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英語教育残酷物語 <「英語で授業」という名の拷問>その1

英語教育(2018/12/08) 「英語で授業」のイデオロギー、英語大好き人間VS英語恐怖症の生徒、心理的カウンセリングの支援体制

『英語にとって教師とは何か』 『英語教育が亡びるとき』で

 最近の国立大学でさえ1年に何回も入試があるので、その問題作成と採点で疲れ切っています。文科省は「世界ランキング○○位に入る大学を目指せ」と上から圧力をかけているのですが、こんな状態では研究に専念する時間が奪われる一方です。
 そのうえ上意下達の無駄な会議や教授会を乱発し出欠点検ばかりに熱心だが、教師に自由に研究する時間とお金をださないという大学運営も、大学教師を疲弊させています。これではノーベル賞をとる研究など望むベクもありません。
 そう言えば、本庶佑氏を初めとする日本人のノーベル賞受賞者も、かつて日本の大学が法人化される以前の、まだまだ自由の雰囲気が溢れていた時代に研究生活を送ったひとたちばかりです。本庶佑氏も1942年生まれの高齢者です。
 今は政府が軍事費をうなぎ登りに増やす一方で、国立大学への交付金は一貫して減らし続けているのですから、大学研究者は民間資金を得るために奔走したり、外部研究費を得るための書類づくりに膨大な時間と精力を奪われています。
 こうして、肝心の研究をする時間が減少し精力が大量に消耗させられています。
 おまけに最近は大学までもが、「共通科目」を「英語で授業おこなう」ことを要請され、教師も学生も、ますます多忙化を極めています。本庶佑氏も、若いときから英語学習のみに時間と精力を奪われていたら、おそらく今日のノーベル賞受賞はありえなかったでしょう。
 自由であるべき大学でさえこんな状態なのですから、高校以下の教育現場はもっと悲惨であることは疑いありません。そう思っていた矢先に、ある高校教師(前川さん=仮名)から下記のようなメールが届きました。

 10月半ばに中間考査があり、その採点を済ませ、得点入力が終わったと思ったら⒒月初めに「学力テスト」というよくわからない実力テストがあり、その採点、成績処理が終わったところで、もう今週半ばからは期末試験週間に入りました。
 今はその試験の問題作成です。その途中にも教材研究と教材作成などがあり、このところ土日も学校か家で仕事で、休養できていません。
 先日、校長面談があったので、私は「試験漬け」はやめて欲しいと強く要求しました。度重なるテストで生徒だけでなく教師も疲れ切っているからです。
 そんなふうで、肉体的疲労がある中で、事件が起きました。一年生の生徒が英語の学力テストの答案用紙に、教科担任の名前を出して「○○死ね」と書き込んだのです。○○先生は流暢な英語を使って「英語による英語」の授業をスラスラ進める女性教諭です。
 生徒指導部の事情聴取でその男子生徒は、「本文も指示も、何もかもわからなくなってきて、”悪いのは先生”だという気持ちが抑えられなくなった」と言っているそうです。私は「とうとう来たか」という気がして気持ちが沈んでしまい、余計に疲れを感じてしまいました。


 前川さんは、上記で「<とうとう来たか>という気がして気持ちが沈んでしまい、余計に疲れを感じてしまいます」と書いているのですが、私は、これを読んでむしろ一縷の光を見出した気がしました。
 というのは、「英語で授業」という文科省・指導要領の政策は、生徒と教師を疲弊させるだけで教育効果はゼロどころかマイナスになりかねないのですから、いつか必ず何かが起きるのではないかと思っていたからです。
 かつて生徒が英語女教師をナイフで刺す時間が起きましたが、同じことがおきるのではないかという不安です。前川さんも上記のメールで、「とうとう来たか」という気がして・・・と書いているのですから、彼も同じ不安を感じていたことが分かります。
 まさにその不安が的中したわけですが、その一方で、この事件をきっかけに「英語で授業」という文科省や教育委員会の方針に現場から疑問の声が出てくるのではないかと私は期待したからです。「これを読んでむしろ一縷の光を見出した気がしました」と書いた所以です。
 この生徒は、「学力テスト」の答案に、処罰覚悟で、「<英語で授業>という拷問」を告発したのですから、前川さんはその勇気をむしろ褒めてやるべきではなかったのか、「落ち込む」どころか、むしろ「よくぞやった!」と、生徒の行動をバネに、元気を回復すべきではなかったかと思ったのです。
 日頃から管理職や教育委員会から、英語の授業では「日本語を使うな英語だけででやれ」という強い圧力があり、疑問を感じていてもそれに異を唱える自由のない職場では、なかなか声を上げることは難しいでしょうが、こんな事件が起きれば「やはり来るべきものがきた」ということで、意見を言いやすくなるはずだからです。
  文科省による「<英語で授業>という拷問」から生徒を守るべきなのは、本来は、教師なのですから、こんなときこそ英語教師には声を上げてほしかったのです。
 その男子生徒は、生徒指導部の事情聴取で、「(日本語を使わない授業だから)本文も指示も、何もかもわからなくなってきて、”悪いのは先生”だという気持ちが抑えられなくなった」と言っているそうですから、なおさらのことです。
 この生徒の言葉は、<英語で授業>という授業のありかたが、生徒にとって一種の拷問であったことを何よりも雄弁に物語っているのではないでしょうか。


 今度の事件がショックでその女教師も何か反省を迫られたのであれば、それはそれでよかったのですが、前川さんに電話で聞いたかぎりでは、そのようすもなかったようで、それが私のとって大きなショックでした。
 流暢な英語を使って「英語による英語」の授業をスラスラ進めるその女性教諭にとっては、「私のどこが悪いのよ」「私は文科省や教育委員会の言いつけどおり、『英語による英語』の授業を忠実にやっているだけです」と言いたかったのかも知れません。
 中学校で女性英語教教師が刺された事件については「女性教師と英語教育」(『英語にとって教師とは何か』第Ⅱ部第5章(あすなろ社)でも詳しく論じました。英語教師は「英語大好き人間」が多いので、ともすると「英語には興味関心があるが人間や社会にはあまり関心がないひと」が少なくないように思います。
 <英語による授業>は、英語が大好きで「英語を話せる自分」を生徒の前に披露したい教師には、最高の場かも知れませんが、意味不明の英語を 1時間じゅう聞き続けていなければならない生徒にとっては拷問以外の何物でもないでしょう。
 国際基督教大学(ICU)と言えば、4年間すべてが教養課程(リベラル・アーツ)であり、英語で授業がおこなわれる大学として有名ですが、その大学の学長である鈴木典比古氏でさえ『TOEFLメールマガジン36号』で、次のように言っていることに注目してください。(https://www.cieej.or.jp/toefl/mailmagazine/mm36/icu.html#top、下線は寺島)

 ICUでは「英語でリベラル・アーツを」がキャッチフレーズですから、英語は授業を受けるための手段です。新入生はほっとする間もなく、入学式の翌日にはTOEFL-ITPを使ったプレイスメントテストで英語のレベルを判別し、クラス分けされます。そこからもう英語がどんどん始まります。
 すごいカルチャーショックもあるでしょうが、これがなるほど大学の勉強かと受け止めざるを得ない。初めにジャポーンとELP(English Language Program)に飛び込み、訳もわからず、犬かきでもなんでもいいから泳ぎだすのが一学期ですから、おそらくかなり大変だと思います。しかしこの1年間の悪戦苦闘が、実は大きな違いを生み出します。(中略)
  学生が積極的に考え方と生き方の基礎を学び、自己表現を会得するには、バランスのとれたリベラル・アーツ教育が必要です。そのためには心理的カウンセリングの支援体制も必要です。実際にカウンセリングが必要な学生も増えています


 つまり、ICUのように英語漬けになることを覚悟の上で、入学した学生でも、「心理的カウンセリングの支援体制も必要で」、かつ「実際にカウンセリングが必要な学生も増えて」いるというのです。
 ましてや英語嫌いの生徒も多く含まれているはずの中学高校で英語漬けにされたらノイローゼ(精神不安定)になるのは当然とも言えます。だからこそICUでは「心理的カウンセリングの支援体制」を整備した上で「英語で授業」をおこなっているのに、公立高校校ではそのような支援体制なしに「英語で授業」が強行されているのです。
 しかも、ここで鈴木氏は「学生と目線を合わせて真剣に意見交換をするには、・・・おのずと少人数クラスになります。現在、先生ひとりに学生が19人ですが、これでも多いですね」と言っているのです。
 ところが今の学校では、こんな贅沢な環境は英語の授業に保証されていません。だから馬鹿げた指導要領のもとで、多数の生徒を前に教師がひとりで英語による説明や指示を続けていく授業にならざるをえません。
 これでは、いったん落ちこぼれた生徒は、英語という海のなかで溺れ死ぬ以外になくなるでしょう。しかし哀しいことに、そのことにたいする生徒の不安や恐怖にもっとも鈍感なのが、ともすると「真面目で」かつ「英語大好き」の女教師であることが少なくないのです。
 その結果が先述の「中学生が女教師をナイフで刺す」という事件だったのですが、それが今回は「○○死ね」と教科担任のテスト用紙に書き込んだのが事件となったわけです。

 ところで、鈴木典比古学長は『TOEFLメールマガジン36号』で、次のような興味深いことも述べています。
 「国際化というと英語で全て行うことだと思われがちですが、本来なら英語と日本語で行うべきだと考えます。最近は留学生が、ICUにきたのは日本語で授業を受けられるようになるためだと言って、親切心で英語を使っても逆に嫌がったりしますよ。」
 鈴木典比古氏は上記で、「国際化というと英語で全て行うことだと思われがちですが、本来なら英語と日本語で行うべきだと考えます」と言っているのです。
 つまり、この記事を読むかぎり、ICUでさえ「英語だけで授業」があるのは、新入生のELPプログラム1年間のみで、あとは「本来どおり」日本語と英語の両方を使うと言っているのです。それでも、ICUは少人数体制で、しかも心理的カウンセリングの支援体制があるのです。
 英語漬けになるのを覚悟で、英語大好き人間が入学してくるICUでさえ、このような支援体制を整えてELPの授業をおこなっているのに、そのような体制なしに多人数の中学高校の普通クラスで「英語で授業」をおこなうことが、いかに無謀かつ無意味か。それを、この事件はよく示してくれたように思います。
 というよりも、そもそも普通の中学や高校で「英語だけでおこなう授業」は、「本来」あってはならないことなのです。英語教育の効果から言っても、「害あって益なし」なのですから。

<註> 鈴木典比古死は、ICU学長としては「本来なら英語と日本語で行うべきだ」と言っていたのに、朝日新聞「争論:大学生は英語で学べ」(2014年7月3日)に載ったインタビューでは、私との論争で、「日本語は使うな、英語で学べ」と主張しているのですから、実に不可解な話です。秋田国際大学学長になったとたんに、自分の主張を変えたのでしょうか。


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狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

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