翻訳 チョムスキー「TPPとオバマの暗殺リスト―誰のための機密保護? 」

環太平洋パートナーシップ(TPP:Trans-Pacific Partnership)、マグナカルタ、推定無罪(Presumption of Innocence)、無人爆撃機Drone、オバマが決める「無罪」「有罪」、アメリカ理解(2015/04/28)


 いまアメリカ主導の「環太平洋パートナーシップ」(TPP:Trans-Pacific Partnership)が大詰めを迎えています。この協定は肝心のアメリカの国会議員でさえその内容を知らされていません。ところがオバマ大統領は議員に内容を知らせないまま、「これを他の法案と抱き合わせの一括審議で無条件に承認しろ」と圧力をかけています。
 しかしこれにはさすがの民主党議員も我慢がならず内部から反乱が起きています。さらに面白いのは保守党のシンクタンクであり、財界寄りと思われていたCATO研究所からも、このTPPに異論が出ています。この法案が通ると外国の企業がアメリカ政府を訴えることができるようになり主権侵害の恐れが出てくるからです。
 ところが日本の大手メディアは農産物の問題だけを取りあげ、このような重大な問題に一切ふれようとしていません。TPPが大企業や投資家の利益を保護するだけで、一般庶民にとっていかに危険な条約であるかは、この条約の内容がいっさい公にされることなく、極秘の中で交渉が進行していることに端的に表れています。
 そこで今回はチョムスキーのSecurity(安全確保、機密保護」)に関する論考を訳して紹介することにしました。しかし、このような翻訳・紹介も、このTPPの法案が可決・批准されれば、「非・親告罪化」して、自由にできなくなる恐れがあります。
 チョムスキーは、自分の論考がブログで翻訳・紹介されても、著作件違反で訴えることは絶対にしません(むしろ広めて欲しいと思うでしょう)が、チョムスキーの意見を知られると困るひとたちが訴える権利をもつことになるからです。だからこそTPPが民衆のまったく知らないところで進行中なのです。


誰のための機密保護?
政府の機密保護で、一般民衆は闇のなか
ノーム・チョムスキー、April 6, 2014
http://www.informationclearinghouse.info/article37877.htm


 国際関係理論の指導的原理によれば、国家の最優先事項は安全の確保(そして機密の保持)です。冷戦時代の戦略家ジョージ・F・ケナンがその標準的見解を公式化したとおり、政府は「秩序と正義を保護し、共同防衛に備えるために」つくられています。
 その主張はもっともらしく、ほとんど自明のことのように思われます。ただしそれも、さらに詳しく点検して、「誰のための安全? 一般国民のため? 国家権力そのもののため? 国内の支配的な有権者のため?」と訊ねてみるまでの話ですが。
 私たちがSecurity(「安全の確保」「機密の保護」)ということばで何を言おうとしているかに応じて、その主張の信頼性は、取るに足らないものから非常に高度なものにまで変動します。
 国家権力のための機密保護は、その最たるもので、国家が自国民の監視の目から自らを保護するために発揮する努力が、彼らの言う「安全の確保」「機密の保護」です。
 ドイツのTVでのインタビューで、エドワード・J・スノーデンはこう言いました。自分が「忍耐の限界」に達して内部告発しようしたのは、「国家情報局長官ジェームズ・クラッパー」が国家安全保障局NSAによっておこなわれた国内スパイ工作の存在を否定して、「議会に宣誓しておきながら、堂々と嘘をついたのを見た」からだったと。
 スノーデンはこう詳述しました。「国民はこのスパイ工作について知る権利があった。国民は政府が国民の名においておこなっていることを知る権利があった。それは政府が国民に敵対しておこなっているスパイ工作だからだ」
 同じことは、当然のことながら、ダニエル・エルズバーグ、チェルシー・マニングその他の勇敢な人物たちについても言えます。彼らも、同じ民主主義の原理に基づいて行動したのですから。
 政府の立場はそれとは全く異なっています。国民は知る権利がない、なぜなら、そんなことをしたら国家の機密と安全が土台から掘り崩されるからだ――と政府の当局者たちは主張します。
 政府のそのような言い分に、私たちが疑いをいだいてよいだけの充分な理由があります。第1の理由は、それがまさに政府の真っ先に言い出しそうなことだからです。政府は自分の行動が暴露されると反射的に機密は保持されねばならないと主張します。したがって当然の成り行きとして情報を出さないということになります。
 政府の言い分に疑いをいだかざるを得ない第2の理由は、政府が提示する証拠の性格です。国際関係論の学者ジョン・ミアシャイマー(John Mearsheimer)はこう書いています。「驚くことではないが、NSAによる国民へのスパイは、アメリカに対する54のテロ計画を阻止するにあたって重要な役割を演じたと、オバマ政権は、当初は主張していた。それは暗に、我々は憲法修正第4条を侵害したが、それには充分な理由があったからだ、と言っているに等しかった。」
 ミアシャイマーは続けてこう書いています。「しかしながら、これは嘘だった。というのは、結局のところNSA長官キース・アレクサンダー大将が議会で、テロを阻止したと認めたのは、たった1件だけだったからだ。ソマリアのテロ集団に8500ドルを送金していた、サンディエゴに住むソマリアの移民1人と共犯者3人を捕まえただけだった」
 「プライバシーと市民的自由の監視委員会」Privacy and Civil Liberties Oversight Boardによる調査も同じ結論でした。この委員会は、NSAの仕事を調査するために政府によって設置され、機密事項と機密当局者を広範囲に調査する権限が与えられていました。
 もちろん、国民が知ることによって国家の機密が脅かされるという意見があります。――ただし暴露されて困るのは国家権力の機密なのですが。
 上記の代表的見解はハーバード大学の政治学者サムエル・P・ハンチントンによって表明されています。ハンチントンは次のように言っています。「米国における権力の建築士たちは、感じられるだけで、見ることのできない権力をつくりださねばならない。権力は闇の中にあってこそ強い。光に晒されると蒸発し始めるからだ。」
 他の国と同様に、米国でも、権力の建築士たちはそれをよく心得ています。機密指定を解除された膨大な量の文書、たとえば公式のアメリカ国務省史『米国の外交』をつかって研究してきたひとたちのほとんどが見逃しようのない事実がああります。それは、政府の最大の関心事がつねに国民から権力者の秘密を保護することであって、いかなる意味においても、国民のための機密保護ではないことです。
 秘密を保持しようとする場合、しばしば、国内の強力な勢力の秘密保持が動機になっています。その良い例が、「自由貿易協定」という名の、いかがわしい協定です。なぜ「いかがわしい」かというと、それらは自由貿易の原則を根本的に侵害し、実質的には貿易についての協定ではなく、むしろ投資家の権利だけを守るものだからです。
 これらの協定文書は秘密裏に交渉がおこなわれるのが常套手段です。最近の環太平洋パートナーシップ(TPP)がその好例です。しかしもちろん、それは完全な秘密ではありません。なぜなら、その詳細な条項を書いている何百人もの企業ロビイストや企業弁護士にとっては、当然ながらそれは秘密ではないからです。ところが最近、ウィキリークスによってその条項の一部が暴露され、国民に衝撃が走りました。
 経済学者ジョセフ・E・スティグリッツの結論も非常に理にかなったものです。つまり、TPPの交渉に当たっているアメリカ通商代表部は、「企業の利益を代弁」しているのであって、国民の利益を代表しているわけではない、と言っているのです。だから、TPPの「次回の会合で決められる協定が、普通のアメリカ人の利益になる見込みは非常に低い。まして他の国の一般市民にとって、その見通しはなおさら暗い」というのがスティグリッツの結論です。
 政府の政策の最大関心事は、ふつう企業の秘密を保持することです。そもそも政策を立案する政府の役割を考えれば、それはさほど意外なことではありません。

 一方、国民の秘密保持は国策にとっては高い優先順位ではありません。しかし“national security”「国家の安全や機密保持」 は本来、「国民の秘密保持」として理解されるべきです。これには充分な証拠があります。
 たとえばオバマ大統領の無人爆撃機ドローンによる世界規模の暗殺計画は、ぞっとするような世界最大のテロ計画ですが、同時にそれはテロを生み出す計画でもあるのです。スタンリー・A・マックリスタル将軍は、軍を退職するまでは、アフガニスタンにおけるアメリカとNATO軍の最高指令官だった人物です。その彼が、「反乱者の数学」について話しています。無実の人間を1人殺せば10人の新たな敵をつくりだすことになる、と言っているのです。
 この「無実のひと」という概念は、マグナカルタ以来、過去800年間で私たちがどれほど進歩したのかを物語るものです。マグナカルタは、「推定無罪」(Presumption of Innocence)の原理、すなわち「疑わしきは罰せず」「有罪が確定するまでは無実」の原理を確立したもので、かつては英米法の基礎であると考えられていました。
 ところが今日、「有罪」というのは、「オバマによって暗殺の対象になった」ことであり、「無実」ということばが意味するのは、「まだ暗殺の対象になっていない」ことなのです。[しかも、この暗殺リストは「誰が対象になっているのか」「それはどのような理由か」を議会すら知りません。]
 ところで、ブルッキングス研究所は『アザミの花と無人爆撃機ドローン』“The Thistle and the Drone” という本を出版したばかりです。これは、アクバル・アフメド(Akbar Ahmed)による部族社会の人類学的研究で、高く評価されている本です。副題は『いかにしてアメリカの対テロ戦争はイスラム部族社会に対する地球規模の戦争になったか』となっています。
 この本の中で、アフメドは警告しています。―この地球規模の戦争は、いくつかの抑圧的な中央政府に圧力をかけ、ワシントンの敵(イスラム部族社会)への攻撃に着手させる。その戦争はいくつかの部族を「絶滅」に追い込むかもしれない。その戦争は攻撃する側の社会自身にとっても厳しい犠牲を伴う。このことは、アフガニスタン、パキスタン、ソマリア、イエメンでいま見られるとおりである。そして究極的にはアメリカでも。
 さらにアフメドは指摘しています。―部族文化は尊敬と復讐に基盤を置いている。だから「これらの部族社会においては、暴力的攻撃を受けるたびに反撃が起きる。部族民に対する攻撃が強ければ強いほど、反撃はもっとひどく血塗られたものになる」
 テロを攻撃対象にすることは、攻撃する側の本土にも致命傷を与えるかもしれません。英国誌、『インターナショナル・アフェアーズ』で、デイビッド・ヘイスティングス・ダン(David Hastings Dunn)が概説しているのは、高性能の無人爆撃機ドローンがますますテロ集団にとって完璧な武器になっているということです。なぜならドローンは、テロリストにとっては、[復讐の念に満ちた多くの自爆テロを生み出すという点で] 安価で入手しやすく、「その利点が合わさると、21世紀におけるテロ攻撃=テロによる反撃の理想的手段になる多くの特質をもっている」とダンは説明している。
 上院議員アドライ・スティーブンソン3世(Adlai Stevenson III)は、自分がアメリカ上院情報委員会に長年所属していたことに言及して、次のように書いています。「インターネット監視とメタ情報の収集は、911にたいする継続的な対応の一部だ。しかし、テロリストがその収集された情報に現れることはなく、万人の怒りや批難を呼び起こしただけだった。そして今やアメリカは、対スンニ派だけでなく対シーア派の戦争、すなわち対イスラム全体にたいする戦争をおこなっていると広く理解されるようになってしまった。しかも地上戦だけでなく、空からのドローンを使った攻撃だ。そしてパレスチナでは代理戦争。そのうえ戦争はペルシア湾から中央アジアまで広がっている。ドイツとブラジルはアメリカによる世界各地への侵入に憤慨している。結局この戦争は何をつくり上げたのか?」
 答えはこうです。それらがつくり上げたのは、アメリカの国際的孤立だけでなくテロの脅威の増大だ。
 無人爆撃機ドローンによる暗殺作戦は、国の安全を―それと知りつつ―危険にさらす政策です。同じことは、残忍な特殊部隊の作戦にも当てはまります。事実、イラク侵略は西側におけるテロを急増させました。これは英米の情報機関が当初から予測していたことでした。
 これらの侵略行為は、ふたたび、政策立案者たちにとっては何の懸念材料でもありません。彼らは、Security(安全と機密保護)という概念に、まったく違った理解をもっているからです。核兵器による一瞬にしての破壊すら、為政者にとっては重大な関心事ではないのです。――ただしこれについては、あとで、もう一度でふれたいと思います。


<註1> この記事は、2015年2月28日のチョムスキー講演に少し手を加えたものです。この講演は、カリフォルニア州サンタバーバラにある財団法人「核時代の平和」(Nuclea Age Peace Foundation)の後援によるものであり、ここに掲載したのはその前半部です。

<註2> TPPについて詳しくは下記を御覧ください。
「TPPは貿易協定の衣を着た企業による世界支配の道具」
「米国でふたりの上院議員がTPPの秘密主義と巨大資本との癒着をを批判する文書をオバマ大統領に」
「環大西洋協定と、ヨーロッパ民主主義の埋葬」


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英語の学力低下は、誰がもたらしたのか―文科省が初調査「高3英語力は中卒程度」(下)

英語嫌い、英語で授業、「"ざる水" 効果」、高3英語力調査 (2015/04/20)
 
前回のブログで、拙論「誰が英語の学力低下をもたらしたのか―文科省が初調査『高3英語力は中卒程度』」(上)を紹介しましたが、長周新聞(2015年4月15日)が引き続き、(下)を載せてくれましたので、それを以下に転載させていただきます。
 なお国内情勢ではTPP、国際情勢ではイエメンとウクライナが風雲急を告げていますが、それらについては下記に優れた分析や翻訳があります。それで私の方は、「英語教育」「アメリカ理解」その他へと、徐々に重点を移していきたいと考えています。
*櫻井ジャーナル:http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/
*マスコミに載らない海外記事:http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/


文科省が初調査「高3英語力は中卒程度」
英語の学力低下は、誰がもたらしたのか(下)


文科省では英語力の調査のほかにアンケート調査もおこなったようですが、それによると「英語を嫌いな生徒が五八・四%。海外留学やビジネスに必要なレベルの習得を目指す割合も約一四%にとどまった」そうです(時事通信三月一七日)。
 ところが、ここに興味深い調査結果があります。それは広島大学教育学部の調査で、それによれば、英語嫌いの生徒が一〇年ごとに激増しているというのです。それについて私は、前掲書『英語教育が亡びるとき』で次のように書きました。少し長くなりますが、以下に引用します。

さらに、もっと深刻なのは高校生の英語に対する意識が確実に変化していることです。広島大学教育学部英語教育研究室では、一九六六年から毎年一〇年ごとに研究室をあげて「高校生の英語学習意識」の調査を実施しているそうですが、一九九六年におこなわれた調査結果が『英語教育研究』四〇号に報告されています。それによれば「英語は将来必要だと思う人だけが勉強すればよい」と考える高校生が年を追うごとに増えています。
下の棒グラフ[省略]で網掛け部分が「英語に対する好意的意識」を示すように表示されているので、それを見ればお分かりのとおり、一九六六年には英語に好意を示すものが六三・八%もいたのに、一九八八年には半減して三〇・七%、そして一九九六年には二五・七%に落ち込んでいるのです。これを逆に言えば、「英語は将来必要だと思うひとだけが勉強すればよい」と考える高校生は、一九六六年には一一・九%しかいなかったのに、それが一〇年ごとに増えていって、一九九六年の時点では三一・八%になり、英語に好意を持つ二五・七%を超えてしまっているのです。
つまり昔の高校生は英語を勉強すれば明るい未来が待っていると信じることが出来たのに、今の高校生は「少しぐらい英語を勉強しても明るい未来が開けるとは限らない」ということがわかり始めているのです。この調査は一九九六年の調査ですから、最新の調査ではもっと悪い結果になっていることは十分に推測されます。なぜなら米国が嘘をついてイラク侵略したことが明らかになってからは「英語を話す理想の国」米国の権威は大きく失墜してきていますし、また米国発の金融危機がそれに拍車をかけているからです。(一六八-一六九頁)


 私は上記の引用で「この調査は一九九六年の調査ですから、最新の調査ではもっと悪い結果になっていることは十分に推測されます」と書きました。この予言が的中したことが、今回の文科省の調査で明確に示されているのではないでしょうか。
 というのは、広島大学の調査では、「英語は将来必要だと思うひとだけが勉強すればよい」と考える高校生は、一九六六年には一一・九%しかいなかったのに、それが一〇年ごとに増えていって、一九九六年では三一・八%になり、英語に好意を持つ二五・七%を超えてしまっています。
 この「英語は将来必要だと思うひとだけが勉強すればよい」という意識は、「英語を嫌いだ」という意識の間接的表明だと考えられます。それが一九九六年の時点で三一・八%だったのが、今回の二〇一四年の調査では五八・四%になっているのです。

一九六六年、一一・九%
一九九六年、三一・八%(三〇年間で約二〇%増)
二〇一四年、五八・四%(さらに二〇年後に約二六%増)


 つまり、政府・文科省が「英語は国際語だから勉強しろ」「英語を話せないのは日本人だけだ」「日本の不況は日本人の英語力のせいだ」という嘘を振りまいて、下は小学校から上は大学まで、生徒・学生に「英語漬け」を強制しているのですが、生徒の間では「英語嫌い」がますます進行しているのです。
 この「英語嫌い」の結果は、「海外留学やビジネスに必要なレベルの習得を目指す割合も約一四%にとどまった」という調査結果にも表れています。
 政府・文科省は、必死になって英語熱を煽り立て、あわよくばTOEFLまでも大学入試で受験させつつ海外留学(とりわけアメリカ留学)させようとしているのですが、当の高校生は「笛吹けど踊らず」なのです。
 しかし、だからこそ逆に、文科省や各県教育委員会の強制力を通じて、今の異常な英語熱がつくられているとも考えられるのです。
 ところが広島大学の調査では、一九六六年の時点で、「英語は将来必要だと思うひとだけが勉強すればよい」というアンケートにたいして「反対」、つまり「英語はすべてのひとが勉強すべきだ」と考えていた高校生が、六三・八%もいたのです。
 この頃は少なからぬ高校生がアメリカに好意をいだき、可能なら留学したいと思っていたから、政府・文科省はやっきになって英語熱や留学熱を煽る必要もありませんでした。
 しかし今の高校生は非常に冷めた目で英語やアメリカを見ているのです。その理由を私は前掲書で次のように書きました。くどいようですが再度引用します。

昔の高校生は英語を勉強すれば明るい未来が待っていると信じることが出来たのに、今の高校生は「少しぐらい英語を勉強しても明るい未来が開けるとは限らない」ということがわかり始めているのです。この調査は一九九六年の調査ですから、最新の調査ではもっと悪い結果になっていることは十分に推測されます。なぜなら米国が嘘をついてイラク侵略したことが明らかになってからは「英語を話す理想の国」米国の権威は大きく失墜してきていますし、また米国発の金融危機がそれに拍車をかけているからです。(一六九頁)


 いまアメリカは、オバマ政権になってから、イラクやアフガニスタンどころか、リビアやシリアやイエメンにまで戦争を拡大しました。そして無人機と秘密特殊部隊による殺戮で大量の難民を生み出し、世界各地を瓦礫に変えています。また国内でも、市街地だけでなく高校や大学などの学内でさえ、銃撃事件が相継いで起き、多くの生徒・学生が死傷しています。
 これではアメリカ嫌いが増えることはあっても減ることはないでしょう。そしてアメリカ嫌いは必然的に英語嫌いへと連動していきます。
 何度も言いますが、このような状況に危機感を感じたからこそ、政府・文科省は、教育委員会を使って英語熱を煽り立て、中高生に英検を強制的に受験させたりなど、しているのではないでしょうか。留学のための資格試験であるはずのTOEFLを、大学入試に使わせようとしたり、大学の一般教育にまで「英語で授業」を推奨するのも、その一貫でしょう。
 また、その制度的裏付けとして小中高の学習指導要領を次々に改訂(改悪?)し、その内容を「会話・コミュニケーション」一辺倒にしました。ところが皮肉なことに、その成果が「高三生徒の英語力が中卒程度」「海外留学やビジネスに必要なレベルの習得を目指す割合も約一四%」という惨めな調査結果になって現れたというわけです。
 それにしても「英語力が中卒程度」の高三生徒が続々と入ってくる大学に、「英語で授業」を推奨する文科省の神経が、私には信じられません。


<註> 日常会話文を暗記する英語学習法は、それを日常的に使う機会がないのですから、覚えてもすぐ忘れてしまいます。これを私は「"ざる水" 効果」と名づけています。笊(ざる)にどれだけ水を入れても、水は溜まらないからです。「会話文では会話の基礎は育たない」ひとつの理由です。詳しくは以下に載せてある私の英語教育論を御覧ください。
http://www42.tok2.com/home/ieas/
http://www42.tok2.com/home/ieas/englishteaching.html





長周新聞 文科省批判2(サイズ小)左 長周新聞 文科省批判2(サイズ小)右
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英語の学力低下は、誰がもたらしたのか―文科省が初調査「高3英語力は中卒程度」(上)

"ざる水" 効果、英語で授業、高3英語力調査、英語教育 (2015/04/18)

  前回のブログでは、『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー』にたいする長周新聞の書評を紹介しましたが、今度は同紙(2015年4月13日号)が、拙論「誰が英語の学力低下をもたらしたのか―文科省が初調査『高3英語力は中卒程度』」を2回に分けて掲載してくれましたので、その前編を以下に転載させていただきます。


文科省が初調査「高3英語力は中卒程度」
英語の学力低下は、誰がもたらしたのか(上)


 日本経済新聞夕刊(二〇一五年三月一七日)は、「高3英語力 “中卒程度”、文科省が初調査 “書く・話す ”苦手」という大見出しで、高校生の英語力が極めて貧弱であることを報じました。さらに大見出しの横に記事の要約があり、それは次のようになっていました。

文部科学省は一七日、高校三年生を対象に初めて実施した英語力調査の結果を公表した。民間の資格検定試験と同様に「読む・聞く・書く・話す」という英語の四技能について調べた。平均的な生徒の英語力は、実用英語技能検定(英検)に換算して、中学校卒業程度の三級以下と判定された。


 この記事でまず不思議なのは、「英検三級を中学卒業程度の英語力」としていることです。文意が不明なのですが、これを文章のとおりに理解するとすれば、次の二つに解釈できます。
(a) 日本の中学三年生の平均的英語力は英検三級程度。
(b) 日本の中学生は、ほぼ全員が英検三級程度の英語力を身につけて卒業する。
 いずれにしても、この記事を信じるとすれば、今回の調査では高校三年生の平均的英語力は中卒程度だったということですから、上記の(a)(b)を踏まえると、この記事は次の二つに解釈できます。
(a) 中学を卒業したとき平均的英語力が英検三級だったのだから、高校に入学してからの英語学習に何の効果もなく、英語力は英検三級の水準のまま推移した。
(b) 中学を卒業したとき全員が英検三級のレベルだったが、高校に入学してから学力が落ちる生徒もいて、平均すると高校三年生の学力は英検三級となった。
 しかし、(a)(b)いずれの解釈に立とうとも、現在の高校生の英語力が「停滞」または「低下」していることは、今回の調査で歴然と示されたと言えるでしょう。
 とはいえ、このことは初めから分かっていたことでした。というのは私は拙著『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー』(明石書店、二〇〇九)で、すでに次のように指摘していたからです。

 先述のとおり、会話中心の現行中学教科書は、語彙数が貧弱で、あまりにも内容が乏しく、中学生の精神年齢にふさわしいものとはとても言えませんでした。そのことが逆に学習意欲と英語学力の低下を強める要因にもなっていました。同じ現象が今度は高校教科書で起きてくるでしょう。
 高校教師の中から「教科書が会話一辺倒になる以前の中学生の方が、まだ高校へ進学した時点での英語学力は高かった」という声が聞こえてくるのは、このような理由によるのではないかと思われます。(一九〇頁)
 しかしコミュニケーション(会話)をメインにした中学校教科書では、教師に余程の力量がない限り、学力低下はさけられないだろう、というのは初めから予想されていたことでした。同時通訳の神様と言われた國弘正雄氏も、以前から「会話文では会話の基礎は育たない」と繰り返し主張されていましたが、そのとおりになっていると言うべきです。ところが、新高等学校学習指導要領では、この同じ愚を繰り返そうとしているのです。(一九二頁)


 私が上記の最後で、「ところが、新高等学校学習指導要領では、この同じ愚を繰り返そうとしているのです」と述べたのは、中学校学習指導要領が平成元年(一九八九)に「会話・コミュニケーション中心」へと変えられた結果、著しい学力低下が見られたからです。斉田智里氏の研究による次の図表(前掲書一九一頁)がそれをよく示しています。

斉田智里 「学力の推移」図表

 私は前掲書からの引用で、「同じ現象が今度は高校教科書で起きてくるでしょう」とも述べていますが、今度の文科省による英語学力調査は、まさにこの予言が的中したことを示すものではないかと思うのです。
 新高等学校学習指導要領が告知されたのが二〇〇九年三月で、正式に新課程に移行したのが二〇一三年度入学生からでした。しかし新指導要領が示す「英語で授業」「コミュニケーション重視」の方針を、二〇一三年以前から先行実施している学校も少なくありません。
 ですから、二〇一四年七~九月に実施された今回の学力調査で対象となった高校三年生(入学は二〇一二年四月)も、その影響を色濃く受けついでいることは間違いないでしょう。だとすれば、中学校と同じような学力低下があらわれても、何の不思議もありません。むしろ当然と言うべきでしょう。
 斉田智里氏の研究が示しているように、中学校学習指導要領が「会話・コミュニケーション中心」へと変えられた結果、高校入学時の英語能力は下がる一方なのですから、新高等学校学習指導要領の影響も加わり、高校生はダブルパンチを喰らっていると言ってよいのかも知れません。
 ところが、日経新聞によると、この調査結果を受けた文科省は、下記のように述べるのみで、問題の根本原因がどこにあるのかが全く見えていないようです。

「文科省は国際社会で活躍するグローバル人材の育成に向け、次期学習指導要領で英語教育を高度化する方針。高校では英検二級~準一級程度の英語力を身に付けることを目標とする見通しだが、現状との差は大きく、達成は容易でなさそうだ。」


 というのは、文科省が上記で述べている「次期学習指導要領で英語教育を高度化する方針」とは、今までの流れからすると、ますますコミュニケーション中心の教科書を使い、さらに「英語で授業」を徹底すること以外に考えられないからです。
 今でさえ「会話・コミュニケーション中心」になっている中学校に、さらに「英語で授業」を強制する新しい方針が出されていることも、私の主張を裏づける傍証となるはずです。
 しかしこれでは、英語学力の荒廃がますます進行し、生徒の英語嫌いは増えることはあっても減ることはないでしょう。
(つづく)

<註> 日常会話文を暗記する学習法は、それを日常的に使う機会がないのですから、覚えてもすぐ忘れてしまいます。これを私は「"ざる水" 効果」と名づけています。笊(ざる)にどれだけ水を入れても、水は溜まらないからです。「会話文では会話の基礎は育たない」と言われるゆえんです。詳しくは以下に載せてある私の英語教育論を御覧ください。
http://www42.tok2.com/home/ieas/englishteaching.html



長周新聞文科省の批判118
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書評 『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー』

ヴィゴツキー、生活言語、学習言語、真理を見抜くための「武器としての英語」、英語教育 (2015/04/03)
亡びるとき 
 日本経済新聞夕刊(2015年3月17日)は、"高3英語力 「中卒程度」、文科省が初調査「書く・話す 苦手」" という大見出しで、高校生の英語力が極めて貧弱であることを報じました。
 それと時期を合わせるかのように、長周新聞は3月25日の教育文化欄に、“人間的成長阻む「会話重視」”と題して、拙著『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー』(明石書店)の書評を載せました。
 日本の言語環境を無視した「会話・コミュニケーション重視の英語教育」が英語力低下をもたらすことは、すでに上記『英語教育が亡びるとき』で予言されていたことでした。そこで以下に、長周新聞の書評を紹介することにします。


人間的成長阻む「会話重視」
日本の現実に根ざして批判力 育てる英語教育を

寺島隆吉著『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー』

日本人が英語をしゃべることができないのは文法重視の英語教育の悪弊から抜け出せないからであり、会話重視の教育に転換しなければならないと、まことしやかに宣伝されてきた。その延長線上で今では小学校の低学年から英語授業が導入され、高校だけでなく中学校英語の授業まで英語でおこなうことが要求されるまでになっている。
 さらに大学の講義も英語でやるとか、学会誌でも内容以前に英語で書いた研究論文が評価される風潮が、ユニクロや楽天の英語公用語化、英会話教室の林立などとあいまって、マスコミによって時代の流れであるかのようにふりまかれている。
 著者は長年高校教師を勤めたあと大学で英語教育の研究・教育に携わった経験、また高校教師らの自主的研究会による授業実践、専門的な研究者の発言やデータをふまえて、こうした風潮がいかに現実離れした空論であり、時代遅れの謬論であるか、科学的体系的な暴露、批判を試みている。とくに「会話重視」を掲げて「英語で授業」を明記した新しい高校指導要領を詳細に分析し、そこに流れる冷酷で非人間的なイデオロギーをあぶり出すものとなっている。
 中学高校の現場では、英語の授業についていけない生徒は勉学の意欲を失い、わからないから騒ぐなど授業崩壊が日常化している。いわゆる「底辺校」「困難校」の英語教師はただでさえ国語や数学と同様に、その対応に追われ疲れ果て退職・休職、自殺、さらには管理職の降格願いが急増している。表面的には「授業が成り立つ」とされる進学校においても、受験対応型の授業一辺倒で「投げ込み教材」などで人間育成をめざす英語教育を進めることが困難に追いやられている。
 こうしたなかで小学校から英語を学習してきた生徒たちの間で、英語嫌いが増えており、英語の勉強をしなくなっている状況が生まれている。政府・文科省がこうした実情を見て見ぬふりをして進める英語教育が、生徒たちにますますわからなくさせて授業崩壊を加速させることは目に見えている。

「英語バカ」つくる文科省教育

 母語の日本語での授業すら成り立たないのに、どうして「英語で授業」を求めるのか。政府・文科省や、「英語で授業」を明記する新指導要領を作成した「英語教育専門家」はそれに誠実に答えずに、教師の説明で終わる授業ではなく「生徒の活動」を通しての理解とか、「生徒を信頼せよ」とはぐらかすだけである。そして、英語でディベートができることを目標に掲げて「会話重視」の「コミュニケーション英語」の推進に拍車をかけている。その過程で、教科書から「平和・人権・環境」などを扱った教材や文学作品が消えていき、「深い内容の読み物教材」が外に追いやられてきた。
 著者は生徒・学生が主体になるような授業実践・授業研究を長期にわたって築いてきた体験から、会話教育よりも読解教育を重視すべきであること、会話中心の授業から会話力は育たないことを強調する。そこには、英語教育が求める学力観の根本的な対立がある。今の日本社会に巣立っていく生徒たちに必要なのは、日常会話ができる「英語力」ではなく、実際に英語が必要になったときに生きて役立つ基礎の習得である。そのためには「話す力」よりも「読む力」、さらに作文教育を通した「書く力」を育てることこそ必要なのである。
 さらに、文法を使って教授・学習する方がはるかに能率的で教育効果があることについて科学的な裏づけをもって明らかにしている。外国語学習は、母語のように「生活言語」から「学習言語」への学習という過程をたどらず、逆に「学習言語」としての文法などの学習から「生活言語」に達するという道筋をたどるからである。それはロシア革命後に世界的な研究成果をあげた言語学者ヴィゴツキーの言語認識論もふまえた考察である。
 政府・文科省の「文法重視」から「会話重視」への方向転換は、英語教育を感性的な「生活言語」としてのレベルに押しとどめ、論理的な思考をともなう「学習言語」としての英語の力をつけなくても良いとする観点が貫かれているといってよい。それは、英語の学力を著しく低下させ、しゃべることができても日常会話レベルの「英語バカ」を生み出すものでしかない。
 著者は、政府・文科省が「すべての日本人に英語を」「すべての授業を英語で」と現実不可能なことを押しつけるが、そのくせそのために不可欠な少人数学級への改善や教師の教材研究や自主研修の時間的な保障、指導における自由裁量の拡大などの環境整備に力を入れるどころか、逆に上意下達の統制を強めてますます閉塞状況を強いていることに厳しい目を向け、鋭く告発している。

植民地的教育からの脱却を

 だが本書は、単なる政策上の批判にとどまらず、今日の日本における英語教育の本来の目的、英語教師がはたすべき役割について、建設的な立場から具体的実践的に論じている。それは、日本の空を覆う異常な「英語熱」がいつか必ず正される日が来るという確信とともに、それを放置することが生徒たちの人間的成長を破壊し、教師を精神的肉体的に疲弊させ、社会的な損失につながるという譲れぬ観点からである。
 なによりも「すべての日本人」が英語がしゃべられないことを問題にすること自体、間違っているのだ。それは、英米の植民地であった国のように、日常生活で英語をしゃべる必要がないからであって、当然のこととして誇るべきことなのである。著者はまた、「英語力」が経済力や研究力を示すと見ることも大きな誤りだと指摘。英語を公用語とするフィリピンの経済力が弱く、海外への出稼ぎに頼っている実際からも論じている。
 さらに外国語教育を英語一辺倒にしていく政府・文科省の言語政策を日本社会の実際からかけ離れた時代遅れの産物だと批判を加えている。英語だけが外国語ではないことはいうまでもない。日本社会で日常的に接する外国人は圧倒的に中国人、朝鮮人をはじめとするアジア人であり、ブラジル人などである。また現実に日本の企業が進出する大半が中国、ベトナム、タイなどアジア諸国だ。
 著者は英語教師は、「外国語は英語だけではない」ことを教えるべきであり、さらに「アメリカが理想の国だから英語を学ぶ」のではなく、「日本をアメリカのような国にしないために、英語を学ぶ」ことを英語教育の目的として明確にあげている。それは隠された真実を知っていく武器として英語を学ぶという観点である。アメリカのマスコミ、さらにはそれをそのまま垂れ流す日本のマスコミを通して、為政者から与えられる情報に振り回されたのが、湾岸戦争やイラク戦争などだったからだ。
 文科省の「戦略構想」はどこから見ても、高校生の意識にも現実の企業行動にも合致していない。著者は、「それを求めているのはごく一部の超大手企業か外資系企業であり、英会話やTOEFLやTOEICテストなどを売り物にしている英米や国内教育産業だ」と指摘。財界が会話中心の「英語が使える日本人」の育成を求めるのは、日本が「アメリカの五一番目の州」であるかのようにみなしているからだと喝破している。
 そして、「日本は一九五一年にアメリカによる占領状態を脱し、独立国になった」とされるが、今日まで植民地状態を脱却していない現実にその根拠を認めている。著者が「日本人の、日本人による、日本人のための英語教育」というあたりまえのことを主張しなければならないのは、まさに今日の英語教育がそれに真向から対立するものになっているからであり、「アメリカの、アメリカ(それに隷従する日本支配層)による、アメリカのための英語づけ教育」に堕しているからだといえよう。
 著者は、今日の「英語熱」の背景に、第二次世界大戦の反省を投げ捨てて「中国・ロシア・朝鮮と距離を置き、軍備を拡張しつつ、軍事も経済もアメリカと一体化すること」だけを目指し、「そのうえに、アメリカとの軍事演習が英語でのみおこなわれている」状況を見据えている。さらに、それが「かつて日本が台湾・朝鮮・インドネシアから多くの若者を徴兵し、日本語で指示命令を下した光景と重なって見えてくる」と記している。
 本書は二〇〇九年に、当時の小泉政府への批判の矢を向けて発行されたが、六年を経た今日、安倍政府への鋭い批判として威力を放っている。(一)

(明石書店発行、B6判・三二八ぺージ、二八00円+税)

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