英語教師に求められているもの(3)― 続:「英語を読む力」以前に「日本語を読む力」を!

英語教育(2014/08/20)
『英語にとって学力とは何か』あすなろ社/三友社出版171


 東ウクライナへの攻撃は相変わらず熾烈を極めています。アメリカはウクライナ危機、とりわけマレーシア航空機の撃墜事件を口実にキエフ政府への軍事的援助を続けています。これでは東ウクライナの人道的危機は深まることはあっても弱まることはありません。
 ロシアから送られたトラック300台にも及ぶ人道援助物資も、国際機関が中に軍事物資がないと証言しているにもかかわらず、国境沿いで差し止められたままです。しかしマレーシア航空機の撃墜事件はロシア政府が仕組んだものでも、連邦制を求める反キエフ民兵がやったものでもないことは、ほぼ確実です。
 なぜなら、アメリカは「地上を走る車に乗っている人物でさえも識別して、無人爆撃機で暗殺できる、極めて高性能の宇宙偵察衛星」をもっているのですから、ロシア領から地対空ミサイルBUKが東ウクライナに搬入され使用されていれば、鬼の首を取ったかのように、証拠写真を全世界にバラ捲いていたことでしょう。
 そのような証拠をいっさい示すことができず、ひたすらプーチンを悪魔化する宣伝をバラ捲いているだけです。「フセインが大量破壊兵器をもっている」「アサドが化学兵を使った」という宣伝をバラ捲いていたときと全く同じです。アメリカはひたすらロシアを戦争への道に引きずり込みたいのだと思うしかない状態です。
 ウクライナやヨーロッパが瓦礫になろうと、集団的自衛権の行使を迫られて自衛隊員が砲弾の餌食になろうと、アメリカにとっては武器を売りまくるチャンスですし、瓦礫になったあとは復興ビジネスのチャンスです。またアメリカ国内で荒れ狂っている様々な矛盾にたいして、国民の関心を国外問題にそらすチャンスでもあります。
 このままではNATO軍とロシア軍との戦闘になりヨーロッパ一円が瓦礫になる可能性すらあります。元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者だったPaul Craig Robertsは、「世界には、死への願望があるのだろうか?」として次のような論説を書いています。
Washington Has Placed The World On The Road To War
翻訳 「アメリカは世界を最終戦争への道に向かわせている」


 閑話休題。今日の本題に移ります。
 前回のブログでは、ある高校英語教師が出席していた研究会で、朝日新聞「争論」―大学生は英語で学べ?「深い思考奪い、創造の芽摘む」(2014/07/03)が話題になっていたことを紹介しつつ、「英語を読む力」以前に「日本語を読む力」が問題ではないかと述べました。
 ところが同じ頃、定年退職した高校英語教師から別のメールが届き、英語で有名な私立大学の授業でも朝日新聞「争論」が話題になっていたことを知りました。その授業は「翻訳論」だったそうですが、それに出席していたMさん(退職教師の知人の娘さん)の報告によると、その授業で教授は次のように語っていたというのです。

 <「翻訳論」の視点から言えば、どちらの意見(寺島隆吉VS&鈴木典比古) も違うのではないか。グローバル化が謳われる今日において、翻訳は必要不可欠な作業だ。それと同時に翻訳の本質を見ると、翻訳とは一語一語の逐語訳ではないこと、また2つの異なる言語の中には必ず翻訳不可能な部分が存在する。つまり、翻訳した書物では原書に太刀打ちできないものがある。それは、第一言語である日本語にも言えることで、日本語は、私たちの思考において、単語の存在そのもの、認識を作るものだ。それでは第2言語に当たる英語は何を担っているかというと、第1言語で存在した存在を別のものに転用させるもの、具現化させるものだ。つまり、どちらか片一方で教育は成り立たない。つまり、どちらか片一方で教育は成り立たない。>


 さて、このMさんの報告をもとに、退職英語教師の彼女は、私宛のメールで次のように書いていました(Mさんの報告はもっと詳しいのですが、ここでは割愛させていただきます)。

<この報告を聞いて、訳書と原書という二元論にしてしまっているのは「翻訳論」の教授のほうで、寺島先生の言わんとしていることがきちんと理解され ていないという印象をうけました。
 大学の授業を全部英語にして学生たちの時間を奪い、深く思考し創造する芽を摘んでしまうような学問のあり方に警告を発しているのであって、ただ単に「翻訳に賛成とか」「翻訳書の是非」とかいうことではないと思います。
 また英語を学び英米の社会や文化を無批判に受け入れてしまうことの危険性や、こうした英語熱の背景については全く言及がなく大事な視点が抜けていると思いました(これは少なくともMさんの報告にはありませんでした)。
 詳しいことは忘れましたが、いつかこうした論争のテレビ放映で、画面の下に番組を見ている視聴者からの声が次々に書き込まれているのを見ていたら、「どうして英語をそんなに勉強しなければならないのか?」といったような素朴な意見がたくさん寄せられていて、少数のエリートはともかく普通の人々の素朴な意見はそうなんだよねと共感をもちました。>


 まさに彼女の言うとおりで、私は「翻訳に賛成とか」「翻訳書の是非」とかいうことを問題にしていないのです。
 確かに論争相手の鈴木典比古氏は「2つの異なる言語の中には必ず翻訳不可能な部分が存在する。つまり、翻訳した書物では原書に太刀打ちできないものがある」と言って「翻訳書の是非」を問題にしています。
 しかし私が問題にしているのは「原書でおこなう授業」「英語でおこなう授業」であって「翻訳書の是非」ではないのです。
 私は、「原書でおこなう授業」「英語でおこなう授業」では高等教育をおこなう日本人も教科書もなかった明治時代に逆戻りするだけであって膨大な時間の無駄づかいになりかねないと言っているのです。
 私はそれをインタビューでは次のように述べました。

<英語で授業をする必要があったのは明治初期、英語の教科書しかなかったころの話です。だから外国人から英語で教わったのです。
 でも、いまは環境がまったく違う。物理学であれ経済学であれ、高いレベルまで全分野が日本語で読めます。翻訳のレベルが高く、出版力もある。日本は大学の博士課程まで自国語で教育できる、アジアでは例外的な国なんです。
 実際、日本人物理学者が相次いでノーベル賞をとった2008年に、韓国日報がその背景を探り、「自国語で深く思考できるからだ」と指摘しました。韓国の名門大学は英語で科学を教えているのですが、日本と同様、自国語で教育すべきだと提言したのです。
 私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。>


 ですから上記の大学教授は私の主張をまったく取り違えていることがわかります。この教授の授業は「翻訳者を育てる授業」だったそうですが、翻訳の出発点は原書を正しく読み取ることから出発します。間違って解釈したものを翻訳しているかぎり間違った訳書が誕生するだけです。
 私は前回のブログで日本語を正しく読み取ることのできない英語教師が少なくないことを問題にしましたが、英語で有名な私立大学の教授でさえ、長くもないインタビューの要旨を正しく把握できないことに驚きを禁じ得ませんでした。これで、どうして翻訳業が成立するのでしょうか。
 「2つの異なる言語の中には必ず翻訳不可能な部分が存在する。つまり、翻訳した書物では原書に太刀打ちできないものがある」などということは、今さら説明する必要もないほど自明なことです。しかしどうすれば原書の香りを訳書に移し替えることができるのか、それを教えるのが「翻訳者を育てる授業」の任務のはずなのです。
 しかし、これは主として文学の話であって、論説・批評や工学・理学などでは、言っていることを正しくとらえることができさえすれば、原書を訳書に移し替えることはそれほど困難ではありません。問題は訳者が「原書を正しく理解できているかどうか」「それを明晰な日本語に移し替えることができるかどうか」にかかっているのです。
 ところが文学どころか論説すら正しく理解できないひとが少なくないことを、上記の翻訳論の教授は端なくも証明してくれました。しかし現在ほど、この能力が求められているときはないでしょう。というのは大手メディアの報ずる外国ニュースは歪められたものがあまりにも多いからです。
 その典型例が最近のウクライナ情勢にかんする報道ではないかと思います。前述のとおり大手メディアでは、ウクライナ危機のすべてはロシアとプーチンにあると言わんばかりの報道で満ちあふれているからです。『戦争プロパガンダ10の法則』によれば、戦争したいとき敵を悪魔化するのが法則の一つですから、「さもありなん」です。
 イラクを侵略したときはサダムを、リビアを侵略したときはカダフィを、シリアを侵略したときはアサドを、そして現在はプーチンの悪魔化です。しかしZNetやGlobal Researchなどに載っている論文を少し調べて読んでみるだけで、ウクライナ危機の根本原因は全く逆であることが分かるはずです。
 たとえば、CIAの元高官だったRay McGovernは、下記の小論で、現在のウクライナ危機はアメリカが何年も前から用意周到に準備してきたクーデターに起因していることを極めて簡潔明瞭にまとめています。
Ray McGovern: Roots of Ukraine Crisis
 しかし日本の大手メディアはこのような事実をひと言も報道しません。このような事実を日本語で知ろうとすると、今のところ、月刊『アジア記者クラブ通信』に頼るか、ブログ「マスコミに載らない海外記事」など、まったく限られた手段しかないのです。これだけ英語熱が盛んな日本なのに、私たちは全く情報鎖国の日本に住んでいるのです。
 しかも、ブログ「マスコミに載らない海外記事」がせっかく大手メディアが伝えようとしない情報を日々翻訳してくれているのに、その翻訳が極めて読みづらい日本語なのです。毎日、膨大な情報の中から厳選した情報を翻訳するのですから、わかりやすい日本語に推敲し練り直す時間がないことが、その大きな原因だろうと私は思っています。
<註> 月刊『アジア記者クラブ通信』およびブログ「マスコミに載らない海外記事」については下記を御覧ください。
http://apc.cup.com/
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/


 私はここで何を言いたかったのかというと、日本の英語教育は「明晰で論理的で分かりやすい日本語にする技術」をもった「真の翻訳家」を、必要な人数だけ育てることすら、できていないということです。
 月刊『アジア記者クラブ通信』で紹介されている海外記事もブログ「マスコミに載らない海外記事」も、たったひとりのひとが翻訳しているにすぎません。これでは大手メディアが垂れ流す誤った情報にどうして対抗することができるでしょうか。
 日本という環境では日常的には全く必要でもない「英会話」、これに莫大なお金と時間を使っているのに、いま最も求められている「読解力」「翻訳力」の要請はまったく無視されているのです。
 権力をもっているひとたちは庶民が真実に近づくことを何としてでも阻止したいでしょうから、庶民が会話ごっこにうつつを抜かしてくれることは、こんなに嬉しいことはないでしょう。というよりも、それこそが現在の「教育改革」の真の狙いなのかも知れません。
 ところが「翻訳者を育てる授業」を開講している高名な大学でも、こんなことは全く視野に入っていないようなのです。
 ですから、英語を「英語で学ぶ」とか、大学の授業を「英語で学ぶ」と言っている限り、若者の創造性や知的好奇心はすり減らされ、真理真実に近づくことは難しくなります。それを私はインタビューで次のように述べました。

 <いまのような丸暗記型の英語教育は、若者の創造力をすり減らすはかり。受験戦争をくぐり、ようやくいろんな本が読めるという時期に英語漬けの毎日を強いていては、「英語バカ」を育てるだけです。文学も経済も科学もかじり、オールラウンドな教養を身につけて初めて、全体を見渡した仕事ができるというものです。>

<私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。
 そうやって自らの関心を研き澄ませていけは、専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになるのです。
 ところが、大学1、2年の教養課程から英語で授業を始めたら、幅広い分野を学ぶわけですから単語もあらゆる領域に及ぶ。語藁は無限です。覚えても覚えてもキリがない、底なし沼ですよ。
 しかも英語で1冊の本を読む時間があれは、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです。英語の本をやっとこさ1冊読む間に、英米人なら5冊、10冊と読むわけですから永遠に追いつけない。それで勝てると思いますか。iPS細胞を開発した京都大学の山中伸弥教授も、いまのように若いうちから英語、英語と追われていたら、たぶんノーベル賞をとれなかったのではありませんか。>

<人間に与えられた時間には限りがあります。まずは考える力、そして疑問を持つ力を育てることにこそ大切な時間を使いたいものです。>


 何度も言いますが、このような視点が「翻訳者を育てる授業」の教授に全く欠けています。これが正しく読めていれば「原書がよいのか訳書がよいのか」という議論は生まれようがないと思うからです。その証拠に私にメールを送ってくれた退職英語教師は、私のインタビューについて次のような感想を書いてくれています。

<「英語で1冊の本を読む時間があれば、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです。」 このわかりきったことが私には今更ながら痛烈にひびくのです。
 昔は英語力をつけるにはとにかくできるだけ英書を読むことだと思い込んで辞書をくりながら根気よく英書(物語、小説)を読むことに時間を費 やしたものです。日本語を読む時間があるのなら英書を読むべきだなどと思って・・・・。
 と言うと大分英書を読んだように聞こえますが、「語彙は無限です。覚えても覚えてもキリがない。底なし沼です」から辞書を引く回数の多さからしても読んだ英書の数はわずかなものです。それでも当時「寺島メソッド」を知っていたらもっとたくさん読めたかもしれませんが、今頃になって若い時の失われた時間を惜しんでいます。
 退職して活動する世界も広がると、自分の世界の狭さを実感し、「英語バカ」とは人ごとでない自分のことだったのかなどと落ち込んでしまうことが あります。「私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。」はとても大切な言葉です。
 論争相手の鈴木典比古教授は「(英語で授業をすると)最初は帰国子女や留学経験者のほうが英語力が高く有利なようですが、2年3年とたつうちに差はなくなります。むしろ学習意欲や理解力思考力に優れた学生が成長してゆきます」と書いています。
 では、その「思考力」は「どこで」「どのように」身につけるのでしょうか」。その答えがここにあります。「私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる」のです。
 また鈴木教授は「書く力」の大切さもについても述べていますが、これは同時に「何を書くのか」「書く力をどうつけるか」の答えになっていると思いました。日本語で書けないことは英語でも書けないからです。>


 私は、未来の英語教師を育てる仕事、現職教師を鍛える仕事を永年やってきて、ときどき英語教師に絶望しそうになることがよくありました。
 彼らは英語のフレーズを覚えて英語を話すことに興味はあっても、内容のある日本語を読み、相手に分かりやすく伝わる日本語を書くことにあまり興味がないように見えたからです。
 つまり英語に興味はあっても、母語を鍛えることや人間を育てることには興味が無いのではないかと思わされたからです。まして世の中がどう動いているかにも興味がありません。これでは英語教育(そして学校教育)が良くなるはずがありません。
 しかし上記のようなメールをいただくと、私の主張をきちんと理解してくれる英語教師もやはり存在するんだと分かり、元気が出てきます。そして閉じようかと思っていた研究所の活動も、何とか細々とでも続けようかという気にさせられます。
 それにしても、日本語を正しく読むことができないにもかかわらず「翻訳者を育てる」仕事に従事している教授がいるという現実には、何ともやるせない思いをさせられます。しかしこれは日本の英語教育を別の面で象徴的に浮かび上がらせている事例とも言えそうです。

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<註> 朝日新聞「争論」インタビューの全体像については下記を御覧ください。 
大学生は英語で学べ―「深い思考奪い、創造の芽摘む」(2014/07/03)



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英語教師に求められているもの(2)― 「英語を読む力」以前に「日本語を読む力」を!

英語教育(2014/07/31)
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教師とは何か2043

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 パレスチナのガザ地区にたいする残忍な攻撃は最近やっと世界の注目をあびるようになりましたが、相変わらず東ウクライナにたいする残酷な爆撃には、何の注目も払われていません。
 見るに見かねてロシア政府が、トラック300台にも及ぶ人道援助物資を用意して、国際赤十字に「軍事物資かどうか点検してくれ」と要望していても、それすら拒否されていることを大手メディアは全く報道しようとしません。
 それどころか水も食料も電気も医薬品も断ち切られた住民(ルガンスク市だけでも25万人が政府軍に包囲されて脱出することさえできません)に、ロシアが人道援助しようとすると、「それを口実にウクライナへ介入しようとしている」と非難する始末です。
 この2週間で死者が2000人をこえているのですが、キエフ政府の「ロシア人を絶滅しろ」という「民族浄化」政策に欧米の大手メディアも同調しているのは、本当に信じがたいことです。
 チョムスキーは、イスラエルの蛮行はアメリカの軍事的資金的援助なしには不可能なのだからオバマ大統領が「ゲームは終わった」と言いさえすればガザの惨事は終わる、と言っています。同じことは東ウクライナについても言えるのですが、これについては別の機会に詳論したいと思います。
Noam Chomsky on Media's "Shameful Moment" in Gaza & How a U.S. Shift Could End the Occupation

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 さて今日の本題に移ります。前回に引き続き、「英語教師に求められているもの」について述べたいと思います。というのは、朝日新聞「争論」―大学生は英語で学べ?「深い思考奪い、想像の芽摘む」(2014/07/03)を読んだ英語教師から、下記のようなメールが届いたからです。

<私が所属している県の英語研究会で話されたことです。O高校では職員室に掲示されていたそうです。1人の先生が、寺島先生の意見の方に賛成すると発言すると、次のような発言がありました。大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている。理由は院生の(人数を聞くのは忘れました。)多くが留学生のため、日本語での授業が成り立たないからだそうです。先生は日本人です。なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がないという雰囲気になってしまいました。院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか、等といったことに関心が移って、それについての問題になりました。ただ日本人学生は日常で英語が使えるわけではないようでした。私も、よくわからなくなりました。その現実をどう考えればよいのか。>

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 前回のブログでは英語教師の「書く力」を問題にしたのですが、私はこのメールを読んで、この研究会に集っていた英語教師は、英語以前に日本語を「読む力」があるのかと思ったのです。
 上のメールによれば、そこに集っていた人たちは、「大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている」「なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がない」という意見が大多数だったそうです。
 そして話題は「院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか」ということに移ってしまったというのです。
 これを読んで私は深刻に考え込んでしまいました。というのは、ここには「日本語をよむ力」だけでなく、「教師の品性」が問われているような気がしたからです。
 もちろん「院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか」という問題は、それだけでも考察するに価する多くの問題をはらんでいます。しかし私が今ここで問題にしたいのは、「英語で授業」はすでに強行されているから議論する価値はないとする教師の姿勢です。
 これでは「権力者が力にものを言わせて強行したことに逆らっても意味はない」ということになりかねないからです。今の教育現場では校長が絶対的権力をもち、職員会議で議論しながらものごとを決めていくという民主主義の原則がほとんど風化してしまっているので、それが上記のような言動になって現れているのかも知れません。
 教師自身が「権力者が力にものを言わせて強行したことに逆らっても意味はない」という態度を身につけてしまったら、「みんなで決めて、みんなで守る」という民主主義の原則を、どうして生徒に教えてやることができるのでしょうか。どうして生徒に「ものごとを批判的に見る力」「文章を批判的に読む力」を育てることができるのでしょうか。
 また、このような力を抜きして、「誰も思いつかないようなアイデア」は生まれようがないし、「豊かな発想を生む創造力」も育たないでしょう。このような力を抜きにして、競争が激化している世界を生き抜いていく力をどうして生徒に育てることができるのでしょうか。
 私は上記インタビューを次のように始めて、次のように結びました。

 <競争が激化する世界を日本はどうやって生き抜いていくか。 いま一番求められているのが、誰も思いつかないようなアイデア、豊かな発想を生む創造力だと思うんです。それには幅広い視野と、深く考え抜く力が必要ですね。 ところが最近の英語熱は、そのすべての芽を演しかねない。大学を劣化させ、日本を支える研究の礎を壊してしまいかねません。
(中略)
 人間には与えられた時間に限りがあります。まずは考える力、そして疑問をもつ力を育てることにこそ大切な時間を使いたいものです。>


 先の研究会に集っていた英語の先生方には、「院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか」という疑問は浮かんだのですが、「留学生はなぜ日本語を学ばなくてもよいのか」「英語のできない日本人は留学生の犠牲になってよいのか」という疑問は浮かばなかったようなのです。
 というのは、日本人がアメリカに留学したからといって向こうでは日本語で講義してくれることはありません。それどころかTOEFLの点数を問われるだけです。また留学生がせっかく日本に来ているのに、日本語を学ばせず(ということは日本文化も本当には知ることができない)そのまま帰国させて、私たちのどんな利益があるのか。
 そのうえ留学生の多くは国からの奨学金をもらい授業料も免除になっていることが珍しくありません。だとすれば奨学金も貰わず授業料も免除になっていない日本人院生がなぜ留学生の犠牲にならなければならないのか。大学院というのは英語ができる外国人留学生のためだけに存在するのか。
 このように疑問は尽きることがありません。しかし、私が朝日新聞のインタビューで問題にしたのは、実は大学院のことではありませんでした。それは私がこのインタビューで次のように言っていることからも明らかでしょう。

 <ところが、大学1、2年の教養課程から英語で授業を始めたら、幅広い分野を学ぶわけですから単語もあらゆる領域に及ぶ。語彙は無限です。覚えても覚えてもキリがない、底なし沼ですよ>


 つまり私がここで言っているのは、大学院の授業ではなく大学に入学したての教養課程から数学や工学や経済学などを英語で学ぶ場合の、学生の負担や学習効率を問題にしているのです。
 教養課程では自然科学・人文科学・社会科学を学ぶのですから、それをすべて英語で学んでいたら、辞書を繰っているだけで時間の大半が奪われてしまって、何を学んだかを考えるゆとりもなく、まして疑問をつくり出すことは二の次になっていくでしょう。
 大学というところは、自分の知りたいことが何かを発見する場であり、学び方を学ぶ場でもあると思うのです。そのためには日本語であらゆる分野のものを読み尽くし、自分の知りたいことを疑問のかたちでつくり出すことが必要です。
 したがっておおまかに理科とか文科とかに分かれていてもよいのですが、教養課程から狭い専門分野が決まっているのはむしろ好ましいとは思えません。貪欲にいろいろな本を読み、自分の知りたいことが絞られてきて、専門課程に入っていくのが理想的でしょう。私の場合も教養学部基礎科学科に行くつもりで理科2類に入ったのですが、いろいろ本を読んでいくうちに教養学科の「科学史科学哲学コース」に行きたくなったのでした。
 このようにいろいろな本を読んでいくうちに進路はどんどん変わってきます。したがって学部での専攻と大学院の専攻が違うことも珍しくありません。いずれにしても、「自分の知りたいことに関する答えを求めて日本の文献や翻訳の文献を読み尽くし、探していたらやっと英語の文献にぶつかった」という出会いの仕方が、原書を読む場合もっとも効率的だと思うのです。それを私はインタビューで次のように言っています。

 <私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。そうやって自らの関心を研ぎ澄ませていけば、専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになるのです。>


 だから英語を研究の武器として使いたいのであれば大学院、とくに博士課程でこそ生きてくるでしょう。修士課程で学ぶ程度のことは、翻訳書も含めて優れた文献がたくさんありますから、日本語の文献で十分に手に入るからです。ですから博士課程で本格的にやりたいことが決まったときこそ英語(あるいは他の外国語)の出番なのです。
 というのは、調べたいことが日本語文献になくても、「専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになる」のです。自分の知りたいことが焦点を結ばないとき、しかも関連分野の文献が日本語で手に入るときは、そちらをまず読み尽くすことが先決でしょう。
 自分の研究したいことが焦点を結ばないにもかかわらず、それを求めて英語の文献を読みあさっていたら、貴重な時間を浪費することになりかねません。1冊の原書を読むのに1ヶ月かかるかも知れませんが、同じことを書いている同種の本があれば5~10冊は読めるのです。それを私はインタビューで次のように表現しています。
 
 <しかも英語で1冊の本を読む時間があれは、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです。英語の本をやっとこさ1冊読む間に、英米人なら5冊、10冊と読むわけですから永遠に追いつけない。それで勝てると思いますか。iPS細胞を開発した京都大学の山中伸弥教授も、いまのように若いうちから英語、英語と追われていたら、たぶんノーベル賞をとれなかったのではありませんか。>


 まして知りたいことは英語で書かれているとは限らないのです。ですから、このブログ冒頭で紹介した英語の先生方は、「英語の教師」であるより前に「人間の教師」であることを忘れているのではないでしょうか。
 だから彼らは、私が今まで述べてきたような単純なことが読み取れず、「大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている」「なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がない」となってしまったのではないかと思うのです。
 文科省の「新高等学校学習指導要領」は「英語で授業」を高校に押しつけたことで非常に悪名高い指導要領ですが、それでも「文章を正しく要約できること」「文章の要旨を正しくとらえること」を、その到達目標として掲げています。ですが英語教育の現場では「いかに英語で授業をおこなうか」だけが評価の重点になっています。
 つまり教科書に出てきたフレーズやセンテンスを使っていかに会話ごっこをさせるかだけに精力と関心が注がれているのです。これでは教師自身の「読みの力」は永遠に鍛えられないでしょう。なぜなら彼らの多くは英検やTOEFL、TOEICなどの点数学力だけをあげることに全精力を使いながら英語教師になっているからです。
 私が「英語で授業」に強く反対した理由の一つは、このようなことを指導要領で教師に強制している限り、英語教師の頭から、「文章を正しく要約できること」「文章の要旨を正しくとらえる」という目標が消えてしまうことを恐れたからでした。ましてや「文章を批判的に読む」という目標は最初から頭に浮かんでこないのではないかと思います。
 そして私のこの「恐れ」は不幸なことに今や現実のものとなりつつあるようです。冒頭で紹介したメールが私にそのことを教えてくれました。何しろ研究会に集って議論した英語教師たちには、インタビューで述べた私の次のことばが、まったく頭に残っていないように見えるからです。実に暗澹たる思いです。

 <いまのような丸暗記型の英語教育は、若者の創造力をすり減らすばかり。受験戦争をくぐり、ようやくいろんな本が読めるという時期に英語漬けの毎日を強いていては、「英語バカ」を育てるだけです。文学も経済も科学もかじり、オールラウンドな教養を身につけて初めて、全体を見渡した仕事ができるというものです。
 もちろん、才能あふれる学生が英語もできればすばらしい。英語を母語とする相手と議論し、交渉できる人材を育てる必要も間違いなくあります。しかし、様々な可能性に満ちた大学生全員を、一律に英語漬けにする必要はどこにもない。世界を複眼的に見る力が国際力なのに、英米人のものの見方を刷り込む英語教育なら悪い影響を残すだけです。>

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<註> 朝日新聞インタビューの全体像については下記を御覧ください。 
「争論」大学生は英語で学べ―「深い思考奪い、想像の芽摘む」(2014/07/03)



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Author:狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

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