英語教師に求められているもの― 何よりもまず日本語を「読む力」と「書く力」こそ!

英語教育(2014/07/31)

『英語教育が亡びるとき』66049_mid  『チョムスキーの教育論』
 

 イスラエルによるガザへの爆撃・進撃が世界的な怒りを呼び起こしている反面、ウクライナ政府による東部住民への爆撃は相変わらず無視されたままです。
 どちらも学校や病院や一般住宅などを砲撃し、子ども・老人・障害者などを含む一般市民に甚大な死傷者を産みだしているのですから、明らかな戦争犯罪です。
 これは、CIAなどの情報機関でさえマレーシア航空機の撃墜にロシアが関与した証拠はないと言っているにもかかわらず、オバマ政権がさらなる経済制裁に乗りだしていることに、ウクライナ政府が励まされているからに他なりません。それにEUもしぶしぶ同調せざるを得なくなっています。
「アメリカ諜報機関: ロシアがやったという証拠は皆無」(「マスコミに載らない海外記事」20140724)
 撃墜は「ウクライナ政府がやったのではないか」という間接的な証拠としては、マレーシア航空機の撃墜を調査するために国際的な調査団が現地に入ってきているにもかかわらず 、そして調査の間だけでも停戦してほしいとの呼びかけがあるにもかかわらず、ウクライナ政府軍が現地周辺への爆撃をやめようしない状況があります。
 これでは、これから現地入りしようとしている調査団が入れません。中立的で厳正な調査をおこなうためには、調査期間だけでも停戦しなければならないはずですが、その要求を拒否しているのはウクライナ政府だけです。これでは証拠隠しと思われても仕方がないでしょう。


 ところで、ここでいきなり話は飛びます。先日(7月29日)新潮社『新潮45』編集部からのインタビューがありました。
 安倍内閣の教育再生実行会議および文科省が、日本の経済力を強化するため日本人に英語力をつけることが不可欠だとして、「英語で授業」を高校の英語授業だけでなく大学の一般教育の授業にまで拡大しようとしていることについて、です。
 下記の朝日新聞のインタビュー記事を読み、「深く感銘した次第です」「つきましては、もう少し詳しくお話をお聞きしたい」とのことでした。
 この編集部の方からのインタビューに答えているうちに、拙著『英語教育が亡びるとき』にたいする次の書評を思い出していました。かつてインド在住の日本人女性作家モハンティ三智江氏からいただいたものです。

<まず、以前に『チョムスキーの教育論』を読ませていただいたときにも感じたことですが、先生がお書きになっている日本語が素晴らしいこと、私にとっては異質のジャンルで、ご高著は、EH研究会とのご縁がなければ、紐解くことは断じてありえなかった種類の書ですが、一見して難しく思えることがわかりやすい的確な日本語で書かれており、文芸物が好きな私にもすんなり入り込めること、ブログをお読みしたときにも感じたことですが、先生の日本語は、第一級との印象を新たにいたしました。
 英語教育というご専門を究められていくなかで、ことばを操る者としての責任に目覚められ、翻訳にあたっても、ご自分で書かれるにあたっても、的確かつわかりやすい説明・描写を心がけている努力が感ぜられます。
 英語の前に母国語をまず究めることの大切さが書かれていますが、そのお手本のような日本語で、門外漢の私が惹かれるのはひとえにその表現としての母語の流暢さです。読ませる筆力をもってらっしゃるがゆえに、英語教育の話も、興味深いトピックとしてすんなり入ってくるのです。>


<註> 朝日新聞インタビューについては下記を御覧ください。 
朝日新聞「争論」―大学生は英語で学べ?「深い思考奪い、想像の芽摘む」(2014/07/03)


 私は、モハンティ三智江さまからいただいた書評にたいして、次のようなコメントを付けて、私のブログに掲載させていただきました。

< しかし、「一見して難しく思えることがわかりやすい的確な日本語で書かれており」「文芸物が好きな私にもすんなり入り込める」文章を難しく感じる英語教師が多いとすれば、これは非常に深刻な事態だと思います。
 これでは行間を「ふくらませて」味読せねばならぬ文学作品は、手も足も出ないのではないでしょうか。
 しかも、母語の水準を越える外国語能力を身に付けることは、まず不可能ですから、母語の読解力(そして母語の表現力)が低ければ外国語の到達レベルもその程度で頭打ちになります。
 ところが文科省は、英語教師の国語力がどの程度のものかも調べずに、いきなり「英語で授業」を英語教師に要求しています。これでは、英語教育の未来は暗いと言わざるを得ません。私が「英語教育が亡びるとき」と言うゆえんです。
 三智江さまのメールに触発されて、次々と書きたいことが浮かんできたのですが、次回に回したいと思います。>

そこで、上記のコメントで言い足りなかったこと、もっと書きたかったことを、以下で追加したいと思います。


私は上記で次のように書きました。再度、引用します。

< しかし、「一見して難しく思えることがわかりやすい的確な日本語で書かれており」「文芸物が好きな私にもすんなり入り込める」文章を難しく感じる英語教師が多いとすれば、これは非常に深刻な事態だと思います。これでは行間を「ふくらませて」味読せねばならぬ文学作品は、手も足も出ないのではないでしょうか。>

 国語教育の実践的研究者=大西忠治氏は、教材として取りあげる文章を大きく「説明的文章」と「文学作品」の二つに分け、生徒に教えなければならないのは、前者では「しぼって読む」、後者では「ふくらませて読む」ことであると主張しました。
 私が小学校から高校までに教わった国語教育で印象に残っていることと言えば、漢字学習くらいで、あとは何も残っていません。ですから、この大西氏の実践と研究は私に大きな衝撃を与えました。
 他方、理科教育「仮説実験授業」で有名な板倉聖宣氏は、「説明文は、他者にたいして何かを説明している文なのだから、論理的に明晰で誰にでも理解できる簡潔明瞭なものでなければならない」と主張しています。
 ふだん英語教師が読んだり書いたりする文は「文学作品」ではなく「説明的文章」です。拙著『英語教育原論』『英語教育が亡びるとき』も文学作品ではなく、私の主張する英語教育論を説明するためのものですから、これも「説明的文章」です。
 ですから、私が『原論』や『亡びるとき』を書いたとき常に念頭にあったのは、板倉氏の主張する「論理的に明晰で、誰にでも理解できる簡潔明瞭な文章を書く」ということでした。そのときに大いに参考になったのが本多勝一『日本語の作文技術』でした。
 この本は、単文レベルですが、句読点をどこに打つと理解しやすい文になるか、修飾する語句をどこに位置させれば誤解をうまない文になるかなどが具体例をつうじて丁寧に説明されていて、非常に教えられることの多い本でした。


 ところで私が「論理的で明晰な文章」を強調したもう一つの理由は、「論理性に乏しく明晰さを欠く日本語」を書く英語教師が少なくないことに驚かされたことにあります。
 私が教育学部に在職していた頃、毎年のように現職教員を大学院生として受け入れてきました。しかし受け入れてみて驚いたのは、Excelなどを使ってシラバスや授業計画を書いたことはあっても、ワープロを使ってきちんとした文章を書いたことがない教員が少なくないことでした。
 ひどい場合には、自分の思考を論理的に展開できず、単文の羅列といった感じの文章しか書けません。段落と段落をつなぐ論理的接続節どころか単文と単文をつなぐ論理的接続語も欠けているので、どうしても単文の羅列という印象になります。メモ書きのような文章と言ったほうがよいかも知れません。
 訓練すれば一定の分量は書けるようになりますが、自分の実践報告を書かせても、授業でどの教材をどのように使い、それにたいして生徒がどのように反応したのか、それにたいして教師はどう答えたのかが分かるように書かれていないので、うまくいかない授業のどこをどう改めて良いのかを指導できないのです。
 要するに、時間軸に沿って説明的文章を書く、あるいは空間軸に沿って説明的文章を書く、[さらには実践報告ですから生徒のようすも固有名詞(仮名でよい)で書く] といったことに慣れていないので、実践報告を読んでいても授業のようす、生徒の声と姿が私の頭に生き生きと伝わってこないのです。
 日本語を使っても授業のようすを私に分かりやすく説明できないのですから、どうして英語で生徒に分かりやすい授業ができるのでしょうか。英語どころか日本語で説明したとしても生徒に分かる授業になっているのか、それすら疑問です。
 少なくとも私は、生徒よりも理解力は優れていると思っていますが、その私に理解できないことばでしか授業のようすを説明できないとしたら、そのような教師の説明をどうして生徒は理解できるのでしょうか。
 また、そのような日本語力しか持たない英語教師が、いわゆる「日常会話の英語」[すなわち生活言語]を多少は話せたとしても、内容のある教科書を、生徒が理解できる「論理的で明晰な英語」[すなわち学習言語]を使って、どうして説明ができるのでしょうか。
 最近は携帯メールが盛んですから、生徒が単文の羅列、メモ書き風の文章しか書けないというのは納得できるのですが、教師もメモ書き風の文章しか書けないとなれば、ことは深刻です。そのような文章しか書けない教師の思考が、深いものであったり論理的・批判的・創造的であることは、期待しようもないからです。


 もうひとつここでどうしても書いておきたいことは、翻訳とその日本語についてです。これについて三智江さまから下記のような過分なお褒めの言葉をいただきました。

<まず以前に『チョムスキーの教育論』を読ませていただいたときにも感じたことですが、先生がお書きになっている日本語が素晴らしいこと(中略)ブログをお読みしたときにも感じたことですが、先生の日本語は、第一級との印象を新たにいたしました。
 英語教育というご専門を究められていくなかで、ことばを操る者としての責任に目覚められ、翻訳にあたっても、ご自分で書かれるにあたっても、的確かつわかりやすい説明・描写を心がけておられる努力が感ぜられます。
 英語の前に母国語をまず究めることの大切さが書かれていますが、そのお手本のような日本語で、門外漢の私が惹かれるのはひとえにその表現としての母語の流暢さです。読ませる筆力をもってらっしゃるがゆえに、英語教育の話も、興味深いトピックとしてすんなり入ってくるのです。>

 私が翻訳するにあたって心がけていることを、数々の文学賞を受賞されている三智江さまからズバリ指摘していただき、まさに「我が意を得たり」の感を強くすると同時に非常に面はゆくもありました。
 この翻訳の日本語について最近、私は二つのことを思うようになりました。そのひとつは高名な作家が外国の文学作品を翻訳する場合は別でしょうが、哲学や社会科学の翻訳書の場合、その日本語が非常に読みづらいということです。読みづらいどころか意味不明のものすらあります。
 たとえば私が学生だった頃、教養学科でルカーチ『歴史と階級意識』(城塚登・古田光共訳 白水社 1975)をテキストに使った授業に出たことがあります。しかし私にはその翻訳を読んでいても意味が理解できないのです。当時の私は、哲学というのは難解で私のような鈍才には理解できない代物だという意識だけが残りました。
 しかし今から振り返ってみると、和訳が直訳調で、しかも新旧の情報の流れを全く無視した翻訳ですから、前文と後文のつながりが論理的につながらない文章になっていたのです。ですから、翻訳された日本語の文章どおりに理解しようとしても論理的つながりません。ですから読んで意味が通らなかったのも無理はなかったのです。


 もうひとつ例をあげます。私がノーム・チョムスキー『チョムスキーの教育論』やハワード・ジン『肉声でつづる民衆のアメリカ史』を翻訳したとき、分からない事項があるとき、しばしばウィキペディアを利用しました。
 しかし、このウィキペディアの日本語が非常に理解しづらいものであったり、内容的にも貧弱すぎて,結局は英語版ウィキペディアを参照せざるを得なくなることが少なくありませんでした。
 そして分かったことは、日本語版ウィキペディアの多くは英語版の事項を単に翻訳しただけのものが圧倒的に多いということでした。しかも、その翻訳は英語版を適当につまみ食いして翻訳してあるので、文章として論理的につながっていなくて時には理解不能になるということです。
 翻訳の日本語が分かりにくいのは、私見では二つの理由があるように思います。一つは論理的で明晰な文章を書く訓練を学校時代にほとんど受けていないことです。このような訓練を受けていれば自分の和訳も読者に理解しやすい日本語にしようと努力するはずですが、そんな訓練を受けていないので自分の訳文が気にならないのです。
 もう一つは原文の意味がよく分からないので、仕方なく、意味不明のまま直訳調の日本語にしてごまかす場合です。文章の論理的な流れが分からなくても、単語の意味を調べ文法構造のとおりに関係代名詞で修飾された文章は後から訳しあげていけば一応の訳文はできあがるわけですから。
 要するに私がここで言いたかったことは、「日本の英語教育は読めるが話せない人間を大量生産している」というのが、いかに俗説であり間違った認識かということです。そして「話せる日本人」を育成するという理由で始められたのが新高等学校学習指導要領の「英語で授業」でした。
 しかし最近のTOEICの調査でも、日本人は「聴解力」よりも「読解力」の方が点数が低いのです。であるにもかかわらず、文科省は、高校の英語授業だけでなく、大学の共通教育の授業まで「英語でおこなう」と言い始めています。高度な文章を直読直解する力が育っていないのに、どうして直聴直解が可能になるのでしょうか。
 三智江さまが拙著『英語教育が亡びるとき』の書評で次のように書かれていたことが改めて思い起こされます。
<日本語にしろ、英語にしろ、読むことは大事ですね。量を読むことによって、語彙が培われる。英語の読み書きをしっかりしておけば、自然に会話力もついてくる、その通りだと思います。>

 こう考えてくると、安倍内閣が次から次へと打ち出す教育政策は、真面目に考える教師にとっては頭がおかしくなりそうなものばかりです。これでは教育現場でうつ病の教師が激増しているのも無理はないでしょう。教師が次々と病気休職に追い込まれているのも当然ではないかと思えてきます。
教師の「うつ病休職」急増中 - 薬事ニュース社 (2014年1月31日)




関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

検索フォーム
プロフィール

狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

Author:狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

リンク
最新記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
RSSリンクの表示
QRコード
QR