『鈴木孝夫の世界』第4集(書評その5)――「地救原理」を広め、世界を「タタミゼ(畳化)」せよ!、[緊急情報]グアテマラ、ついに大量虐殺の独裁者にたいして有罪判決!!次はアメリカ?

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問い「日本人はなぜ英語ができないか」答え「英語で知りたいことがないひとにはお茶・お花の類い」

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私は前回のブログ『鈴木孝夫の世界』第4集(書評その4)を次のように結びました。

つまり日本語や日本文化を広めるのは、鈴木先生にとっては一種の平和運動なのです。欧米語、とくに英語が世界に広まるのはアメリカ的・攻撃的な言語や国家を増やすことになりかねないからです。

タタミゼ(tatamiser)がどんな意味かについては本当は詳しく説明しなければならないのですが、もうかなり長くなってきたので、それは次回にまわすことにして、今回はここでやめます。

ただし一つだけ付けくわえておくと、カナダの大学で日本語を教えている金谷武洋氏も「カナダにいるバイリンガルの日本人児童は、日本語を話しているときは控えめなのに、英語を話すときは人格が変わってしまって急に攻撃的になる」と言っていることです(『日本語に主語はいらない』152-153頁)。そのことも次回ではふれるつもりです。

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このタタミゼ(tatamiser)がどんな意味か」について、鈴木先生は、フランスの外交官やフランスの新聞記者の例をあげて次のような説明をされています。

「タタミ」はもちろん日本家屋の畳ですが、タタミゼtatamiserはフランス語です。これは、非常に簡単な言い方をすると、「日本化する、日本臭くなる」という意味です。

フランスの外交官とかフランスの新聞記者とかが、日本に来て、1~2年滞在してフランスに帰ると、どこかおかしいフランス人になってしまうというんですね。

だいたいフランス人というのは、相手が口を開かないうちから反論を始めるとか自己主張が激しい人たちなのです。レストランに何人かで行って何を食べるかとなったとき、誰かがあるものを注文すると日本人みたいに私もそれ、みたいな同調は絶対しないで、本当はそれを食べたくても、必ず違うものをたのむという傾向が強い。おれがおれがが強い人たちなのです。

ところがそういうフランス人が日本に来て何年か経つと「変なフランス人」になつちゃうというので、それを「タタミゼ」という言葉で表現するようになった。

これがいつごろから使われたのか、言語学的に初出が何年なのかというのは調べていませんが、そういうフランス語があるのは間違いない。しかも最近では、いろいろな国の日本語教育関係者の間で、この「タタミゼ」という言葉が広まっているらしいのです。

簡単に言うと、日本語・日本文化に接すると人間が柔らかくなっちゃうという意味なのです。水につけた大豆みたいになってしまって、フランス本国では使いものにならない。(32-33頁)


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要するに「タタミゼ」というのは、「日本語・日本文化に接すると人間が柔らかくなってしまってフランスに帰国しても使いものにならない」という意味なのです。

しかし、もっと興味深いのは、これがフランス人だけの現象ではないということです。どうもアメリカ人も同じらしいというのです。鈴木先生によれば、それは次のようなかたちで表れます。

これはフランス人だけでなく、最近聞いた話では、アメリカのある女性が日本に来て、日本語を勉強したあと五、六年日本の会社に勤めてアメリカに帰った。そうすると以前のようにまわりと対等に議論ができなくなっているので愕然(がくぜん)としたとのこと。要するに、自分はアメリカ人としてはだめな人間になってしまったというのです。

どうも日本語・日本文化というのは悪く言えば人間を軟弱にする、よく言えば喧嘩とか対立、対決とかができにくい平和的な人間にしてしまいがちのようなのです。ですから、まちがっても前のアメリカ大統領であったブッシュみたいな人間は出てこないのです。

日本国内でも、たとえば日本の民事の裁判官はあまり黒白のはっきりした判決を出したがらないで調停を進める傾向が強い。つまり当事者同士で話し合って解決することを重んじる人たちが多い。これは裁判官の職務放棄みたいなものにも見えるが、しかし、そうとばかりは言えないでしょう。

私自身、かつては、このような風土というのをある意味情けないと思ってきたところもあるのですが、でもこのごろは、トシをとったせいか、それがむしろよいことだと強く感じるようになってきました。


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以上は、フランス人やアメリカ人が日本語・日本文化にふれるとその人間・人格がどのように変容していくかの例ですが、それとはまったく逆の事例もあります。

つまり日本人が英語にふれると人格がどのように変わるかという問題です。その興味深い事例を金谷武洋『英語にも主語はなかった』は次のように述べています。

この第2章において私は、日本人が短絡的に「英会話をマスター。これであなたも国際人」と捉えがちな風潮には、あまり自覚されていない危険性があることを指摘したい。

英語を話すということは、単に日本語をそのまま直訳することではないのだ。あえて挑発的な言い方をすれば、それは一時的にせよ「人格を変える営み」なのである。どんな人格か、と端的に言えば攻撃的、自己主張型人間のそれである。

上手くなればなるほど、日本人の美徳とされる「優しさ・思いやり」とは離れていく。英会話を勉強するなら、それぐらいは覚悟しておいてほしい。

「人格を変える」とは言っても、大人になってから習得した趣味としての片言の英会話なら、外から見た時の違和感はたかが知れている。

反対に、これが日英バイリンガルの子供だったりすると、日本語を話す時は大人しいのに、英語に切り替えた途端、俄然「人が変わったように」自分の意見をはっきりと述べて自己主張する。

こうしたカメレオンぶりは、カナダなどではごく普通に見られることである。慣れていない日本人旅行者などには相当シヨックを与えるようだが。(104ー105頁)


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同じような主張は朝日新聞ロサソジェルス支局長・伊藤千尋氏によってもおこなわれています。金谷武洋氏の同上書からの孫引きですが、伊藤氏は月刊『言語』2003年3月号で次のように述べています。

「米語を世界の共通語とすべきではない」と朝日新聞ロサソジェルス支局長が主張する第2の理由はさらに深刻で、言語を越えて政治的地平にまで及んでいる。「米語を話す人間は攻撃的になる」と言うのだ。(中略)

米国に住んでいるがスペイン語も達者な伊藤は、よく中南米を取材で訪れる。つまり米語とスペイン語をどちらも話すのだが、「使用言語そのものの威力」を感じると言う。

米語では口の周りの筋肉をしきりに動かし、口調は必然的に攻撃的になる。一方、スペイン語は口先に力を入れずに話す。このために「軟弱かつ協調ムード」になるので、スペイン語は「恋を語るにはいいが、対決には向かない」。

仮にも朝日新聞ロサンジェルス支局長が、読者の知的レベルの高い月刊誌という公器を使ってこうした意見を堂々と述べるとは本当に驚いた。よほどの思いの丈だったのだろう。

「やがて米語が世界語として普及し尽くしたとき、世界の人間は攻撃的となり騒乱はさらに増すのではないかと推察される。そのとき、世界の人々の顔つきも攻撃的に変わるのだろう」とまで書くのだから、伊藤の憂欝と心配は募るばかりの様子である。(『英語にも主語はなかった』106-107頁)


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<註> 金谷武洋氏は上記の伊藤氏の言について次のようにも述べています。
「これは私が『謎を解く』で指摘したことでもある。もちろん、あくまでも傾向であって、攻撃性の個人差は大きい。また同じ英語でもイギリスやカナダでは雰囲気が違う。男女の差もある。方言ではまた違う。私が最も攻撃性を感じるのは米国の白人男性のそれだ。伊藤が英語と言わないでわざわざ「米語」としている理由もそこにあるのだろう」(106頁)

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もし上記の主張が正しいとすれば、文科省の新高等学校学習指導要領は日本人を洗脳してアメリカ人と同じ「攻撃的な人間」に仕立て上げようしていることになります。

というのは「“英語で授業”は教育に何をもたらすか」(『英語教育が亡びるとき』第2章)でも詳論したように、この新指導要領を強力に推進した人物のひとりが松本茂氏(立教大学)であり、彼は英語教育の最終到達目標が「ディベートの授業」だとしているからです。

御承知のように「ディベート」というのは、与えられた論題について賛成派・反対派の二組に分かれて論争する訓練をさすのですが、自分がその論題について本当に賛成か反対かは問題ではないのです。

ディベートを推奨する本意は、このような方法をとる理由がいろいろあげられているのですが(ここで詳しく説明するゆとりはありません)、詰まるところそれは「白を黒と言いくるめる訓練」としか私には見えませんでした。

この「白を黒と言いくるめる」極致をいくのがアメリカの企業弁護士ではないでしょうか。自分の弁護する企業がどんなに悪いことをしていても法廷で勝ちさえすれば(そして莫大な報酬をもらいさえすれば)それでよいからです。

「こんな訓練を英語教育にもちこんでどんな人間を育てようとしているのか」と考えると空恐ろしくさえなります。

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ところで鈴木先生は、「欧米の歴史は侵略と略奪に満ちている」、にもかかわらず「明治以降の日本は国際化と称して喧嘩のやり方まで欧米の真似をしようとしている」と次のように非難されています。

明治開国後、日本は欧米を真似したのですが、それは独立を守るため、植民地にならないためのあくまでも和魂洋才のつもりだったはず。本当は日本人は欧米人の生き方には合わないのだけど、無理して西洋の「きったはった」「力は正義なり」の流儀に適応しようとしていった。

十九世紀のあの時代は、彼らと一緒にやらないと生かしてもらえなかったのだからやむをえないところもあった。まさしく草食獣そのものの日本が、肉食獣のライオンやトラとかみ合う血みどろの世界におずおずと入っていって国際化しようとした。喧嘩のやり方も真似しようとした。それが日本の軍国主義の始まりなんですよ。

それまで日本は歴史上外国と戦争したのは、古代の白村江の戦いと秀吉の朝鮮侵略の二回しかない。明治までの江戸時代は無論ゼロで民族としては戦争経験の蓄積がなかった。(43-44頁)


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このように日本は「喧嘩のやり方も真似しようとして」アジア侵略にのりだし、結局は敗北しました。その理由は、鈴木先生によれば、次のようになります。

で、日本がアメリカになぜ負けたかというと、やはりいくら牛が曲がった角で突いてもライオンやトラの牙にかなわないからです。

向こうは肉食獣で殺しが本能、殺さなければ自分が生き残れないと思い込んでいる。ところが草食獣には殺すという本能・意識がない。ですから日本は欧米主導の国際化に向いていないのです。

じゃあ、日本はどうずればつぶされずにすむか?そこで出てくるのが、世界を日本のように変えていくことができれば、つまりタタミゼの精神を世界に広げていけば、国際化なんかは必要なくなるのです。


ところが、いま日本の企業が落ち込んでいるのは「英語力がないからだ」とか「ディベートの訓練ができていないからだ」などと言われています。それが「英語で授業」「英語ディベート」を導入する大きな理由になっています。

しかし、そんな訓練を受けなくても、私が1992年にアメリカの大学で1年間日本語を教えていた頃の日本は、「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」と言われていました。ですから今の経済的苦境は「英語力」や「ディベート力」とはほとんど何の関係もないのです。

それが現在のような地位に落ち込んだのは別の理由があります。これについてはこのブログでも何度か書いたので、ここでは割愛させていただきます。
http://pub.ne.jp/tacktaka/?entry_id=4814483

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<註> また「英語力=経済力」「英語力=研究力」「英語力=国際力」という神話については京都大学でおこなわれた国際シンポジウムで発表した下記論考を御覧ください。
http://www42.tok2.com/home/ieas/kyotoUniversitySymposium2010.pdf

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ところで草食獣の日本も、アジア太平洋戦争では欧米の真似をして、アジアでそうとう残酷な行為をしていますが、『肉声でつづる民衆のアメリカ史』を読んでみると、肉食獣である欧米人の侵略地における殺し方、その残虐性は想像を絶するものがあります。

たとえばコロンブスがカリブ海の島々で先住民を殺すやり方は、宣教師ラス・カサスが「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を書いて告発せざるを得なかったほど背筋が寒くなるような殺し方です。ぜひ自分の目で読んで確かめてください(『肉声史』上巻第1章)。

またアメリカ人の先住民のインディアンを殲滅(せんめつ)したやりかたも残酷きわまりないものでしたし、その後、侵略の手を国外に広げるようになってからのフィリピン占領も、作家マーク・トゥエインに「モロ族虐殺にかんする論評」を書かせしめるほど残虐なものでした(『肉声史』上巻第12章)。

ところが今の日本はアメリカによる食料政策の結果、戦後ますます肉食になっていますから、自然と調和しながら生きてきた草食獣の良さを失って、ひたすら「攻撃性」ばかりを強めていくのではないかと心配です。

それに輪をかけて、最近の日本は、NHK「英語でしゃべらナイト」というほど英語ばやりで、そのうえ学校教育で「英語ディベート」や「株の売り買いを学ぶ金融教育」まで導入しようとしているのですから、本来の良さはますます失われていくばかりでしょう。

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以上をまとめると。鈴木先生の提案は結局つぎのようにまとめることができそうです。

日本の良さ(地救原理)を広め、世界を「タタミゼ(畳化)」せよ

だから私が言っていること、つまり「タタミゼが世界を救う」というようなこと新たな目標にすればよいのです。私の言う「地救原理」です。(中略)

たとえば日本語の先生。これまでは実は他のことしたいけれど他にいい仕事もないし日本語でも教えるかというようなデモシカ先生がたくさんいたかもしれませんが、世界を救うため日本語を教え、広めるのだという意識に立てば大きく変わってくるはず。

これからは日本の一番優秀な若い人たちが世界を救うために日本語をひっさげて、日本語を世界中に広めれば、日本語の中に隠されているすばらしい感性的なもの、できるだけ対立を避けカドを立てないようにする文化が世界に広まるでしょう。

私は今、本気でまじめに日本は自分たちの生きている感じ方、あり方を世界の人たちに広めなきゃいけないと考えています。

世界をタタミゼしていって、みんながどこでも「まあまあ、そんなこと言わないで」というふうに自分を抑えることができるようになったら世界がどうなるか、考えてみてください。(76頁)

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<註>> 私が京都大学で開かれた「日本フランス語教育学会主催の国際シンポジウム」に招かれて発言した後、懇親会がおこなわれましたが、それはフランス大使館から全面的な後援を受けていて非常に驚きました。しかし考えてみれば世界中に拡大する英語と対抗するには、それくらいの政府援助が必要なのでしょう。

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要するに鈴木先生の見解に従えば、「英語ディベート」などというのは、、たとえば外交官のように世界と渡り合うべき日本の「防人さきもり」たち、あるいは皆の先頭に立って日本を引っ張っていく立場の人だけがその技術を磨けばよいのです。

鈴木先生はそれを、この「防人」集団とは、「日本人の中でも風変わりな変な奴、私みたいな奴」「相手をいじめることを無上の喜びみたいに感じる連中」とも述べておられます(105頁)。つまり、すべての日本人が「防人」集団になってしまったら「日本人の良さ」が死んでしまうと言われているのです。

ところが現在の外交官は「国益を守るためアメリカと論争するのではなく、ひたすらアメリカに従う道をさぐるのを仕事とするようになってしまった」と、元外交官=元防衛大学教授が嘆かざるをえないのが、日本の現状なのです(孫崎享『戦後史の正体』)。

そして更にいま政府・自民党は、何を血迷ったのか、日本語や日本文化を広めるのとは逆に、「アメリカへの留学試験であるTOEFLを日本の大学入試に採用せよ」と叫び出す始末です。日本人全員を「受験型の攻撃性人間」に仕立てたいのでしょうか。

もっと悪いことには、今の政府・自民党は、「タタミゼ」の象徴とも言うべき憲法9条を世界に広めるどころか、それとは逆に、「日本を普通の国にしよう」と言って原発の輸出、核兵器の保有の方向へとまっしぐらです。これでどうして日本が、そして地球が救われるのでしょうか。(完)

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<註> ところで「英語ディベート」の偽善性は、上意下達が貫徹していて教師が職員会議で自由に発言し論争できない職場環境で、英語の時間だけ「ディベート」が称揚されているところに、象徴的に表れています。この点については拙著『英語教育が亡びるとき』で詳しく論じたので、ここでは割愛させていただきました。
 また前回のブログでは <ですから、「英語で授業」をすると「人間が変わった」(『STEP英語情報』2013年3・4月号、12頁)などと手放しで喜んではいられない事態なのです。そのことも次回ではふれるつもりです> と書きましたが、もう十分に長くなってきましたので、これについては、この書評とは切り離して別の場で論じたいと思います。。

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グアテマラ、ついに大量虐殺の独裁者にたいして有罪判決!!
 



[緊急情報] アメリカが支援したグアテマラ先住民大虐殺(ジェノサイド)、独裁者エフライン・リオス・モントにたいして歴史的判決!!

US-backed Guatemalan former dictator gets life for genocide
http://rt.com/search/everywhere/term/Guatemala+genocide/ (11.05.2013)

グアテマラの独裁者エフライン・リオス・モントの歴史的裁判の判決がついに出されました。大虐殺の罪で裁判を受ける国家元首は米州では彼が初めてです。彼は、1982年の権力掌握以降、グアテマラの先住民(マヤ人)地域で1700人以上の殺害を指揮しました。しかしこれは確認された人数のみで実際は数万から数十万にも昇ると言われています。

リオス・モントが有罪ならば、次の問いは、「では現グアテマラ大統領ペレス・モリナはどうなのか」「さらにはこの大虐殺を支援するために武器や資金や爆弾、銃弾や政治的支持を与えたアメリカの指導者たち(とりわけ元大統領レーガン)やアメリカに頼まれて武器を送ったイスラエルの罪はどうか」ということになってきます。

この裁判が「画期的判決」「歴史的判決」と言われる理由がここにあります。

また、この判決をアメリカに当てはめてみると、罪に問われるのは単に当時の大統領レーガンだけでなく、現在のアメリカにも及んできます。たとえば嘘をついてイラクに侵攻し百万人にもおよぶ死者を出している元大統領ブッシュの裁きはどうなるのか、中東一円で無人機による殺戮をくりひろげているオバマ氏の罪はどうか、という問題にも発展してきます。だからアメリカはこの裁判を執拗に妨害し続けてきました。

(ここでもシリアやリビアに民主主義を説いて回るアメリカの偽善性は歴然としています)

この判決が出るまでに30年もおよぶ先住民の粘り強い闘いが必要だった理由がここにあります。このなかで多くの先住民や活動家が暗殺されました。また、この裁判も公然たる暗殺予告のなかで続けられてきましたが、その脅迫にもかかわらず判事(しかも女性!)が決然と審議を続行した勇気も特筆されるべきでしょう。当日の判決も判事は防弾チョッキを身につけ多くの護衛に守られながら法廷を出入りしました。

なおアメリカが中南米でくりひろげた虐殺の一つは映画『はるかなるエルサルバドル』でも知ることができますが、グアテマラの身もよだつような先住民虐殺のようすは、欧米の記者として当時初めて現地入りし綿密な調査を続けたアラン・ネアンにたいする下記のインタビュー記事でも詳しく知ることができます。

'Exclusive: Allan Nairn Exposes Role of U.S. and New Guatemalan President in Indigenous Massacres'
http://www.democracynow.org/2013/4/19/exclusive_allan_nairn_exposes_role_of

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