『英語で大学が亡びるとき:"英語力=グローバル人材"というイデオロギー』、その3

銃暴力世界ランキング、言語学者・鈴木孝夫「日本の良さ(地救原理)を広め、世界をタタミゼ(畳化)する言語教を」、教育原理(2015/11/15)

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 いま日本の大学は、安倍内閣がつくりだした「英語化」「国際化」という大嵐に見舞われ、大揺れに揺れています。このような教育「改革」を進めていけば、OECD国際成人力調査で世界第一位、ノーベル科学賞では二一世紀以降アメリカに次いで世界第二位を誇る日本の教育も、早晩、亡びるでしょう。
 このような教育改革という名の「改悪」にたいする批判として、すでに『英語化は愚民化』『英語の害悪』という本が出ています。しかし私は、それらの著書と全く違った視点で、日本が抱えている教育の危機について論じてみたいと思いました。それが11月末に刊行予定の『英語で大学が亡びるとき』(明石書店)です。
 本書には「まえがき」はありません。その代わりに「あとがき」で、私が何を根拠にそのような主張をしているか、その概要をまとめてみました。ですから一種の「終章」とも言えます。ここでは、本書の執筆後に起きた新しい情勢も盛り込みながら、未来の大学教育にたいする私の願い・展望をも記したつもりです。
 そこで以下にその「あとがき」を紹介したいのですが、それを一挙にすべて載せると読むのが負担になるかたがみえるかも知れないと考え、3回に分けて載せることにしました。今回は、その最終回です。逆に「細切れで読まされるとかえって面倒」というかたのために、下記の寺島研究室HPでは一挙に掲載してあります。ご利用いただければ幸いです。
http://www42.tok2.com/home/ieas/English-destroy-univesity-education-Publish-postscript.pdf

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あとがき(完)

 ところで昨晩、散歩に出たとき立ち寄ったコンビニ店で、何気なしに売られていた新聞を見ていたら、「留学生先しぼむ米人気」という大見出しが目に飛び込んできました。見ると朝日新聞の夕刊(二〇一五年一〇月二八日)で、日本の学生の留学先としてはアメリカよりも中国のほうが多くなったというのです。そして「日本の学生、中国行き、逆転」という中見出しで、次のような説明が付けられていました。
 「留学先の内訳では、〇四年には米国が約四万二千人で全体の半数を占めていたが、一一年には半減し、全体に占める割合も約三五%に落ち込んでいる」「〇四年をピークに下がり続けていた留学者も一二年の最新統計では久々に盛り返したが、米国留学の減少に歯止めがかからない」「対照的に増え続けているのが中国で、一二年にはついに米中が逆転した」
 私は本書第1章で、「嘘をついてイラク侵略を開始(〇三年)して以来、アメリカの威信は大きく失墜し、それに比例してアメリカに対する嫌悪感と英語嫌いは増大する一方だ」「政府・文科省が小学校から大学に至るまで英語熱をあおり立てているのは、このような危機感の現れではないか」と述べました。「〇四年以来、米国留学の減少に歯止めがかからない」という朝日新聞の記事は、この私の仮説が正しかったことを証明しているように見えます。
 この記事で不思議なのは、現在の日本政府が反中国感情を煽り立てているのに、中国への留学生数がアメリカ留学の人数を超えたという事実です。「グローバル人材」の育成を掲げ、英語を学んでTOEFLを受験しアメリカ留学することが「国際人」の証であるかのように、文科省は言い立てているいるのですが、肝心の学生は冷ややかにそれを眺めているということなのでしょうか。
 ロシアや中国を核とするBRICS諸国が、今や世界で大きな存在感を示すようになりました。中国が主導するアジアインフラ投資銀行にイギリス・フランス・ドイツ・イタリアのようなEU諸国まで雪崩を打って参加するようになり、今までアメリカが覇者として君臨していた世界も多極化し始めています。
 政府・文科省はアメリカの方しか顔を向けていませんが、留学生の人数が米中で逆転したということは、学生の方がグローバル化する本当の世界像が見えているのかもしれません。もしそうだとすれば、政府が反中感情を煽って中国包囲網を強化しているにもかかわらず、文科省よりも先に学生の方が、すでに「グローバル人材」として育っていると言うべきでしょう。
 それはともかく、朝日新聞は先の記事で、アメリカへの留学が減少している理由として経済的要因をあげ、それが米国留学に二の足を踏ませることになっているという解説をつけています。「高い学費と円安」という小見出しをつけ、「一一年時点での米国大学の年間平均授業料は、私立大学も州立大学も、日本の大学のほぼ倍で、これがさらに増額傾向にある」「円安ドル高が、これに追い打ちをかけている」というのです。
 もちろん、これがひとつの大きな要因であることは事実でしょう。だからこそアメリカの学生は学費の安いカナダに逃げ出しているのです。それを私は本書第3章で詳述しながら、安倍政権は留学生倍増計画と称し「カナダに逃げ出した学生の穴埋めとして、日本の学生をアメリカに送り出そうとしているのか」と批判したのでした。
 しかし、アメリカ留学が激減しているもっと大きな要因に、アメリカの国内事情があるように思います。というのは私が本書で詳述したように、アメリカ国内では学校や大学の構内ですら「銃の乱射」「性的暴行」が蔓延して、たくさんの被害者が生まれているからです。このような内情を知れば、学生はもちろんのこと、親も自分の息子や娘をアメリカに送り出すことに不安を覚えるでしょう。
 銃による殺人事件は毎日八九人にも及び、毎週どこかの学校または大学で、四人以上の死傷者が出る銃乱射事件が起きているのです。日本の学生・院生は日本語で世界最先端の研究ができるのですから、そのようなアメリカに、なぜ好きこのんで留学しなければならないのでしょう。二の足を踏むのは当然のことではないでしょうか。ところが朝日新聞は、このような事実には一言もふれていないのです。
 私は本書第3章で大学における銃乱射事件についても、かなり詳しく説明したつもりですが、その後もスクール・シューティングは収まる気配を見せません。
 つい先日(二〇一五年一〇月一日)、オレゴン州のコミュニティカレッジ(公立短期大学)で、銃器で武装した男が九人を射殺したあと、警察の銃撃戦のなかで自殺しました。ところが、その後二週間もたたないうちに二つの大学で(アリゾナ州とテキサス州)、またもや銃撃事件があり、ふたりが死亡しているのです。
 下の図表は「Everytown for Gun Safety」という銃規制を求める団体のホームページに載せられているものですが、人口一〇万人あたりの銃による殺人事件を棒グラフにしたものです。これを見れば分かるように、文明化した世界で、アメリカの銃による殺人率は他の諸国の二〇倍以上なのです。
銃暴力 世界ランキング アメリカ USGunViolenceTrends_Chart1
 このようなことを知っていて政府・文科省は、TOEFL受験を煽りアメリカ留学を勧めているのでしょうか。本書でも繰り返し述べたことですが、知らないで勧めているとすればその無知を恥じるべきですし、知っていて勧めているのであれば殺人罪に荷担することになりかねません。
 まして、アメリカにおける大学の教育内容が、メディアでもてはやされているほどの質の高さをもっていないとすれば、留学には、なおさら意味がないことになります。これも本書で詳しく説明したので、これ以上は繰りかえしません。

 私に許された「あとがき」の紙幅が残り少なくなってきましたが、どうしても書いておきたいことが、あとひとつだけ残されています。そのひとつが大学における研究資金の問題です。
 大村智氏がノーベル賞を受賞したとき、氏の研究がアメリカの製薬会社メルクから資金提供をうけたものであり、産学協同の先端を走ってきた人物であるかのように紹介され、メディアでも、もてはやされました。
 しかしこれは客員教授として研究していたウェズリアン大学から帰国するとき、「戻っても研究費はない」と言われ、やむを得ずアメリカで製薬会社を回って共同研究を打診して資金を獲得したのでした。政府・文科省が将来性のある研究や研究者にきちんとして援助をする仕組みをつくっておけば、このような苦労は必要なかったはずなのです。
 ところが文科省は大学への交付金は毎年のように削る一方で、「スーパーグローバル大学」として認められた大学にだけは、破格の資金を大盤振る舞いすることにしました。このような「能力別学級」だけを育てるようなやりかたをすれば、大村氏が助手として研究生活を始めた山梨大学、あるいは氏が後に職を得ることになった北里大学のような、地方の小さな国立大学や中小の私立大学は、永遠に陽の当たらない存在となってしまいます。
 これでは、何度も述べてきたように、全国各地に埋もれている貴重な人材を発掘しないまま投げ捨てることになるでしょう。青色発光ダイオードの発明でノーベル賞を受賞した赤崎勇氏は「自分のやりたいこと、いつ芽が出るかも分からないことを、自由に研究できたことが受賞につながった」と言っていますが、今や名古屋大学や京都大学のような旧制帝大でさえ文科省の交付金だけでは研究できない状況に追い込まれているのです。新しく京都大学の総長に選ばれた山極氏も京都大学新聞のインタビューで「企業・個人から寄付金を集めないかぎり研究できない状況に追い込まれている」と述べていました。
 いわゆる旧制帝大のような巨大国立大学をも、このような状況に追い込んでおきながら、他方で「国際化を断行する大学」「英語一極化を推進する大学」には「スーパーグローバル大学」のようなかたちで莫大な資金を提供するわけです。これは、財政難にあえいでいる過疎地の自治体の弱みにつけ込んで原発を受け入れさせたやり方と同じです。これでは、「いつ芽が出るかも分からないことを自由に研究できる環境」は、拡大するどころか減少・消滅する一方になるでしょう。
 なぜなら「スーパーグローバル大学」として認められれば申請した期日までに申請したとおりの成果をあげなければなりませんし、企業との共同研究も企業の望むような成果を出さなければ将来の資金提供はありえないからです。これでは真に画期的な基礎研究はできないことになります。このような弱みにつけ込んで新しく登場したのが防衛省による研究資金の提供でした。
 防衛省は、一件あたり年間三〇〇〇万円で超高速エンジンや無人車両技術など二八分野で公募をかけ、一〇九件の応募から東京工業大学など四大学を含む九研究機関を指定しました。アメリカでは無人飛行機が殺人爆撃機として使われ、パキスタン、アフガニスタン、イエメンなどで数多くの民間人犠牲者を生み出してきましたが、このようなことに日本も大きく足を踏み出そうとしていることに、私は大きな危惧を覚えざるを得ません。
 憲法九条をもつ国が、まさかこれほどまでに大きく右旋回することになろうとは、かつては想像だにできませんでした。日本は、「フクシマ後の世界」を生きているにもかかわらず、原発輸出や武器輸出にうつつをぬかす「普通の国」になろうとしているだけでなく、今や大学までもが研究費ほしさに軍事研究にまで乗り出そうとしているのです。
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 しかしこれは、現在の政府・文科省が、憲法九条を解釈改憲してアメリカと集団的自衛権を行使するための戦争法案を強行採決したり(これは与党が推薦した憲法学者すら国会で違憲だと証言)、「国立大学は、式典では日の丸を掲げ、君が代を斉唱せよ」という通達を出しつつ政府批判の温床となりかねない人文系・社会科学系学部の縮小廃止を指示したりしているのですから、ある意味で現政権にとっては当然の流れとも言えるわけです。
 とはいえ、「グローバル人材の育成」という視点から見れば、そのような政府の行為は、私にはまさに天に唾する行為に見えます。なぜならグローバル化する世界は、今やアメリカと英語・ドルの一極支配からBRICS諸国を初めとする多言語・多極化する世界へと大きく転換しようとしているからです。
 このようなグローバルな勢力転換は、アメリカが米州機構(OAS)で孤立し、キューバと国交回復せざるを得ないように追い込まれたことに典型的に表れています。チョムスキーがデモクラシーナウのインタビューでも述べていることですが、南北アメリカとカリブ海の全独立国三五か国が参加する米州機構は、アメリカがそれらの諸国を単なる自分の「裏庭」だとみなしてきたにもかかわらず、今やアメリカの統制がきかない組織になってしまっているのです。
 アメリカが米州機構どころか世界で孤立し始めていることは、先日(一〇月二七日)の国連総会でも露呈しました。キューバに対する経済制裁を解除するようアメリカに求める決議が圧倒的多数で採択されたからです。キューバと国交回復するなら、当然のことながら経済制裁も解除しろというわけです。同様の決議は一九九二年から採択されており今年で二四回目なのですが、とりわけ今年はアメリカの孤立が目立ちました。この決議に反対したのはアメリカとイスラエルの二カ国だけだったからです。
 ですから、「グローバル人材の育成」を掲げながら、アメリカの戦争政策に荷担していくのは、グローバルとしての世界の流れが全く見えないからとしか言いようがありません。『肉声でつづる民衆のアメリカ史』(明石書店)を読めば分かるように、アメリカは建国以来、一貫して武力でものごとを解決してきましたが、現在の中東の混乱ぶりを見れば分かるように、武力では平和を勝ち取れないこと、国土を瓦礫に変え、死傷者と難民を激増させるだけだということは、ますます歴然としてきています。
 だからこそ、「今まさに日本の出番なのだ」「日本の良さ(地救原理)を広め、世界をタタミゼ(畳化)せよ」というのが、言語学者・鈴木孝夫氏の主張でした。
 鈴木氏の言う「地救原理」「タタミゼ」について詳しいことは本書第3章第3節をぜひ読んでほしいのですが、氏によれば、日本人はもともと争いを好まない草食民族であり、肉食民族が得意とする英語ディベートは性格的に合わないだけでなく、日本人の良さを殺してしまいかねないというのです。その意味で憲法九条はまさに日本人にぴったりの条文だというわけです。
 いまロシアとアメリカ、中国とアメリカの間で新しい冷戦が始まりつつありますが、それがいつ熱戦=核戦争に変わるか分かりません。そのように地球が丸ごと破壊されかねない危機にあるとき、憲法九条をもつ日本は、「武力」によってではなく「言力」によってものごとを解決する以外にはないし、そのような日本の良さ(地救原理)を広め、世界をタタミゼ(畳化)することこそが今の日本に求められている、と鈴木氏は主張しているのです。
 しかし「攻撃的な言語である英語」を学ベば学ぶほど、日本人も攻撃的な人間にかわってしまう危険性がある。したがって『武器としてのことば』を使った戦いは、現代の防人(さきもり)すなわち外交官や、「私のような風変わりのな人間」「相手をいじめることを無上の喜びみたいに感じる連中」に任せるべきで、すべての日本人が「防人」集団になってしまったら「日本人の良さ」が死んでしまう――これが鈴木氏の主張でした。

 だとすれば、日本の良さ(地救原理)を広め、世界をタタミゼ(畳化)する大学教育は、どうすれば可能になるのでしょうか。「日本人の、日本人による、日本人のための英語教育」は、どのようなかたちをとる必要があるのでしょうか。
 鈴木氏の言う「今や下山の時代」だからこそ、このような議論が、いま緊急に求められているのではないかと思うのです。
 また、そのような議論が緊急におこなわれなければ、そして今の文教政策がこのまま進行すれば、日本の大学教育だけでなく、日本の公教育全体が確実に亡びるでしょう。
 英国のタイムズ紙の高等教育情報誌THE(Times Higher Education)が一〇月一日に発表した世界大学ランキング二〇一四~二〇一五で、日本の大学がランクを下げて話題になりましたが、調べてみると、低下した一番の理由は在籍する外国人学生の数の少なさによるものであって、研究者の実力とは、ほとんど何の関係もありませんでした。
 現在の日本は、本書第3章でも詳述したように、OECD国際成人力調査の「国語力」でも「数学力」でもトップの位置を占めていますし、ノーベル科学賞の受賞者数も二一世紀以降はアメリカに次いで世界第二位です。
 しかしこれは、これまで積み重ねられてきた現場教員・研究者の血のにじむような努力に支えられて生み出された成果でした。
 いま極めて深刻なのは、文科省が教育改革という名の「改悪」をすればするほど、教員が置かれている教育・研究環境が悪くなり、生徒・学生の学力は低下しているという事実です。文科省自身による最近の調査でも、「高校三年生の英語力は中卒程度」でした(一〇月一日発表)。
 ですから、何度も言うように、このまま事態が進行すれば、OECDにおける日本の地位も、ノーベル賞受賞者数も、確実に転落・減少するでしょう。そんな不安を私はどうしても拭い去ることができません。私が本書を緊急に出版したいと思ったゆえんです。
 くりかえしになりますが、日本の良さ(地救原理)を広め、世界をタタミゼ(畳化)する大学教育は、どうすれば可能になるのでしょうか。「日本人の、日本人による、日本人のための英語教育」は、どのようなかたちをとる必要があるのでしょうか。本書がそのような議論の「たたき台」になれば、私としては、これほど嬉しいことはありません。


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『英語で大学が亡びるとき:"英語力=グローバル人材"というイデオロギー』、その2

OECD国際成人力調査で日本は一位、ヨハン・ガルトゥング「アメリカの学部教育は見るべきものは何もない」、英語教育(2015/11/14)

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 いま日本の大学は、安倍内閣がつくりだした「英語化」「国際化」という大嵐に見舞われ、大揺れに揺れています。このような教育「改革」を進めていけば、OECD国際成人力調査で世界第一位、ノーベル科学賞では二一世紀以降アメリカに次いで世界第二位を誇る日本の教育も、早晩、亡びるでしょう。
 このような教育改革という名の「改悪」にたいする批判として、すでに『英語化は愚民化』(集英社新書)、『英語の害悪』(新潮新書)という本が出ています。しかし私は、それらの著書と全く違った視点で、日本が抱えている教育の危機について論じてみたいと思いました。それが近く刊行予定の『英語で大学が亡びるとき』(明石書店)です。
 本書には「まえがき」はありません。その代わりに「あとがき」で、私が何を根拠にそのような主張をしているか、その概要をまとめてみました。ここでは、本書の執筆後に起きた新しい情勢も盛り込みながら、現在の教育にたいする疑問・批判だけでなく未来の教育にたいする私の願い・展望をも記したつもりです。
 以下に紹介する「あとがき」は、それを一挙にすべて載せると読むのが負担になるかたがみえるかも知れないと考え、3回に分けて載せることにしました。今回は、その第二回目です。しかし、逆に「細切れで読まされるとかえって面倒」というかたのために、寺島研究室HPでは全文を一挙に掲載する予定です。

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あとがき(続)


 私が本書を書き終えてから新しく起きた出来事で、私にとって最も印象的だったのは、今年(二〇一五年)もまた、日本人が二人もノーベル科学賞を受賞したというニュースでした。しかも、物理学賞を受賞した梶田隆章氏も医学生理学賞を受賞した大村智氏も、いわゆる旧制帝大の卒業生ではなかったのです。
 梶田氏は大学院は東京大学ですが学部卒業は埼玉大学でしたし、もっと興味深かったのは大村氏が山梨大学学芸学部自然科学科を卒業し、最初は東京都立工業高校(夜間定時制)で理科教諭として勤務していたという事実でした。
 しかも大村智氏が大学院で得た学位は、定時制高校に勤務するかたわら通った東京理科大学の修士号のみです。博士号は東京大学(薬学)、東京理科大学(理学)から得ていますが、それぞれの大学の博士課程を出ているわけではありません。いわゆる「論文博士」です。
 政府・文科省は「国際化を断行する大学」と称して英語化を推進する大学に巨額の補助金を出すことに決めたわけですが、「スーパーグローバル大学」のタイプA「トップ型」として選ばれた大学のほとんどは、旧制帝大か有名私大の慶応・早稲田のみでした。
 それどころか、タイプB「グローバル牽引型」として選ばれた国立大学のなかにも、梶田隆章氏や大村智氏が卒業した埼玉大学や山梨大学は入っていません。したがって当然のことながら、大村氏が定時制高校に勤務しながら通っていた東京理科大学(大学院)や、大学院卒業後に助手として勤務した山梨大学工学部、その後に異動した北里大学は、タイプBにすら登場しません。
 このような財政支援の仕方にたいして、私は本書で、「優れた人材はどこでどのように眠っているのか分からないのだから、能力別学級をつくるような財政支援のしかたをしていると、日本全国に埋もれている宝・逸材を取り逃がすだけでなく、莫大な血税をどぶに捨てることになりかねない」と批判してきました。その批判を改めて見事に証明してくれたのが今回のノーベル賞の受賞人事ではなかったのかと思うのです。
 また政府・文科省は、「グローバル人材」を育て、同時に「世界大学ランキング上位に入る大学」を目指せと主張しつつ、「TOEFLを大学入試に使え」とか「留学生を倍増して一二万人にする」という政策を打ち出したりしています。
 しかし、このような政策に対しても、私は本書で、「アメリカ留学用の資格試験であるTOEFLを大学入試に使うというのは、大学生全員が留学するわけでもないのだから、学生に無用な負担を強いるだけであり、高額の受験料をアメリカに献納するだけに終わりかねないという意味でも、無駄である」と批判してきました。
 また留学に関しても、私は本書で、「日本の大学では博士課程までも日本語で教授できる、しかもノーベル賞受賞者の大多数は留学すらしていない。アメリカで博士号を得たのは受賞者のうち三人しかいない。だから高額の留学費用をかけて、しかも銃乱射やレイプが渦巻くアメリカの大学に、危険をおかしてまで留学する価値はない。武者修行をしたければ日本の大学で博士号を取り、研究テーマがはっきりした段階で、研究員や招聘教授として遊学したほうがはるかに有益だ」と述べました。
 このことを再び見事に証明してくれたのも、梶田隆章氏や大村智氏の受賞ではなかったかと思うのです。というのは梶田氏は、埼玉大学を卒業したあと進学した東京大学大学院で、博士号も得ただけで、一度も留学していません。研究員や招聘教授としてすら留学していないのです。それでも世界最先端の研究ができ、ノーベル賞が取れるのですから、わざわざ高額の費用をかけ、銃暴力にあうかも知れない危険をおかしてまで留学する必要はないのです。
 大村智氏の場合も基本的には同じです。先述のとおり大村氏は大学院の博士課程すら出ていません。氏は、東京理科大学で修士号を取り、山梨大学工学部で助手を務めたあと、北里研究所に移り、そこで技術補として研究した成果が認められて北里大学の助教授となりました。います。しかし氏が東京大学で薬学博士号を得て、さらに東京理科大学でも理学博士号をとったあとアメリカに遊学したのは、米国ウェズリアン大学の客員教授としてであって院生でも研究生でもありませんでした。
 何度も言いますが、日本で質の高い研究をしていれば、院生や研究生としてすら留学する必要はないのです。私が本書で「武者修行をしたければ日本の大学で博士号をとり、研究テーマがはっきりした段階で、博士研究員(いわゆるポスドク)や招聘教授として遊学したほうがはるかに有益だ」と述べたことの正しさが、ここでも改めて証明されているのではないでしょうか。

 ところで、私がアメリカ留学をする必要はないと述べた背景には、(その詳細は本書で説明したので省きますが)アメリカの大学の学部教育や修士課程は外から見るほどレベルは高くないという事情もあります。
 平和学の創始者であるヨハン・ガルトゥング氏は「学部教育は見るべきものは何もないが博士課程だけは別格だ」と述べていますが、博士課程に留学しても、TA(ティーチングアシスタント )として授業の補助やレポートの採点をしたり教員の代わりに学部の授業を担当したりする仕事に追われ、自分の研究時間が大幅に削られるということも少なくありません。
 だからこそ私は、「TOEFLで高得点をとるために苦労して英語学習に励み、高額のTOEFL受験料と莫大な留学費用を払ってまで留学しても、銃暴力や性暴力におそわれる危険もあるアメリカへ、なぜ学生や院生として留学しなければならないのか」と、本書で繰り返し疑問を呈してきたのです。
 まして学部レベルや修士レベルでは日本の大学で学ぶことと大して差のないことを、あるいはそれよりもレベルの低いことを、英語で苦労しながら学ぶとなれば、なおさらのことです。
 それどころか、英語学習にエネルギーを奪われ、研究力・創造力は枯渇してしまう恐れさえあります。その証拠に、梶田隆章氏や大村智氏の経歴を調べてみても、英語学習に多大なエネルギーを注いだ痕跡はほとんど見つけることができませんでした。
 梶田氏は、ウィキペディアによれば、小中学校ではトップクラスの成績だったが、埼玉県川越高校の成績は中の下程度で、埼玉大学理学部に進学後も高校から続けていた部活動(弓道)に熱中し、大学院の入試も全く解けなかったそうです。このように埼玉大学でも、副将を勤めるほど弓道に熱中していたのですから、氏がTOEFLなどの英語学習に精力を注いだとは、とても考えられません。むしろ大学院の研究が面白くなってきて、それが英語論文を読み書きするちからを育てたと考えるほうが自然でしょう。
 他方、山梨県北巨摩郡神山村(のちの韮崎市)生まれの大村氏は、韮崎高校ではスキー部と卓球部で主将を務めるなどスポーツに熱中し、特にスキーは、大学生のときに国体出場したほどの腕前だったそうです。しかし氏の場合も、英語学習に没頭した形跡は見当たりません。五年間勤務し、物理や化学の授業で教鞭を執った夜間定時制高校でも、TOEFLの受験学習をした形跡はありません。
 というよりも、働きながら東京理科大学修士課程を修了するのに精一杯で、またその後の山梨大学工学部助手を振り出しに研究者としての生活を始めた後も目の前の研究に没頭し、留学そのものが念頭になかったのでしょう。北里研究所で技術補として抗生物質ロイコマイシンの構造を解明していたとき、研究に熱中するあまり精神科を受診したというエピソードが、そのことをよく物語っています。(『日経新聞』二〇一〇年七月一四日)
 ですから大村氏の場合も、他の多くのノーベル賞受賞者と同じく、英語は研究の後に付いてきたのであって、英語力が氏の研究力を培ったわけではなかったのです。氏がウェズリアン大学の客員教授を兼任することになったのも、カナダの国際会議で知り合ったアメリカ化学学会会長(マックス・ティシュラー)に対して留学を打診したところ、研究業績が高く評価されて客員教授採用に至ったもので、氏の会話力が優れていたからではありませんでした。
 このことをみても、私が本書で何度も述べたこと、すなわち「日本人は世界の最先端をいく学問を日本語で学ぶことができる」「文科省は留学し研究力をつけるためにこそ英語力をつけろと言っているが、TOEFLなどの受験勉強で精力を奪われることは時間とお金の無駄遣いだ」「武者修行をしたければ日本の大学で博士号をとり、研究テーマがはっきりした段階で、ポスドク研究員や招聘教授として遊学したほうがはるかに有益だ」と述べたことの正しさが、改めて証明されているのではないでしょうか。
 ウィキペディアによれば、二十一世紀以降、自然科学賞部門の国別で、日本は米国に続いて世界第二位のノーベル賞受賞者数を誇っているのです。ですから、「大学世界ランキング」で日本の地位が低いと大騒ぎして「国際化」を断行し(そのうえTOEFLなどの外部試験を導入して入試制度を改悪し)いま世界トップクラスにある日本の学問的地位を引き下げる必要はまったくないのです。
 それどころか、OECDの国際成人力調査でも日本は世界第一位の「読解力」「数学力」を誇っているのです。しかも本書第3章で詳述したように、この調査は世界二四か国で一六歳から六五歳の男女を対象におこなわれたものですが、その結果は日本の中高年齢層のほうが若者よりも学力が高いことを示しています。つまり旧制度の教育を受けたひとのほうが学力が高いということです。これには調査結果を分析したOECDの解説者自身が驚いているくらいです。
 これを逆に言えば、日本は教育改革を重ねれば重ねるほど学力が低下しているとも言えるわけです。これは、文科省の「改革」が実は「改悪」であったこと、現在の「改革」を重ねる教育を受けた世代からはノーベル賞の受賞者は出てこない可能性があることを、示唆しているとも言えるのです。
 考えてみれば、日本の歴代のノーベル賞受賞者は、文科省が改悪を重ねる以前に教育を受けたひとたちばかりです。大学入試も全教科を受けねばなりませんでしたし、英語の聞き取りテストもありませんでした。もちろん小学校で英語学習をうけることもありませんでした。
 にもかかわらず、昨年度の日本人による受賞に引き続き、今年度(二〇一五年)も、大村氏や梶田氏がノーベル賞を受賞したことは、日本人がノーベル賞級の研究をするためには留学する必要もないし、小さい頃から英語学習にうつつを抜かす必要もないことを、みごとに示してはいないでしょうか。

 ここまで書いてきたとき、ふと気になって手元にあった松尾義之『日本語の科学が世界を変える』(筑摩選書)を読み直してみました。驚いたことには、そこには次のように書かれていたのです。
 「なぜ日本の若い研究者は外国に留学しないのだろう。古い人にはたぶん分からないと思うが、その一番の理由は、十中八九、日本の研究レベルが高くなってしまい、留学するメリットが薄れてしまったことだ」(二一三頁)
 氏は右のように述べる理由として次のような事実をあげています。
 「ネイチャー誌などを読めば薄々わかるのだが、昔に比べて、本当に、アメリカやヨーロッパから出てくる論文がつまらなくなった。(中略)私はここ数年、『ネイチャー誌で日本人の論文が出たら、まず間違いなく、質が高くておもしろいですよ』と科学者に申し上げてきた。トーマス・クーンのいう普通の論文、つまり今の科学のパラダイムの中のこまごまとした論文ではなく、少しでもその殻を破ろうとするものを探すと、多くが日本人科学者の論文だということだ」(二一〇~二一一頁)
 科学雑誌として有名な『ネイチャー』(週刊)は、日本独自に『ネイチャー・ダイジェスト』という月刊誌を発行していて、前掲書の著者・松尾氏は二〇〇九年から四年半、その実質的な編集長を務め、一貫してネイチャー誌に載った英語論文を追い続けてきた人物です。その氏が言うことだけに、私には極めて説得的でした。
 この本が出たとき私はざっと通読して「私と同じことを考えているひとがここにもいた」という印象が強くて、その細部までを記憶していませんでした。というのは、題名『日本語の科学が世界を変える』が示すように、この本の主張は、日本人が日本語で思考するからこそ世界の先端を行く科学をつくりだすことができたのだという点にあり、、それを多くの例をあげて実証していたからです。
 たとえば、湯川秀樹の「中間子」という概念・考え方も、西洋的な思考からは生まれなかったものですし、昨年度(二〇一四)のノーベル物理学賞を受賞した「青色発光ダイオード」の発明も、松尾氏によれば、実は元東北大学総長を務めた西澤潤一氏の研究がなければ生まれようがなかったものでした。松尾氏によれば「工学分野ではノーベル賞を二つもらってもいいかな」と思われるほどの大天才です。いわば理論物理学における南部陽一郎のような存在です。
 またニュートリノの研究で今年度の物理学賞受賞者である梶田隆章氏は東京大学の大学院で小柴昌俊氏と戸塚洋二氏の指導を受けたのですが、その戸塚氏は東京大学宇宙線研究所長として一九九八年、スーパーカミオカンデでニュートリノ振動を確認し、ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて示した人物ですから、二〇〇八年に癌で死亡していなければ、梶田氏よりも先に(あるいは梶田氏と一緒に)ノーベル賞を受賞して当然の人物でした。
 このように日本にはノーベル賞候補者がきら星のごとく存在しているのです。松尾氏によれば『日経サイエンス』が一九九一年一〇月号で「日本の頭脳――ノーベル賞に限りなく近い人たち」という大特集を組んだとき、その時点ですでに「候補者」は五〇人近くいたそうです(前掲書九一頁)。とりわけ技術や工学の分野では、日本は間違いなく世界のトップレベルを走っていて、少し紹介したいと思っただけでも、あげるべき人物は一〇〇人は下らない、しかし「絶対に外せない人」という条件をつければ、先に紹介した西澤潤一博士を置いていないだろう――これが松尾氏の意見でした(前掲書一六〇頁)。
 つまり松尾氏によれば、日本の研究者が海外に出ようとしないのは留学が必要ないからなのですが、だからといって氏は、海外に武者修行にでかけることは意味がないことだと言っているわけではありません。「ある程度の基礎固めができた段階」で海外に出かけることは、それなりに有意義であるし、「日本語による科学の充実にも貢献する」と述べているのです。
 だとすれば政府・文科省が今こそ積極的に考えるべきことは、若手研究者が「海外に出ることを支援する仕組み、外に出ると得をする仕組み」であり、「小学生の英語教育よりも、こちらの方がまず優先されるべき」(二一四頁)だと松尾氏は言うのです。これも私が本書で述べてきたことと符合していてまさに我が意を得たりという思いでした。ここで氏は明言していませんが、学生や院生への留学支援策についても同じ思いだったと思われます。つまり、まず考えるべきは若手研究者の遊学であって学生・院生ではないのです。
 ちなみに松尾氏は前掲書で、ノーベル賞を受賞した朝永振一郎氏も、プリンストン高等研究所の元所長オッペンハイマー氏も、「科学者の英語はブロークン英語だ」と言っていたことをも紹介しています。これも記憶に止めておくに値する事実ではないでしょうか。
(次号に続く)

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TOEIC&TOEFL、言語が商品となる時代、教育原理(2015/11/13)

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 拙著『英語で大学が亡びるとき:"英語力=グローバル人材" というイデオロギー』の最終校正を明石書店に送付し、やっと心と体を休めることができる喜びを噛みしめています。出版は今のところ11月30日(月)だそうです。
 この出版のため体をこわし10日ほど寝込んでしまったこともありました。そのときは体重が35.9キロにまで落ち込みましたが、今は39.5キロまで回復しました。体をこわさなければならないほど何故この本に打ち込まなければならなかったのか。
 それについては次に紹介する「あとがき」に詳しく書きました。いずれにしても、「英語化」「国際化」をひとつの駆動力にしながら急速に右傾化・軍事化していく日本(これ自体が非常に奇妙な事態です)にたいして、本書がささやかな警鐘になればと念じています。
 ただし、一挙にすべてを載せると読むのが負担になるかたがみえるかも知れないと考え、3回に分けて載せることにしました。なお、逆に「細切れで読まされるとかえって面倒」というかたのために、寺島研究室HPでは一挙掲載する予定です。

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あとがき

 本書は次の三部で構成されています。
1 京都大学で開かれた二つの国際シンポジウムで私がおこなった問題提起および基調提案、南山大学で開かれた日本フランス語教育学会で私がおこなった講演
二 京都大学新聞によるインタビュー(これは前編と後編の二回に分けて同紙に掲載された)に加筆修正を加えたもの、および「インタビューを終えて」と題して同紙に投稿したもの
三 私が書いているブログ「百々峰だより」に載せたなかから、大学の国際化に関連するものを選んで、それを大きく三つに分類し、さらに大幅な加筆修正を加えたもの

 私がこれまでに明石書店から出版した英語教育関係の著作は、ノーム・チョムスキーやハワード・ジンなどの翻訳を除けば、『英語教育原論』『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー』の二冊になります。
 前者の『英語教育原論』は副題がないので内容が分かりにくいのですが、第1章「英語教師、三つの仕事・三つの危険」という「英語教育論」「英語教師論」を除けば、残りの叙述のほとんどすべてが、当時の世論を二分した小学校英語の是非に充てられています。
 後者の『英語教育が亡びるとき』は、副題「『英語で授業』のイデオロギー」が示すように、文科省が新しい高等学校学習指導要領で「英語の授業は日本語を使ってはならない、英語でおこなえ」という方針を明記したことの是非を論じたものでした。
 要するに前者は小学校における英語教育を論じ、後者は高校における英語教育を論じたものです。ですから次に出すべき本は中学校における英語教育を論じたものになってしかるべきだったのですが、本書はそれを素通りして、大学における英語教育を論じたものになってしまいました。
 しかも「大学における英語教育」という場合、大学教養部すなわち共通教育における「教養科目としての英語教育」を思い浮かべるのが普通ですが、本書ではそれを飛び越して大学教育における英語の役割そのものを論じることになってしまいました。
 このような流れになってしまったのは、それを私が選んだからではなく、現在の政治情勢・教育政策が否応なしに私をそのような方向に押しやってしまったからでした。というのは大学設置基準が大綱化されてからは大学の共通教育にたいする縛りが緩くなり、外国語学習は第二外国語を必修としなくなったからです。
 その結果、国立大学でも独語・仏語などの履修者が激減し、それと並行して「教養・共通教育では役に立つ英語教育をしろ」という名目でTOEICを全員に受験させようとしたり、TOEIC受験対策を共通教育「英語」の授業内容として組み込めという暗黙の圧力が強くなってきました。このようなことを放置しておくと、共通教育における英語教育は、TOEIC受験対策を開講している予備校と何ら変わらなくなってしまいます。
 もっと問題なのは、岐阜大学のように医学部や工学部など理系学部を中心になりたっている大学で、ビジネス英語であるTOEICを強制受験させて何の意味があるかということです。ましてその受験対策のためにTOEIC受験問題集を共通教育「英語」の授業テキストとして使うようになれば、ただでさえ英語嫌いだった学生を、ますますを英語から遠ざけることになるでしょう。私の経験では、とりわけ工学部で共通教育「英語」を教えていたとき、「英語が嫌いだ」「英語が得意でない」からこそ工学部を選んだという学生が圧倒的に多かったからです。
 そのうえTOEIC受験には、もうひとつ別の問題があります。学生を強制受験させる場合は受験料を無料にしなければならないからです。そのためには教員の研究費を削って受験料に回さなければなりませんが、その一方で文科省からの交付金は年ごとに減らされる一方ですから、このTOEIC全員受験は二重の意味で無理・無駄を学生と教員に強いることになります。
 岐阜大学では、少なくとも教育学部では私たちの強い反対で「全員強制受験」を取りやめになり、「希望者受験」に切り替えましたが、しかしたとえ希望者受験であろうが、TOEICなどというアメリカ企業がつくりあげたビジネス英語を、研究費を削り税金を使ってまで受験させる意味は、まったくありません。
 しかも第二外国語を必修から外して外国語学習を英語に一極化し、英語以外の外国語を学ぶ機会を減らしたり奪ったりすることは、英語という眼鏡でしか世界を見れない学生を育てる危険性があるわけですから、これは単に独語教師や仏語教師の失職問題だけでは終わらない、それ以上に深刻な問題をはらんでいると言うべきなのです(これは本書で詳しく論じたので、これ以上の説明は割愛します)。
 ところが第二次安倍内閣になってから、今まではTOEICを振りかざして全国の大学を指導していた文科省が、今度は共通教育の「英語」どころか、共通教育の他の科目まで「英語で授業しろ」と言い始めました。そしていつのまにかTOEICではなくTOEFLを声高に叫び始めたのです。なぜこのような理不尽なことが次々と、しかも堂々とまかり通ってしまうのか、怒りを通り越して、あきれてものも言えない状態になりました。

 私が『英語教育原論』で小学校の英語教育を論じ、『英語教育が亡びるとき』で高校の英語教育を論じたあと、中学校英語ではなく、大学教育における英語問題に自分の研究や発言の重点を移さざるを得なくなったのには、このような背景がありました。
 かといって、ことは日本の未来に関わる重大事ですから、政府・文科省の言動にあきれてばかりもいられません。そこで明石書店にお願いして、今までに書きためたもの、講演やインタビューで語ったことを集めて緊急出版したいと強く思うようになりました。こうして出来上がったのが本書でした。
 しかし頁数の関係で本書に盛り込むことができなかったことや、本書の編集が終わったあとに起きた新しい出来事も少なくありません。そこで以下では、書き足りなかったこと言い足りなかったことを、「あとがき」というかたちで若干の補足をしたいと思います。

 冒頭でも述べたように、本書の第1章は京都大学でおこなわれた国際シンポジウム、第2章は京都大学新聞のインタビューが中心になっています。そこで大きな焦点になっているのが、「国際化を断行する大学」「共通教育の半分は英語で授業をおこなう」という京都大学の方針であり、そのための実効策としての「外国人教員一〇〇人計画」でした。
  その背景にあるのは「英語力=グローバル人材」という考え方ですが、これにたいする批判は本論で充分に展開したつもりなので、ここではそれを改めて繰りかえすことはしません。気になるのはこのような方針を掲げた京都大学のその後です。
 文科省が募集する平成二四年度「スーパーグローバル大学」に選定された京都大学は、「共通教育の半分は英語で授業をおこなう」という方針を実行するために「外国人教員一〇〇人計画」という政策を掲げたわけですが、このような政策をかかげた当時の京都大学総長・松本紘氏は今はいません。
 総長選考会議(その半数は学外委員)で、議長の安西祐一郞氏(元慶応義塾大学塾長、中央教育審議会会長)は、京都大学で従来からおこなわれてきた総長選挙=予備投票および意向投票を廃止し、基本的には総長選考会議だけで総長を選べる仕組みをつくろうとしました。
 それにたいする強い批判が学内で広がり、総長選考会議も予備投票・意向投票をふまえて総長を決めざるを得なくなったのでした。こうして現総長が続投する道は閉ざされ、その結果、新しく総長に選ばれたのが山極寿一氏でした。
 山極氏は、英語に一極化する国際化には批判的な人物です。そのことは本書でもふれました。しかしすでに文科省に提出した計画で京都大学は補助金をもらうことになっているのですから、いまさら「英語で授業」「外国人教員一〇〇人計画」を撤回するわけにもいかないでしょう。
 私はこの案にたいして本書では、「期限と人数まで決めて外国人を雇うわけだから能力が低い人物まで雇わざるをえなくなる危険性がある」「しかもこれは日本人の有能な若者が国内で研究者としての仕事が得られないことを意味し、頭脳流出につながりかねない」と批判しました。
 ところが事態は私が思い描いていたのとは少し違った方向に展開しているようです。というのは関西の大学にいる知人の話では、公募しても外国人研究者の応募が少ないので、手分けして「一本釣り」で外国人研究者を集めてこざるを得ない状況になっているというのです。
 今から考えてみると、これもある意味で当然、予想されたことでもありました。というのは私が東海北陸地区私立高等学校教育研究集会の講師として講演を頼まれたとき、「英語で授業をし、バカロレア試験も受験させている」というので有名な静岡県の私立高校が実践報告をしていたのですが、そのとき「外国人教員を雇っても給料の良いところへすぐ逃げ出してしまうので、教員確保に困っている」という話を聞いたからです。だとすれば、京都大学でも同じことが起きても不思議はなかったはずなのです。
 しかし私の頭では、ノーベル賞受賞者を多く輩出している、世界でも高名な京都大学のことだから、公募すれば、少なくとも人数だけは多くの応募者を確保できるだろうと予想していたのです。しかし、応募者が少なかったということは、世間はそれほど甘くなかったということでしょうか。
 ところが最近になって『中央公論』二〇一五年二月号に「大学国際化の虚実」という特集が載っていることを知り、さっそく取り寄せて読んでみました。すると、何と驚いたことに特集の最初に京都大学新総長の山極氏が「真の国際化とは何か」という一文を寄せているのです。
 しかも、そのなかで山極氏は、「なぜ日本の大学の外国人教員比率が低いかと言えば、給料の問題と居住環境の問題が大きい」「日本の大学、とくに国立大学の教員の給料は、外国、とくにアメリカの大学の教員と比べるとすごく安い」「京都は文化の厚みがある歴史的な町だから、毎日が楽しくて仕方がないと言ってくれる外国人も多いけれど、居住環境だけが整っていない」と述べていたのです。
 日本政府の公教育にたいする支出はOECDのなかでも最底辺のレベルにあることは周知の事実ですが、このようなことを放置しておいて文科省は、「大学世界ランキング」でトップレベルを目指せと尻をたたいているのです。しかし、それがいかに絵に描いた餅にすぎないかが、はしなくも京都大学の人事で露呈してしまったように思えました。
 この人事について知らせてくれた知人は、そのとき『中央公論』二〇一五年七月号に「外国人教員から見た、日本の大学の奇妙なグローバル化」という論文が載っていることも知らせてくれました。この論文は京都大学と九州大学に勤務する二人の准教授(前者はアメリカ人、後者はイギリス人)による共著論文でした。
 この論文については本書の第3章註5でかなり詳しく紹介したので、ここでは詳細は割愛させていただきますが、そこで彼らは、「外国人教員の召致に熱心なのは結構だが、それよりも心配すべきなのは日本人の優秀な研究者の頭脳流出ではないか。上意下達化している教授会その他の会議に、教員が意味のない出席を義務づけられ、事務員に出席しているかどうかだけを監視され点検されることに、教員は嫌気がさしているからだ」と書いていたのです。
 理事長や学長が権力をふるっている私立大学や地方の国立大学ならいざ知らず、天下の旧制帝大ですら議論の自由がなく、かつ教育と研究に専念できる環境が保障されていないことに私は驚かされました。このような環境に外国人教員が魅力を感じるはずがないのです。彼らは次のようにすら書いていました。
 「(大学改革の)本来の目的は、日本に当然あって然るべき高いレベルの授業と研究が大学で行われるようにすることでなければならない。これが実現すれば、文科省は国際的にトップレベルの学者を惹き付けるために特別な資金をあえて用意する必要はない。なぜならば、彼らは自発的にやってくるだろうから。」(一八七頁)
 これを読むと、現政権の大学改革がいかに荒唐無稽のものであるかが、日本人にとってだけでなく外国人の眼にとっても歴然としていることがよく分かります。というよりも、外国人だからこそ、より鮮明に見えた大学の姿かも知れません。

 ところで、先に紹介した『中央公論』二〇一五年二月号の「大学国際化の虚実」という特集に、もうひとつ私の目を惹いた記事がありました。それは「もし日本のすべての大学の授業が英語でおこなわれたら――斜めから見たグローバル化」という論文です。
 これを書いた清水真木氏(明治大学教授)は、数年前からグローバル化を肯定する「空気」が次第に濃くなり自分のような哲学を担当しているのんきな身分の教員ですら息苦しさを感じるようになった、そして英語で授業した実績がないと不利益を被ることになるのではないかといういやな予感が頭から離れなくなったというのです。
 そこで清水氏は履修者の多くない授業(週に一コマ、半期だけ、三年生以上)で実験することにしたそうです。この実験で得た結論を氏は次のように述べています。
 「日本語で聴いて分からないものを英語で聴いて分かるはずがない」「英語で聴いて分かる話のレベルが、日本語で聴いて分かる話のレベルを超えることはありえない」、したがって「英語による授業の割合が増えるとともに、これに比例して、大学が提供する授業の質の平均的なレベルが低下する」(一四五頁)
 このような結論は、私が京都大学国際シンポジウムの基調講演で述べたこと(二〇一四年一一月、第1章第2節に採録)と符合していて極めて興味深いものでしたが、しかし私にとっては実験するまでもなく、これは自明のことでした。しかし清水氏は、自らも述べているように、「実際に授業し、学生の反応を見るまで、うかつにもこれに気づかなかった」と言うのです。
 あの基調講演で私は次のように述べました。
 「有名な笑い話に『難しいことを易しく説明するのは小学校教師、易しいことを難しく説明するのが大学教師』というものがあるからです。大学教師や高校教師は、日本語で説明する授業でさえ、一般的には、小学校教師よりも下手なのです。だとすると、高校や大学で、日本語を使ってですら、上手く生徒・学生に説明できない教師が、日本語で説明してもきちんと理解できない生徒・学生を相手にして、英語で授業をしたら、どんな悲惨な結果になるか、想像に難くないでしょう。」
 ところが政府・文科省には、このような自明な結論が未だに見えていないのです。たぶん彼らも清水氏と同じように、日本の大学・学生のレベルが目に見えて低下するまでは、このことに気づかないのかもしれません。しかし、それでは大学が崩壊してしまいます。そうなってからでは遅すぎるのです。だからこそ私は本書の緊急出版を明石書店にお願いしたのでした。
(続く)



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