翻訳 チョムスキー「企業モデルが米国の大学をダメにしている」その3

教育の二つのモデル(「器モデル」と「紐モデル」、「注入モデル」と「創造モデル」)、教育原理(2015/08/26)


 ギリシャではティプラス首相が辞任を宣言しました。しかし、どうせ総辞職するくらいなら、、さらに残酷な新しい緊縮政策の要求がトロイカ [欧州連合・国際通貨基金・欧州中央銀行]から出てきた直後に総辞職すべきだったでしょう。その要求に屈したあとで総辞職したのでは、圧倒的多数が国民投票でNOの意思表示をした意味がありません。
 このままでは、ギリシャの風光明媚な島々や地方の空港・港湾の多くがドイツの会社に買収されてしまいます。しかし、もっと皮肉なのは、この厳しい要求の先頭に立っているドイツが、第一次大戦に敗北したあと厳しい賠償を突きつけられ、その反動でヒトラー政権が誕生したことです。ですから、ティプラスの左派政権が総辞職したあとに新しく誕生する政権は、極右またはネオナチ政権という可能性もあります。
 アメリカでは相変わらず警察による残虐行為が続き、それにたいする抗議行動が全土で燃え上がってファーガソンでは戒厳令すら発動される事態になっています。他方で、アメリカ西海岸では山火事が燃えさかっていて消防士の死者まで出ているだけでなく激しい地盤沈下も起きていて、使えなくなっている鉄道線路もあるそうです。<註>
 したがって常識的に考えれば、いまアメリカは海外で戦争を拡大するよりも国内問題に専念すべきはずです。しかし「だからこそ戦争だ」とも考えられるのです。国内に矛盾が鬱積しているとき、その不満の声を国外に発散させるためにこそ新しい敵・新しい戦争が必要だからです。いまオバマ政権とマスメディアによって中国とロシアが急速に悪魔化されつつあるのは、その意味で当然とも言えます。
 このアメリカの政策を忠実な下僕として協力推進しようとしているのが、残念ながら、我が国の政府です。だからこそ、米軍基地撤廃という沖縄県民の圧倒的な声・願いは圧殺されなければなりませんし、他方で「国際化」(=「英語化」)という名の大学改革を強力に推進し、「留学生倍増」「TOEFL受験」というかたちで若者を大量にアメリカに送り込むことになるわけです。
 とはいえ、このような改革を推進するためには学内の「抵抗勢力」を押さえつけなければなりません。いま文科省が企業モデルに従って、全国に「学長権限を強化するよう学則を改めよ」という通達を出している理由も、このような背景を考えると、十分に納得できるものです。しかし、これは教育本来の目的・理念を踏みにじり、教員から教育への情熱を奪い取るだけです。それは以下のチョムスキー論考からも明らかでしょう。

<註> アメリカでは1%の大金持ちが富を激増させている反面、残りの99%はますます貧困化しています。昨日のRTニュース(26 Aug 2015)によると、カリフォルニア州ロサンゼルス地区(LA County)では200万人の生活保護受給者がいて、そのなかから毎月1万3000人のひとがホームレス(路上生活者)に転落しています。
13K public aid recipients become homeless in LA County every month



目次
1 終身在職コースから排除した教員雇用(前号)
2 高等教育はどうあるべきか(前号)
3 「協同統治」と労働者管理について(前号)
4 いわゆる「雇用の柔軟性」について(前号)
5 「教育の目的」について(今号)
6 「教育への情熱」について(今号)
7 助手が労働組合を組織することにたいする助言(今号)




企業モデルが米国の大学をダメにしている
Corporate business models are hurting American universities

ノーム・チョムスキー<、PA, October 10, 2014
http://www.chomsky.info/talks/20141010.htm


5 「教育の目的」について
これについての議論は啓蒙時代にまでさかのぼることができます。その頃、単に聖職者や貴族のための教育だけではなく、高等教育と大衆教育の問題が議論されていました。そこでは基本的には、二つのモデルが提起されていました。

それらは視覚的にも非常に分かりやすいモデルで議論されていたのです。ひとつは、教育というものは、例えば水で満たされるべき器(うつわ)のようなものであるべきだというのです。それが最近では「テストを目指して教える」"teaching to test" と言われているものです。器を水で満たしたら、今度はその水を器から返すわけです。しかし、学校教育を受けた人なら誰でも知っているように、その器は非常に漏れやすい器です。試験に受かるために、何の興味もないことを試験のために丸暗記するのですが、試験が終わって一週間もすると何を学んだのか覚えていないのです。最近では、このモデルは「どの子も落ちこぼさない」「テストをめざして教える」「頂点をめざす競争」 "no child left behind," "teaching to test," "race to top," などいろいろな名前で呼ばれるようになりました。同じようなことが今や大学にまで持ち込まれています。啓蒙時代の思想家は、このようなモデルに反対してきました。

もうひとつのモデルは、「紐モデル」とも言うべきものです。伸ばされた1本の紐があり、その紐に沿って生徒は自分のやり方と自分の意思で進んでいくわけです。その紐を伸ばしたり、向きを変えようと思ったり、ときには紐について疑問を出すかも知れません。

紐を提示するということは何らかの構造を提起しているわけです。ですから、教育プログラムというのは、それが物理学のコースであれ何であれ、そのプログラムに沿って進んでいくということではなく、何らかの構造があるのです。

しかし教育プログラムの到達点は学生が探求したり想像したり革新したり挑戦したりする能力を獲得することです。それが教育でしょう。ある世界的に有名な物理学者が、新入生の授業で「この学期では何を学ぶことになっているですか」と尋ねられて、「何を学ぶかは重要ではない。君が何を発見するかが重要だ」と答えたそうです。授業のなかでは、学習事項にたいして挑戦し想像し革新する能力と自信を獲得すべきなのです。それが真の学び方であり、そのようにしてこそ学んだことを内在化し、さらに先へと進むことができるのです。学ぶということは、何か決まった事実を暗記し、それを試験用紙に吐き出し、翌日には学んだことを忘れる、といったことではありません。

先にも述べたように、教育には全く異なった二つのモデルがあるのですが、啓蒙主義の理想は後者のものでした。それこそ私たちが目指すべきものでしょう。それこそが真の教育であり、幼稚園から大学院までのすべての教育者がめざすべきものです。実際そのような教育プログラムが幼稚園でも開発されています。かなり良いものですよ。


6 「教育への情熱」について

私たちは教員も学生も、満足できて楽しく且つ挑戦的で刺激的な活動に従事したいと願っています。これは確かですし、実際それほど困難なことだとは思いません。小さな子供でも創造的で探求心にあふれています。みんな知りたいと思っていますし理解したいと思っています。ですから学校教育でそのような能力が駆逐されない限り、その能力は死ぬまで消えません。もしそのような仕事に従事したり関心を追求する機会が与えられれば、それは人生で最も満足すべきことの一つです。

それは物理学者にも大工にも当てはまる真理ではないでしょうか。何か価値のあるものを創造したり、困難な問題に取り組んで解決するという点では同じだからです。それこそが、誰でもやりたいと思っていることであり、それが仕事の原動力ではないでしょうか。そうなれば、義務ではなくとも、命令されなくても、皆それをやるのです。まともに機能している大学であれば、皆それをしたいから休まず仕事をしている人たちの姿を、そこに見出すでしょう。それが彼らの望んでいることであり、彼らはそのような機会と資源を与えられ、自由で自立し創造的であるよう励まされるのです。これほど素晴らしいことがあるでしょうか。それが大学人が望んでいることです。ただし、何度も言いますが、これは大学でなくても、どのレベルでも可能なのです。

様々なレベルで開発されつつある、想像力かつ想像力に満ちた教育プログラムを、構想するのは価値あることです。例えば、あるひとが先日、高等学校で使っている教育プログラムを私に説明してくれました。理科教育のプログラムですが、そこでは次のような興味ある質問を生徒に投げかけます。「蚊はどうやって雨の中を飛ぶか」

それは考えてみると、なかなか難しい質問です。もし蚊に当たる水滴の力と同じ程度のものが人間にぶつかれば、人間は一瞬にしてぺちゃんこになってしまうでしょう。では蚊はどうして押しつぶされないのか。どうやって蚊は飛び続けることができるのか。そのような疑問を追求すれば、これはかなり高度な質問ですから、数学・物理学・生物学の問題に入り込むことになり、その答えを見つけたいと思ったひとには十分に挑戦的な質問だということになります。

上記の例は教育がそれぞれのレベルでいかにあるべきかを示すもので、文字通り、それはずっと下の幼稚園にまで当てはまるものです。たとえばここに幼稚園のプログラムがあります。そこで子どもたちが小物(砂利、貝殻、種子など)を集めたものを与えられます。そこで、そのクラスでは、どれが種子なのかを見つけ出す課題を与えられます。それは「科学会議」と呼ばれるもので始まります。子どもたちは話し合って、どれが種子かを見つけ出そうとします。もちろん教師の指導も入るのですが、ここでの狙いは子どもたちに考え抜かせることなのです。

しばらくして、子どもたちはいろいろな実験を試みます。そしてどれが種子なのかを見つけ出します。その時点で子どもたちに拡大鏡が与えられ、教師の手助けで種子を割り、種子を成長させる胚を見つけます。こうして子どもたちは何かを学ぶのです。種子とそれを成長させるものについてだけでなく、発見の仕方をも学ぶのです。子どもたちは発見と創造の喜びを学んでいるわけです。それこそが、教室を出たあとも学校を出たあとも、子どもたちが自力で前進していく力を培うことになるのです。

同じことが大学院に至るまで教育全体について言えます。まともな大学院のセミナーであれば、教師の言ったことをそのまま書き写したり繰りかえしたりすることを、学生に求めません。彼らに期待するのは、教師が間違ったことを言ったら指摘したり、新しい考えをもってきて教師の意見を聞いたり、以前には思いつかなかったような方向に挑戦したり追求することです。それこそが真の教育であり、それはすべてのレベルで求められるべきことであり、援助し励まされるべきことです。それこそが教育の目的であるべきでしょう。それは頭の中に情報を注ぎ込む教育とは異質のものです。それは頭から吐き出されるかも知れませんが、決して創造的で自立した人間を育てることにはつながりません。創造的で自立した人間は、どのようなレベルであれ、興味を惹くどのような領域であれ、発見と創造すなわち創造性に興奮を見出すものだからです。


7 助手が労働組合を組織することにたいする助言

何をなすべきか、あなた方がどんな問題に直面しているかについては、私よりもあなた方のほうが御存じでしょう。前進あるのみです、なすべきことをやってください。怯んだり脅えたりする必要はありません。意思さえあれば未来を手にすることは可能です。自信を持ってください。

(以上で完結)


<註> 連載した翻訳は下記に一括して掲載してあります。
チョムスキー20141010「ビジネスモデルがアメリカの大学をダメにしている」
 なおギリシャおよび南欧(スペインその他)にかけられている「緊縮財政」Austerityという攻撃については下記を参照ください。
チョムスキー20121223「ヨーロッパ福祉国家の解体」


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翻訳 チョムスキー「企業モデルが米国の大学をダメにしている」その2

労働騎士団the Knights of Labor、ジョン・デューイ、「産業民主主義」"industrial democracy" 、「協同統治」 "shared governance"、労働者管理worker control 、「雇用の柔軟性」 "flexibility"、「労働改革」 "labor reform" 、教育原理(2015/08/19)


 かつて全共闘運動が盛んだったとき、「東大闘争」と言われるものが闘われ、その成果として7学部自治会と東大当局との間で大学統治に学生が参加する協定(いわゆる「確認書」)が結ばれました。この確認書の最も大きな特徴は「大学自治への学生参加」という点でした。(東大院生協議会『東大変革への闘い』労働旬報社1969)
 しかし大手マスコミは全共闘が安田講堂を占拠し、それと機動隊との攻防のみを大きく取り上げ、この「大学自治への学生参加」は全く無視されました。その意義を指摘する大手メディアは皆無だったように記憶しています。全共闘運動のほうからも、このような成果を「無原則な収集策動」とする強い攻撃がありました。
 もちろん自民党文教部会および政府・文科省からも、「確認書」にもとづく「大学自治への学生参加」にたいして、それを阻止しようとする強い圧力が大学当局にかけられました。その結果、せっかく花を開きかけた「学生参加」の運動は、蕾(つぼみ)のまま消え去ることになってしまいました。
 ところが、ほぼ同じ頃、アメリカで展開された学生運動は、黒人の公民権運動とあいまって、「大学自治への学生参加」という素晴らしい果実を手にしたのでした。このインタビューでチョムスキーは、「私の学部では、この40年間、学生は学部教授会に代表を出して、そのような参加は有益な効果をもたらしています」と述べています。
 それに反して現在の東大(とりわけ工学部)は、フクシマ原発で露骨に示されたように、原発を推進する御用学者の巣窟(いわゆる「原子力ムラ」)になっただけでなく、最近では、防衛省の「軍事研究」を積極的に受け入れようとする動きすら出ています。
 安倍政権が、一方では「大学の英語化」「グローバル人材の育成」を声高に叫びつつ、他方では集団的自衛権をふりかざして、「国立大学では人文系・社会科学系の学部は不要」と言い始めている今こそ、このインタビューを読み直す価値があるのではないでしょうか。


 目次
1 終身在職コースから排除した教員の雇用(前号)
2 高等教育はどうあるべきか(今号)
3 「協同統治」と労働者管理について(今号)
4 いわゆる「雇用の柔軟性」について(今号)
5 「教育の目的」について
6 「教育への情熱」について
7 助手が労働組合を組織することにたいする助言




企業モデルが米国の大学をダメにしている
Corporate business models are hurting American universities

ノーム・チョムスキー、PA, October 10, 2014
http://www.chomsky.info/talks/20141010.htm


2 高等教育はどうあるべきか
まず第一に、昔は「良き時代」があったと言う考えを捨てるべきです。状況は今とは違っていましたから、ある点では過去は良いことはありましたが、とても完全とは言えないものです。たとえば伝統的な大学は非常に階層的で、大学の意思決定に民主的参加をする余地はほとんどありませんでした。1960年代に広がった活動の一つは大学を民主化することでした。たとえば教授会に学生の代表を送り込んだり、職員を参加させたりしようとしたのです。

これらの努力は学生の主導で遂行され、かなりの前進を見ました。今では、ほとんどの大学は、程度の差はあれ、学部の決定で学生を参加させています。私が思うに、これらの活動はもっと前進させるべきです。民主的機関は、その組織の構成員が誰であれ、教員・学生・職員のすべてが、組織のありかたや運営方法に関して、その意思決定に参加すべきものなのです。同じことは工場でも言えます。

これらは過激な考えでも何でもありません。これらは古典的な自由主義から自然に導き出されるものです。ですから例えばジョン・スチュアート・ミルは[イギリスの]古典的自由主義の伝統に立つ代表的人物ですが、彼は労働の場はそこで働く人々によって運営され管理されるのが当然だと考えていました。それが自由であり民主主義だというわけです。同じことはアメリカでも言えます。例えば労働騎士団the Knights of Laborという労働組合の時代に戻ってみましょう。彼らはその目的を次のように明言しています。「協同組合的な業務体制を導入することによって、賃金奴隷制度に取って代わる協同的組織を創り上げること」。

あるいはジョン・デューイのような人物でもよいでしょう。彼は20世紀の社会哲学者の代表的人物です。彼は学校における教育は[外部からの干渉を退け]創造的独立を目指すべきだと主張しただけでなく、産業における労働者管理をも主張しました。それを彼は「産業民主主義」"industrial democracy" と呼びました。彼が言うには、社会の基幹産業(例えば、製造業・商業・運輸業・情報通信業)が民主的に管理されなければ、「政治は大企業によって社会に投影された単なる影にすぎなくなる」のです。

このような考えはほとんど基本的なものです。それはアメリカ史と古典的自由主義に深く根ざしたものです。それは勤労者にとっては第二の天性であるべきものですし、大学にも同じように適用されるべきものです。大学には民主的透明性を適用できない場合も(たとえば学生のプライバシーに関わることなど幾つかの微妙な問題など)若干はありますが、通常の大学運営では学生の直接参加が正当であるだけでなく有益であることを否定するいかなる根拠もありません。例えば私の学部では、この40年間、学生は学部教授会に代表を出して、そのような参加は有益な効果をもたらしています。


3 「協同経営」と労働者管理について

大学は、私たちの社会では、たぶん民主的労働者管理に最も近い社会組織です。例えば学部内では、少なくとも終身教授のひとたちが自分たちの実質的労働量・労働内容を自分たちで決めるのは普通のことです。たとえばどんなことを教えるか、いつ教えるか、どのようなカリキュラムにするかなどは自分たちで決めます。教員がおこなう仕事の大半は、終身教授が自分たちで管理します。

もちろん昨今は、私たちの上に管理職がいて、それを乗り越えた管理はできません。たとえば、教員は誰かを終身教授にするよう提言することはできますが、それを学部長や学長や、ときには理事や評議員が却下することはあります。とはいえ、それほど頻繁にあるわけではありません。しかし、そういうことはありうるし実際にあります。それは組織というものがある限り常につきまとう問題ですが、管理職が教員から選ばれていて、その管理職が不当な行為をしたとき原則的にリコールが可能であれば、たいした問題ではありません。

代表制のもとでは誰かが管理職の仕事をしなければなりません。しかし管理職のもとで管理されている教員が主権者であり、その管理職をある時点でリコールできることが重要です。しかし最近ではそのような権利が少しずつ浸食されています。ますます管理だけを専門とする管理職が増え、その階層がますます厚くなっています。教員から選ばれた管理職が減らされ、教員が管理できないポストがどんどん増えつつあります。私は先にベンジャミン・ギンズバーグ氏の『教員の地位の没落』(The Fall of the Faculty)という本について言及しましたが、この本はジョンズ・ホプキンス大学やコーネル大学など幾つかの大学について、その実態を詳細に調べたものです。

これと同時に、最近の教員はますます非常勤講師(臨時雇いの教員)といった地位におとしめられてきています。彼らは終身教授になる道を閉ざされ、非常に不安定な身分を強要されています。私の知人にも実質的には永遠に非常勤講師のままで、正教員の地位を与えられないひともいます。毎年のように講師の地位を得るために申請し直さなければならないのです。こんなことはあってはならないことです。

また助手についてですが、これは制度化されてしまっていて、意思決定機関の一部であることを許されていません。彼らは身分の保障から排除されています。これでは問題を増幅させるだけです。職員についても同じで、彼らも意思決定機関に参画を許されるべきです。彼らも大学の構成員なのですから。

ですから、なすべきことは多くあります。しかしこのような傾向が広がっていることは容易に理解できるでしょう。それらはすべて、ビジネスモデルを生活のあらゆる側面に強制しようとする傾向の表れなのです。それは新自由主義の思想であり、世界の大半がこの40年間そのような思想の下で生きています。それは民衆にとってはきわめて有害な考え方で、
それに対する抵抗も続いてきました。しかも世界の二つの部分が、かなりそのような思想から抜け出していることは注目に値する事実です。ひとつは東アジアです。そのような考え方を全面的に受け入れてはいません。もう一つは南米で、そのような考え方をこの15年間、拒否し続けています。


4 いわゆる「雇用の柔軟性」の必要性について

「雇用の柔軟性」という言葉は工場労働者には非常になじみの深いものです。いわゆる「労働改革」の一部が、もっと労働を「柔軟」にするということで、言い換えれば雇用と解雇をもっと容易にするということです。それはまたもや、利潤の最大化と労働者の管理を確実にする方法です。「柔軟性」は良いことだとされているのです。それは「労働者の身分をもっと不安定化させる」のと同じように、経営者にとっては良いことなのです。そのことが是とされている産業は別にしても、大学についていえば、それを正当化できる理由は何もありません。

たとえば、学生の登録人数が規定数に達しなかった場合はどうでしょうか。それはたいして大きな問題ではありません。私の娘の一人は大学で教えていますが、先日の夜、電話をかけてきて、教えるコースが変わったというのです。教えることになっていたコースに学生が十分に登録せず、その人数が規定数に満たなかったからだそうです。しかしそれで世界が週末を迎えるわけではないのですから大騒ぎをすることはありません。大学側が教員の配置を少し変えて、別のコースか予備のコースを教えることになるだけです。コースの学生登録人数が変動したからといって、解雇されたり身分が不安定になるということは、あってはならないのです。そのような変化に対応する調節方法はいくらでもあるからです。

労働者は「柔軟性」という条件を満たすべきだという考えは、労働者を管理し支配する標準的技術のひとつにすぎません。その学期に何もすることがない[つまり閑職]というのであれば、なぜ経営者から首を切らないのでしょうか。理事でもよいでしょう。彼らがそのポストに就いていなければならない理由は何でしょうか。これは大学以外の産業についても同じです。労働者は柔軟であるべきというのであれば、経営者はどうなのでしょうか。彼らの大部分はほとんど無用ですし、むしろ有害である場合すらあります。だから彼らから首を切ればよいのです。

こんな風に話しているときりがありませんが、最近のニュースを取り上げてみましょう。例えばJPモルガン・チェイス銀行のCEO、ジエイミー・ディモンはどうでしょうか。彼は大金のボーナスを手に入れたばかりです。およそ給料の二倍です。これは銀行を刑事罰から救ったことに対する謝礼です。さもなければ経営陣は牢獄送りになっていたでしょう。それを彼はたった200億ドルの罰金で切り抜けたのです。そんな人物を解雇するほうが経済にとって有益だと思いませんか。しかし「労働改革」ということが問題になるとき、このようなことは話題になりません。「労働改革」で苦しむのは勤労者なのです。身分が不安定になり苦しまねばならないからです。明日のパンすらどこで手に入れたらよいか分かりません。だから躾けられて従順になり、疑問の声を上げたり権利を要求することもできません。

それが圧政的体制の仕組みです。ビジネス界は専制君主の体制なのです。そのような体制が大学にも適用されたらどうなるか。それはあなたも自分の目で十分ご覧になっているでしょう。これは暴き出されねばならない現実です。
(以下、次号に続く)
 
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翻訳 チョムスキー「企業モデルが米国の大学をダメにしている」その1

「プルートノミー(財閥・富裕層)」 "plutonomy" 、「プレカリアート(不安定労働者)」 "precariat" 、元FRB議長アラン・グリーンスパン、大学のビジネスモデル、「民主主義の危機」、三極委員会、教育原理(2015/08/19)


 去る2004年に国立大学が法人化されてから、2014年3月で満10年となります。その結果、大学は良くなったのでしょうか。
 この間、国立大学は一貫して文科省からの予算を減らされ、他方で「学長の権限を強めろ」という指示のもと、ますます教育研究機関というよりも営利機関としての性格を強めてきました。
 そして「大学を英語化しろ」「グローバル人材を育成しろ」と言いつつ、補助金で大学のありかたを実利化の方向に誘導しています。それどころか最近では、役に立たない人文系・社会科学系の学部は縮小・廃止しろとまで言い始めました。
 このような実利や儲けを念頭においた大学経営は、すでにアメリカで先行しています。文科省の新しい方針は、このようなアメリカの先例を後追いしているだけとも言えます。
 そこで、このようなアメリカの先例をチョムスキーがどう見ているか、その翻訳「企業モデルが米国の大学をダメにしている」を以下で紹介したいと思います。いま日本の大学で起きていることを理解する一助になれば幸いです。


目次
1 終身在職コースから排除した教員雇用
2 高等教育はどうあるべきか
3 「協同統治」と労働者管理について
4 いわゆる「雇用の柔軟性」について
5 「教育の目的」について
6 「教育への情熱」について
7 助手が労働組合を組織すること



企業モデルが米国の大学をダメにしている

Corporate business models are hurting American universities

ノーム・チョムスキー、PA, October 10, 2014
http://www.chomsky.info/talks/20141010.htm


1 終身在職コースから排除した教員雇用

それがビジネス・モデルの一部ですね。工場の臨時社員やウォールマートのいわゆる「協同員(アソシエイト)」を雇うのと同じです。手当・給付金の恩恵のない従業員です。それは企業モデルの一部で、人件費を削減して、労働者の奴隷状態を増大させるように計画されています。大学が企業化するようになると、国民にたいする全般的な新自由主義的な攻撃の一部として、最近の世代に組織的に起きてきているのと同じことですが、大学のビジネスモデルも、問題は最終損益ということになるのです。
*手当・給付金(benefits):共済組合・保険会社・公共機関などの機関や年金制度によって支払われる年金や失業手当など。

大学の実質的所有者は理事(州立大学の場合は州議会)であり、彼らは費用を抑えて、労働者を扱いやすく従順なものにしたいのです。その方法は主として臨時雇用にすることです。新自由主義的気運が高まっていたとき臨時雇用が増えました。それと同じことが大学でも起こりつつあるのです。

そういう考え方は社会を二分しようとします。一つの集団は、ときには「プルートノミー(財閥・富裕層)」 "plutonomy" と呼ばれています。これは、シティバンクが投資家たちに資金をどこに投資したら良いのかについてアドバイスしていたときに使った用語です。富の最上層部であって全世界的な存在ですが、ほとんど米国のようなところに集中しています。もうひとつの集団は、その残りの人々で、「プレカリアート」 "precariat" と呼ばれています。いつ人生の落伍者になるかもわからない不安定な毎日を生きているひとたちです。
*プレカリアートは、「不安定な」(英: precarious、伊: precario)と「労働者階級」(独: Proletariat、伊: proletariato)を組み合わせた語で、1990年代以後に急増した不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および失業者の総体。

この考えはときには全く隠すことなく公言すらされています。だからアラン・グリーンスパン(第13代連邦準備制度理事会(FRB)議長)は、自分が動かしていたアメリカ経済の驚異について1997年の議会で証言をしたとき、率直にこう言いました。経済的成功の土台の一つは彼の言う「労働者の更なる不安定化」を進行させることだと。もし労働者がさらに不安定になるなら、経済は社会にとっては非常に「健全」になる。というのは、もし労働者が不安定なら、彼らは賃上げを求めないし、ストライキに入ることもなくなるし、手当や給付金も要求しなくなる。つまり彼らは喜んで、かつ受け身で雇い主に仕えることになるだろう。そしてそれが企業の経済的健康にとっては最善だと。

その当時すべてのひとがグリーンスパンの説明を妥当なものだと見なしたのです。反論は何もなかったし、彼の受けた盛大な喝采から判断すると、そうなのでしょう。さて、それを大学に当てはめてみましょう。つまり、「労働者の更なる不安定化」をどう確保するか? それは決定的に雇用を保障しないことに拠ります。人々をいつでもノコギリで切り落とすことができるようにしておくというよりも、むしろ周縁にぶら下げておくのです。そうすると、彼らは黙って少ない給料を受取り、自分の仕事をしたほうが良くなるのです。そして「もう1年間そのような惨めな状況下で勤めることを許される」という贈り物を甘受するなら、彼らはそれを歓迎して、それ以上を求めなくなるはずなのです。

それが企業の見地から社会を効率的で健全に保つやり方なのです。そして大学が企業モデルに移行するにつれて、まさに「身分の不安定」が教職員に押しつけられつつあるのです。そして私たちはますます多くのそういうものを見ることになるのです。

それが一側面ですが、別の側面もあります。それも民間産業では全くお馴染みのものです。すなわち、管理職層の著しい増大と官僚主義です。もし人を支配しなければならないなら、それをおこなう管理能力をもたねばなりません。ですから他のどこよりも米国の産業では、管理職の多層化があります。それは一種の経済的浪費ですが、管理と支配にとっては有益なのです。

そして同じことが大学にも当てはまります。過去30~40年間、教員と学生に比べて管理職の割合が非常に急増しています。教員と学生の割合は御互いに対してかなり適正な水準ですが、管理職の割合が上昇したのです。

それについての非常に良い本があります。有名な社会学者ベンジャミン・ギンズバーグの『教員の減少:管理職化した大学の勃興とその問題点』という題名の本で、大学のビジネス・スタイルすなわち莫大な数の管理職と管理職の幾つもの階層を詳細に描いています。もちろん管理職層には非常に高額な給料が支払われています。このなかにはたとえば学部長のような教授職の管理者も含まれます。かつては、彼らは2-3年は管理職として勤めるために教授職を離れますが、その後また教授職に戻るというのが普通だったのですが、今では彼らのほとんどは管理の専門家になっており、だから副学部長や秘書等々を雇い、管理職部門と手をつなぎながら、このような構造を拡大する役割を果たしています。これらすべてが、大学のビジネス・モデルのもうひとつの側面なのです。

しかし民間企業のモデルを追いかけるかぎり、安くて攻撃のしやすい労働者を使うということは、どこまでも続く商慣行ですから、それへの対抗策として組合が現れました。大学では、安くて攻撃を受けやすい労働者とは、非常勤講師や大学院生になります。院生は、明白な理由のためにさらにもっと攻撃されやすい存在です。つまり教育を[非常勤講師を含めた教員から]院生という不安定な労働者に移せば安上がりになるからです。そうすれば彼らの規律と管理をしやすくなるだけでなく、教育から別の目的へと資金を移動できるのです。

その犠牲・しわ寄せはもちろん、学生・院生あるいは攻撃されやすい仕事に引きずり込まれた人々に行きます。しかし人々に犠牲を転嫁するというのが、ビジネスが取り仕切る社会の標準的特徴なのです。実際、経済学者たちもこのような体制に無言で協力しています。ですから、たとえば、自分の銀行口座を調べていて何か間違いを発見し、銀行にそれを訂正するように電話をかけたとしましょう。さて、何が起きるかご存じですね。電話をかけると応答メッセージが出てきて「お電話ありがとうございます。以下の指示に従ってください」。その指示項目に目指しているものはあるかも知れないし、ないかも知れません。もし偶然に正しい選択肢を見つけることになったら、少し音楽が流れて、ときには次のような音声が入ってきます。「しばらくお待ちください、ご協力ありがとうございます」等々です。

最後に、しばらく待った後、人間が出てくるかも知れません。そしてやっとその人に短い質問をすることができるのです。それが経済学者が「効率」と呼ぶ代物です。経済的尺度からすれば、そのようなシステムは銀行に労働コストを減少させています。もちろん、それはあなたにコストを課しているのですし、そうしたコストは大勢の利用者によって何倍にも膨らんでいきます。それは莫大なものになり得るのです――しかし経済的計算からすると、それはコストとして見なされないのです。社会の動き方を見れば、いたるところでこんなことが起きていることに気づくはずです。

ですから大学は学生にコストを課していますし、また終身教授の地位を保証されていない正教員だけでなく何の身分保障もないことだけが明確な非常勤教員にコストを課しているのです。このすべては、企業モデルの中では、完全に自然なのです。教育には有害ですが、教育は彼らの目標ではないからです。

実際、もっと過去を振り返ってみれば、それよりさらに深刻です。もしこんなことの多くがはじまった1970年代初期に戻れば、1960年代の民主的改革運動について、政治的多様性を大きくこえて、多大なる懸念が寄せられていました。それは一般的には「騒乱期」と呼ばれていました。アメリカがだんだん文明化していったので、それは支配者とそれにつながる知識人にとっては「多くの困難に遭遇した時代」だったのです。それは危険だったのです。というのは、人々はだんだん政治的な関心を持ち始めていましたし、女性や労働者、農民、若者、老人などの「特別利益団体」と呼ばれる集団が権利を得ようと挑戦していました。それらは支配者・知識人からの深刻な反動を呼び起こし、それはかなり公然となっていました。

そのなかで政治的にはリベラルと自称する人たちから、1冊の本が出ました。それは『民主主義の危機:民主主義の統治可能性に関する三極委員会への報告書』(ミッシェル・クロジャー、サムエル・ハンチントン、ジョージ・ワタヌキ)で、リベラルな国際主義者の組織、三極委員会が出版したものです。カーター政権のほとんどは、そのようなひとたちから構成されていました。彼らは「民主主義の危機」と彼らが呼ぶものを懸念していました。民主主義が度が過ぎているというのです。

1960年代には国民から政府に対する強い圧力がありました。いわゆる「特別利益団体」が政治的権利を得ようとして、国家に強力な圧力をかけたのです。しかしそんなことは許されないことなのです。この「特別利益団体」から除外されたグループがひとつだけありました。企業・経営者です。その利益は「国家の利益」と一体だからです。企業・経営者は国家を支配すると考えられていましたから除外されたのです。しかしその「特別利益団体」は問題を引き起こしていましたから、「我々は民主主義にもっと節度を持たさねばならない」と彼らは言いました。国民は受動的で無感動に戻らなければならない、というわけです。

そして彼らはとりわけ学校と大学に関心を寄せていました。彼らが言うには、学校も大学も「若者を教化する」という本来の仕事をしていないというわけです。学生運動たとえば公民権運動、反戦運動、女権運動、環境運動などをみれば、若者が正しく教化されていないことは、よく分かるでしょう。

では若者をどう教化すればよいのでしょうか。それには多くの方法があります。ひとつは若者に絶望的などほど重い授業料の負債を背おわせることです。負債はひとつの罠で、特に学生の授業料の負債は途方もないものです。クレジットカードの負債など小さいものです。それは残りの人生をだめにするような負債です。なぜならアメリカの法律は授業料の負債にたいする自己破産を許していませんから、その罠から抜け出すことができないのです。たとえば企業は負債が多すぎた場合、自己破産宣告ができます。しかし個人の場合、自己破産宣告によって授業料の負債から解放されることは、ほぼ不可能です。もし債務を履行しなければ年金や生活保護などの社会保障を差し押さえることさえできるのです。

このような法律は学生を教化し躾けるために意図的に導入されたと言っているわけではありません。しかし実質的には同じ効果をもっているのです。また、このような法律は何らかの経済的根拠があると主張することも困難です。なぜなら世界中どこを見ても、高等教育が無料である国がほとんどだからです。世界で最も教育水準が高いとされる国々、たとえばフィンランドでも(ちなみにフィンランドは一貫してトップの地位にあります)、高等教育は無料です。あるいはドイツのような豊かで成功している資本主義国でも、授業料は無料です。メキシコは、直面している経済的困難を考えれば、その教育水準は賞賛に値するものですが、そのような貧しい国でも無料なのです。

実際、アメリカでも1940年代、50年代にさかのぼってみれば、高等教育は無料に近かったのです。復員軍人援護法(the GI Bill )のおかげで大量の若者が無料で大学に行くことができました。この法律がなければ無理だったでしょう。それは若者にとっても、経済や社会にとっても非常に有益なものでした。それが当時の経済成長率が高かったひとつの理由だったからです。私立大学でさえ、かなり無料に近かったのです。

たとえば私の場合を例にとってみましょう。私は1945年に、アイビーリーグと言われる大学の一つ、ペンシルバニア大学に行きました。当時の授業料は年額100ドルでした。現在のドルに換算すれば多分800ドルぐらいでしょう。しかも奨学金を得ることも非常に容易でしたし、その気さえあれば自宅に住んで、アルバイトをしながら学校に行くこともできましたから、ほとんどお金はかからなかったのです。しかし今は法外な授業料です。私の孫も大学に行っていますが、働きながら同時に大学へ行くことはほとんど不可能です。このように授業料は、学生を教化し躾ける道具になっています。

学生や教員を教化するもう一つの技術は、教員と学生が接触し交流する機会を奪うことです。大人数の授業で、しかも超過労働の非常勤教員を増やすことです。彼らは非常勤の安い給料ではほとんど生きていけません。しかも安定した身分を保障されていませんから研究業績を築き上げるゆとりもありません。だから、もっと良いポスト、もっと良い給料を得ることもできないのです。これらは学生や教員を躾けたり教化したり管理する技術なのです。

それは工場で期待されているものと非常に似ています。工場労働者はきちんと躾けられていなければなりませんし従順でなければなりません。彼らは工場できちんとした役割を果たすものとみなされていません。たとえば、生産を組織したり、どうすれば工場が機能するかを決めたりするのは、労働者の仕事ではなく、それは管理職の仕事なのです。そして、このような労働の形態は大学にまで及んでいます。私企業・産業界で働いたことがあるひとには、これは何ら驚くには当たらないことでしょう。が、とにかくこれが現在の労働形態なのです。

(以下、次号に続く)
 
関連記事

翻訳 チョムスキー「ヒロシマの影のなかで」

ヒロシマ、ケネディ、フルシチョフ、キューバ危機、イランの核開発、「二重思考」"Double Think"、平和研究(2015/08/07)

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 今年も原爆記念日がめぐってきました。しかし安倍首相は、一方でアメリカの手下として原発再開と戦争法規(「戦争放棄」ではない!)への道をまっしぐらに走りながら、他方では8月6日のヒロシマでの挨拶では「核兵器廃絶のために努力する」と挨拶しました。この矛盾した行動を同時におこなえる図太い神経は、まさにジョージ・オーエルのいう「二重思考」"Double Think" そのものです。そう思いながら、かつてのチョムスキー翻訳を読み直していたら、いま読んでも全く古くなっていない小論「ヒロシマの影のなかで」があることに気づきました。そこで以下に、その拙訳を紹介することにします。

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ヒロシマの影のなかで
In Hiroshima's Shadow
Thursday, 02 August 2012 09:25
By Noam Chomsky,
Truthout | News Analysis
http://truth-out.org/opinion/item/10660-in-hiroshimas-shadow


Hiroshima080212-2.jpg


8月6日、ヒロシマに原爆が投下された日は、深刻な反省を迫る日である。1945年の、その恐ろしい事件についてだけでなく、それが明らかにしたことについて――人間が破壊力をどこまで拡大できるかの探求に全精力を費やし、ついに極限にまでいたる手段を見つけたことについて、真剣に考え直す日である。

今年の原爆記念日は特別に重要な意味をもっている。というのは、その日から数日も経たないうちに、「人類史で最も危険な瞬間」となった日の50周年がやってくるからだ。歴史家でありケネディ大統領の顧問であったシュレジンジャー(Arthur M. Schlesinger Jr.)は、キューバ・ミサイル危機」を、「人類史で最も危険な瞬間」と呼んだのだった。

アリソン(Graham Allison)はForeign Affairs誌の最新号で、ケネディは「通常の戦争どころか核戦争になる危険が増すことを知りながら、作戦行動を命令した」と書いている。核戦争になる危険は50%だとケネディは信じていたが、アリソンもその危険は十分にありえたとみなしている。

ケネディは核戦争への厳戒態勢を宣言し、「トルコ人(あるいは他の)飛行士が乗ったNATO軍の爆撃機がモスクワめざして飛び立ち爆弾を投下する」ことを許可した。

キューバに核ミサイルがあることを知って最も衝撃を受けたのは、6ヶ月前に同じようなミサイルを沖縄に秘かに配備した責任者たちだった。それは主として中国を攻撃対象としたものであり、それが近隣地域の緊張を高めていた矢先だったからだ。

ケネディはソ連のフルシチョフ議長(Nikita Khrushchev)を「核戦争の瀬戸際まで追い込んだが、崖っぷちを覗きこんで怖くなり、それを実行する気力をなくした」。これは当時のペンタゴンで戦争計画を立案していた高官、Burchinal将軍(David Burchinal)の言だが、今はそのような正気を誰にも期待できない。

フルシチョフはケネディの提起した打開策を受け入れて、開戦の一歩手前で危機を終わらせた。この打開策は、アリソン(Graham Allison)によれば最も大胆なもので、「キューバからミサイルを撤去した6ヶ月後に、アメリカがトルコからミサイルを撤去するという秘密の取引」だった。実を言うと、このミサイルは旧式のもので、アメリカはそれらをポラリスと入れ替つつあった。すなわち、もっと破壊的な弾道ミサイル=ポラリスを積んだ、難攻不落の潜水艦を用意していたから旧式ミサイルは不要となりつつあったのだ。

要するに、想像を絶するような破壊をもたらす戦争の危機に際しても、アメリカは「核ミサイルをどこにでも配備する一方的な権利をもつ」という原則を強化することが必要だと思っていたのだ。それは中国を標的にするものであったり、ロシアの境界に配備するものだったが、当のロシアはそれまで国外にミサイルを配備したことはなかった。もちろんアメリカは自分を正当化する口実を用意していたが、私にはそのどれも分析に堪えるものだとは思えない。

上記の付随的原則は、キューバはアメリカに侵略される危険がいかに迫っていても、それにたいして防衛するミサイルを持つ権利はないというものだ。ケネディによるこの計画は、いわば国家テロともいうべき作戦で、「マングース作戦」と呼ばれ、それは「公然と共産主義体制への反逆と転覆」を呼びかけるものだった。これが1962年10月のミサイル危機を引きおこした。しかも「その最終的な成功のためにはアメリカによる決定的な軍事干渉が必要だ」ということも分かっていた。

このキューバにたいする国家テロを、アメリカの批評家は「たいして重要でないCIAの悪ふざけ」として片付けるのが普通だが、当然ながら、やられる側はそれを全く違ったふうに受け取る。攻撃される側の悲鳴・意見は、少なくとも、ボレンダー(Keith Bolender)の著書『もう一方からの声――キューバにたいするテロ攻撃を語り伝える』 Voices from the Other Side: An Oral History of Terrorism Against Cuba で知ることができる。

この1962年の一連の出来事はケネディが最も手腕を発揮したものとして広く賞賛されているが、アリソンはさらにそれを「紛争を解決し、大国間の関係を処理し、外交について健全な決定をする際の一般的な指針」として提案している。特に現在の時点では、イランや中国との紛争解決に役立つというのである。

1962年の危機は世界を破滅に導きかねないものだったが、それ以来、似たような危機的瞬間は枚挙に暇(いとま)がないくらいに頻発している。1973年はアラブ=イスラエル戦争の末期で、キッシンジャー(Henry Kissinger)は核戦争にたいする厳戒態勢を指示したほどだった。インドとパキスタンの関係も核戦争寸前にまでいった、また自動警戒装置の誤作動で、危うく核ミサイルが発射される寸前に手動でかろうじてそれを制止することができた事件も、今までに数え切れないくらい起きている。だから8月6日は大いに反省し思考すべき日なのだ。

アリソンはイランとその核開発計画を現在における最も深刻な危機だとする点で多くの人と意見を同じくしている。イスラエルによるイラン攻撃の危険があるから、「アメリカの外交政策にたずさわっているものにとっては、キューバ危機よりもはるかに複雑な課題とすら言える」。

イランにたいする戦争は既に進行していると言ってもよいくらいだ。イランの核科学者にたいする暗殺や経済制裁をみればそれは明らかだ。イラン問題の専門家シック(Gary Sick)の判断によれば、それは「宣戦布告なき戦争」の段階にまで至っている。

アメリカはイランにたいする高度のサイバー攻撃を誇ってさえいる。ペンタゴンはサイバー攻撃を「戦争行為」だと見なし、The Wall Street Journal誌によれば、このような攻撃にたいしては「通常の軍事力で応戦してよい」と認めてさえいるが、ひとつだけ例外がある。それはアメリカやその同盟国がその実行者である場合だ。

イランの脅威にについては最近、エイランド将軍(Giora Eiland)がその概略を述べている。彼はイスラエル軍事政策の最高立案者のひとりだが、イランの脅威を「イスラエル軍が今までに創りだした最高傑作のひとつ」だと述べている。

彼が描く危機のなかで最も信頼できるのは、「イランの核の傘の下で国境地帯にいかなる衝突がおきても不思議はない」という分析だ。したがってイスラエルは軍事行動を控える可能性もある。いずれにしても、エイランドがペンタゴンやアメリカの情報機関と意見を共にしているのは、イランの[核による]抑止力が最大の脅威だとする点である。

イランにたいする「布告なき戦争」をさらに激化させることは、偶発的な大規模戦争にいたる危険性を増大させる。その危険は先月の事件で明らかになった。アメリカ軍艦(それはペルシャ湾に派遣された巨大な艦隊の一部に過ぎない)が小さな漁船に発砲し、インド人の乗組員をひとり殺し、少なくとも他の3人を負傷させた。それが大戦争の口火となるにはたいして時間はかからない。

そのような破局を避ける賢明な方法のひとつは「中東に大量破壊兵器や全てのミサイルの搬送・発射禁止区域を設けるという目標、化学兵器を包括的に禁止するという基本方針」を追求することである。これは1991年4月の安全保障理事会で成立した決議687の文言であるが、アメリカやイギリスは、その12年後に、この文言を隠れ蓑にしてイラク侵略に乗り出したのだった。

この目標は1974年以来ずっとアラブ諸国やイランの目標であったし、何度も国連総会でも定期的に確認されている目標でもある。しかもそれは今では満場一致に近い支持を得ている(アメリカやイスラエルの数少ない抵抗を除けば、少なくとも公式的には)。そのような合意[決議687]を実行に移すための方策を検討する国際会議が、12月には実現するかも知れない。

ただしそのような進展は、欧米世論の巨大な支持がなければ、実現は難しい。そのような機会を逃せば、8月6日という運命的な日からずっと世界を覆ってきた暗い不気味な影を、再び長引かせることになるだろう。


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翻訳:ポール・クレイグ・ロバーツ「騒音と憤怒が多くを物語るギリシャ」

アレクシス・ツィプラス、「左翼政党」シリザ、ナイジェル・ファラージ、イギリス独立党、マリーン・ルペン、フランス国民戦線、TPP、ウィキリークス、ラルフ・ネーダー、「コンマン(詐欺師)オバマ」、国際教育(2015/08/05)


 嬉しいニュースが二つありました。ひとつはハワイのTPP会合が最終合意に至らなかったことです。
 そもそも交渉内容を国民に公開できないようなものが国民の利益になることはあり得ません。それをあたかも国民の利益であるかのように言い、それを批判するウォーレン上院議員などを「抵抗勢力」として罵倒するやり方は、かつての小泉首相と同じです。米国「パブリック・シチズン」の創設者ラルフ・ネーダーがオバマ氏を「コンマン(詐欺師)」と呼ぶゆえんです。関連記事は下記にあります。
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/tpp---a476.html
 もうひとつはウィキリークスが「アメリカの巨大スパイ機関NSAが日本の政府や企業から大量に盗み出していた」ことを暴露したことです。
 ソ連が崩壊したあと、CIAやNSAは、失職するのを恐れ、てスパイの対象を「仮想敵国」ではなく経済的な競争相手に変え、世界第二位になった経済大国=日本も、そのターゲットになっていました。このことは、すでに『CIA秘録』(文藝春秋)で明らかになっていましたが、こんどのウィキリークスは、さらにそれを詳しく部署・個人名・企業名まで明らかにしました。
 ところが安倍内閣は、アメリカのこのような侮辱にたいしてきちんと抗議する意思はなさそうです。TPPは大企業・多国籍企業が他国の環境規制・食品規制・医療規制などを乗り越え踏みにじって一人勝ちできるようにする協定ですから、アメリカの言いなりになっていると、日本も次のギリシャになってしまうでしょう。詳しくは下記をご覧ください。
http://www.labornetjp.org/news/2015/0802wiki
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201508010000/
 ギリシャ情勢に関しては、私の主宰する研究所の研究員から翻訳「騒音と憤怒が多くを物語るギリシャ」が届きましたので、以下に紹介させていただきます。この小論の執筆者であるPaul Craig Roberts氏は、レーガン政権のときの経済政策担当の財務次官補でした。
 氏は経済学博士号をもち、『ウォール・ストリート・ジャーナル』の元共同編集者でもありました。『ビジネス・ウィーク』『スクリプト・ハワード・ニューズ・サービス』『クリエーターズ・シンジケート』のコラムニストとしても活躍してきました。『グローバル・リサーチ』の常連寄稿者でもあり多数の大学で教えたこともあります。
 このような経歴の持ち主が、ギリシャ情勢を以下のように分析していることは、きわめて興味あることです。(彼のサイトはhttp://paulcraigroberts.org



騒音と憤怒が多くを物語るギリシャ
Greece: Sound and Fury Signifying Much
ポール・クレイグ・ロバーツ博士
Global Research, July 15, 2015
http://www.globalresearch.ca/greece-sound-and-fury-signifying-much/5462623


全ヨーロッパと、ギリシャに無頓着だったアメリカ人とカナダ人も、左翼政党シリザが「1%」の代理人に降伏したことを知らされた。シリザの降伏は、西欧全体で社会保障システムが解体されるということだ。

ギリシャ首相アレクシス・ツィプラスは、第二次世界大戦後のギリシャが20世紀に達成した社会福祉を、「1%」の富裕層がギリシャ国民から略奪することに同意したのだ。年金と高齢者医療は消滅しかけている。「1%」はお金が必要なのだ。

国家に保護されてきたギリシャの島々、港、水道会社、空港など、ありとあらゆる国有財産が、「1%」に売られるということだ。もちろん安値で。しかしその後の水道代は安値ではないだろう。

これはギリシャに課された第3の緊縮財政だが、ギリシャ政府自身にも片棒を担げと命令する緊縮財政だ。緊縮財政にたいする政府の合意は、文字通りギリシャ人からあらゆる物を略奪する行為の隠れ蓑として機能する。IMFは、緊縮財政を押しつけるトロイカのメンバーだ。ところが、そのIMFのエコノミストたちが緊縮財政は誤りだったと述べているのだ。つまりギリシャ経済は緊縮財政によって落ち込み、その結果、ギリシャの負債は増加して、さらなる重荷となっているのだ。緊縮財政が行われる度に負債は増え、ますます返済を不可能にしている。

しかし「1%」が略奪するとき、彼らは事実に全く関心がない。IMFのエコノミストたちがそれを正当化できないと言っているにもかかわらず、緊縮財政という略奪は粛々と実行されてきた。

かくして、ギリシャの民主主義は無力であることが証明された。なぜなら、ギリシャ国民が1週間前に圧倒的な反対投票をしたにもかかわらず、略奪が進行しているからだ。だからアレクシス・ツィプラスからわかることは、選挙で選ばれた首相はギリシャ国民を代表しておらず、「1%」を代表しているということだ。

世界中から「1%」の安堵のため息が聞こえてきた。最後のヨーロッパ左翼政党、あるいは左翼として通ってきたものが、ついに屈服したのだ。ちょうどイギリス労働党やフランス社会党やその他すべてが辿(たど)ってきたのと同じ道だ。

左翼を支えるイデオロギーがなくなって、ヨーロッパ左翼は死んだのだ。ちょうどアメリカの民主党と同様に。これらの政党が死んだことによって、人々は自分たちの代弁者を失った。国民の声を聞く耳を持たない政府は、民主主義ではない。このことを我々はギリシャではっきり見ることが出来る。ギリシャ国民が、国民投票で決定的な意思表示をした1週間後、政府は国民を無視しして「1%」に従ったのだ。

アメリカの民主党は、雇用の海外移転にともなって死んだ。それは民主党を支える財政的基盤だった工場労働者の組合を破壊したからだ。他方、ヨーロッパ左翼はソ連崩壊と共に死んだ。

ソ連は、資本主義に変わる社会主義者のシンボルだった。ソ連崩壊と「歴史の終焉」は、左翼から経済政策を奪った。そして左翼に残されたのは、少なくともアメリカでは、堕胎や同性愛婚や性の平等や人種問題のような「社会問題」だけだった。それら「社会問題」は左翼の伝統的な土台だった労働者階級を弱体化させた。階級闘争は、異性愛と同性愛の闘い、黒人と白人の闘い、男性と女性の闘いの中で姿を消した。

今日、欧米人は再び奴隷化に直面している。そしてアメリカのネオコンが「アメリカは、世界覇権の資格がある、歴史に選ばれた人々である」と主張し、その結果、世界を核戦争に直面させているというのに、アメリカ左翼がいま大きな関心を払っているのは、南軍旗を南部諸州の庁舎から引き下ろすことだけだ。

ヨーロッパ最後の左翼政党シリザの崩壊は、さらに断固とした政党がポルトガルやスペインやイタリアに出てこないかぎり、バトンを右派政党の手に引き渡すことになる。つまり、ナイジェル・ファラージが率いるイギリス独立党やマリーン・ルペンが率いるフランス国民戦線など、EUにおける国家主権の廃棄に反対し民族主義を支持する右派政党に国民は流れていく。

シリザは、EUの断固たる攻撃に対抗してギリシャ銀行を国有化しようとしたが、それに失敗した時点で敗北は見えていた。ギリシャの「1%」が銀行やメディアを所有していたからだ。しかもギリシャ軍は国民と共に立つ気配がない。ここに見られるのは、平和的変革が不可能であるということである。カール・マルクスやレーニンが説いていたように。

革命と根本的改革は、生きのびた「1%」によって挫折させられ、ひっくり返される。マルクスは、1848年の革命に敗北して挫折し、史的唯物論に導かれて(レーニンや毛沢東やポル・ポトと同じように)、旧体制の人間を生かしておくと反革命につながったり民衆が農奴に逆戻りすることになると考えた。ラテン・アメリカの改革派政府は、米国財界勢力による政権転覆策動に対して非常に脆弱だ。米国財界は地元のスペイン系財界エリートと結託して行動するからだ。知ってのとおり、ベネズェラやエクアドルで現在この過程が進行中だ。

マルクスの教えを守って、レーニンや毛沢東は旧体制を排除した。階級闘争のホロコーストはナチの人種ホロコーストでユダヤ人が経験したことより、何倍も大きかった。しかしその記念碑は残っていない。

今日にいたるまで欧米人はなぜポル・ポトがカンボジアの都市部を空っぽにしたのか理解していない。欧米はポル・ポトを精神病者とか大量殺害者とか精神医学的事件として片づける。しかしポル・ポトは、もし彼が旧体制の代表者を許したら、彼の革命は転覆されると考えて行動したに過ぎない。ジョージ・W・ブッシュ体制が奉じた法概念(すなわち「先制攻撃は正しい」)を使えば、ポル・ポトは前もって行動することによって反革命を防ぎ、反革命の傾向がある階級を排除したことになる。

イギリス保守党のエドマンド・バークは、進歩の過程は改革であり革命ではないと言った。イギリスの支配層は、(左翼勢力がそれなりに強かったから)しぶしぶながら、革命の代わりに改革を受け入れた。おかげでバークは自分の主張の正当性を守ることができた。しかし今日、左翼が全体的に敗北していて、「1%」は改革に同意する必要がない。だから権力に従うことだけが、残された唯一の選択肢だ。

ギリシャは始まりに過ぎない。経済や社会保障制度の崩壊、失業率の並はずれた増加によって自国から追い出されるギリシャ人は、彼らの貧困を他のEU諸国に持ち込むだろう。EUメンバーは国境に縛られず自由に移住できる。ギリシャにおける福祉制度の崩壊は、ギリシャ人を他のEU諸国の福祉制度へと追いやられることにことになるが、そうした福祉制度も、「1%」の連中が民営化することによって、廃止されることになるだろう。

21世紀の「囲い込み」「エンクロージャー Enclosure」が始まった。


<註> 囲い込み
近世初期のヨーロッパ,特にイギリスで,領主・大地主が牧羊業や集約農業を営むため,共同用益権を排して私的所有を主張し,示談や議会立法によって,開放耕地や共同放牧場などを囲い込んだこと。これにより中小の農民は没落し,農業労働者あるいは工業労働者となっていった。[大辞林 第三版]
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Author:狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

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