターは、英語だけでなくポルトガル語や韓国語・中国語など多言語のニュースレターを、毎月、発行していました。
 市民に対する案内が英語一辺倒になりがちな国際都市や国立大学が多いなかで、このような市の対応は、当時としても(現在ですら)非常にユニークなものでした。**市の高い識見を示すものだったと思います。(岐阜大学のキャンパスも英語の案内標識だけです。)
 ですから、この職場は、卒業する前の1年間、ブラジルの国立大学=カンピーナス大学に留学していた彼女にとって、まさにうってつけの職場でした。
 留学するのであれば英語圏を目指す学生が多いにもかかわらず、カンピーナス大学(岐阜大学との交流提携校のひとつ)を選んだというのも、彼女の目の鋭さを示すものだったと思います。
 先述のとおり私は当時、教養部に所属していて、共通教育の英語しか教えていませんでした。しかし彼女は専門学部に異動したあとも私の研究室によく出かけてきました。それでも「今度、ブラジルへ留学することになりました」という話を聞かされたときは、さすがに驚きました。
 文科省は、ポルトガル語を公用語とするブラジルからの移民が激増している最中に小学校に英語教育を導入しようとしました。このような英語教育政策にたいして、急遽、拙著『英語教育原論:英語教師三つの仕事三つの危険』を著して抗議の意志を表明したのは、私が教育学部に異動したあとでしたから、今から考えると、当時の彼女は、はるかに先を見通していたのだと思います。
 そんな彼女が季刊誌 IB (InfromationBank)2018夏季特集号を読んで送ってくれた手紙でしたから、その感想も相変わらず鋭いものでした。ブラジルに移民した日本人がたどった運命と、英語漬けになっていく日本の現状を重ね合わせた考察や、ソフトバンクのCEO宮川潤一氏がたどった軌跡の紹介は、文科省の役人や県の教育長にぜひ読ませたいと思いました。

寺島先生
 過日は、先生の記事が掲載された雑誌を送っていただき、誠にありがとうございました。
 先生のますますのご活躍をうれしく感じながら、また、30年前の学生時代に戻ったかのような感覚を持って、懐かしく、一気に読ませていただきました。
 私は、今、**市教育委員会文化スポーツ課に在籍しており、市の生涯学習事業、スポーツ事業を展開しています。
 私が担当している事業のひとつに、様々な分野の専門家を招いて実施している生涯学習講座「市民総合大学」というものがあります。そこには1000人の市民が受講しており、驚くことに8割近くが70歳以上で、「学びへの意識の高さこそが日本人らしさだ」と感じる今日この頃です。
 一方、学びが喜びだと感じられるようになるには、知識の元となる理解力や読解力は欠かせないと考えます。ここに通う受講者は、今までの人生において知識の元をしっかり培い、持っていらっしゃるように思います。
 しかし昨今の日本の義務教育では、母国語で深く論理的に思考することよりも、英語の低年齢化に重きが置かれ、母国語が確立する前に英語を学ぶことにシフトされつつあるのですね。日本の英語教育の行く末を心配する寺島先生の持論に、共感することしきりです。
 1990年代に日本の労働力として受け入れた日系3世の南米人たちは、30年が経ち、日本で子供を産み育て、言葉の壁がなくてもなんとか生活できる環境を手に入れました。今、世代は、その子供や孫(金)日系4世~5世)に移りつつあります。
 しかし、両親が生活に追われ、教育の機会を失われた子どもたちは、母国語も半分、日本語も半分くらいしか分からない、教養がなく、深い思考が身についておらず、就職もできないという状況で、セミリンガルな世代を作り出してしまいました。
 日本人も英語教育の視点を一歩まちがえると、バイリンガルではなく、中途半端なセミリンガルな子供たちをたくさんつくってしまうのではないかと危倶してしまいます。
 また、過重な教育方針のシフトが、教育を与える側の先生の負担になってしまうのも、大きな問題です。日本人には日本人の思考に合った英語教育があると思います。大事なのは、外国語を学ぶ過程で、違った考え方や文化、外国的な思考法を学ぶことではないでしょうか。
 **出身で一番ビジネスにおいて成功された方に、ソフトバンクのCEO宮川潤一さんという方がいらっしゃいます。この方は、仏教系大学(京都の花園大学仏教学科)を出てITの道を選ばれたので、英語は全くできないそうですが、孫会長の腹心の部下として、世界中でビジネスを展開されています。
 講演会でその方が、「今の私には英語を学ぶ時間はもったいない。言葉のバリアはAIや通訳者が解決してくれる。何億円の決裁案件な翻訳機能で理解できるし、支障がない。創造的に考える力や、プログラミング的思考を磨いた人材が我社に欲しい。」とおっしゃっていました。なるほどと思います。
 ついつい先生の記事に感銘を受け、余分なことまで書いてしまいました。
 寺島先生、今後も大学の英語教育の問題も含め、日本の教育全般に警鐘を鳴らし続けてください。
 また、先月、市の広報で、市ゆかりのまぼろしの俳人「鈴木しづ子」の特集を執筆しましたので、お読みください。
 先生の今後のご活躍、心より、ご祈念申し上げますとともに、残暑厳しい折、お体ご自愛ください。
 草々

検索フォーム
プロフィール

狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

Author:狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

リンク
最新記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
RSSリンクの表示
QRコード
QR