英語教師に求められているもの(2)― 「英語を読む力」以前に「日本語を読む力」を!
英語教育(2014/07/31)
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パレスチナのガザ地区にたいする残忍な攻撃は最近やっと世界の注目をあびるようになりましたが、相変わらず東ウクライナにたいする残酷な爆撃には、何の注目も払われていません。
見るに見かねてロシア政府が、トラック300台にも及ぶ人道援助物資を用意して、国際赤十字に「軍事物資かどうか点検してくれ」と要望していても、それすら拒否されていることを大手メディアは全く報道しようとしません。
それどころか水も食料も電気も医薬品も断ち切られた住民(ルガンスク市だけでも25万人が政府軍に包囲されて脱出することさえできません)に、ロシアが人道援助しようとすると、「それを口実にウクライナへ介入しようとしている」と非難する始末です。
この2週間で死者が2000人をこえているのですが、キエフ政府の「ロシア人を絶滅しろ」という「民族浄化」政策に欧米の大手メディアも同調しているのは、本当に信じがたいことです。
チョムスキーは、イスラエルの蛮行はアメリカの軍事的資金的援助なしには不可能なのだからオバマ大統領が「ゲームは終わった」と言いさえすればガザの惨事は終わる、と言っています。同じことは東ウクライナについても言えるのですが、これについては別の機会に詳論したいと思います。
Noam Chomsky on Media's "Shameful Moment" in Gaza & How a U.S. Shift Could End the Occupation
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さて今日の本題に移ります。前回に引き続き、「英語教師に求められているもの」について述べたいと思います。というのは、朝日新聞「争論」―大学生は英語で学べ?「深い思考奪い、想像の芽摘む」(2014/07/03)を読んだ英語教師から、下記のようなメールが届いたからです。
<私が所属している県の英語研究会で話されたことです。O高校では職員室に掲示されていたそうです。1人の先生が、寺島先生の意見の方に賛成すると発言すると、次のような発言がありました。大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている。理由は院生の(人数を聞くのは忘れました。)多くが留学生のため、日本語での授業が成り立たないからだそうです。先生は日本人です。なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がないという雰囲気になってしまいました。院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか、等といったことに関心が移って、それについての問題になりました。ただ日本人学生は日常で英語が使えるわけではないようでした。私も、よくわからなくなりました。その現実をどう考えればよいのか。>
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前回のブログでは英語教師の「書く力」を問題にしたのですが、私はこのメールを読んで、この研究会に集っていた英語教師は、英語以前に日本語を「読む力」があるのかと思ったのです。
上のメールによれば、そこに集っていた人たちは、「大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている」「なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がない」という意見が大多数だったそうです。
そして話題は「院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか」ということに移ってしまったというのです。
これを読んで私は深刻に考え込んでしまいました。というのは、ここには「日本語をよむ力」だけでなく、「教師の品性」が問われているような気がしたからです。
もちろん「院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか」という問題は、それだけでも考察するに価する多くの問題をはらんでいます。しかし私が今ここで問題にしたいのは、「英語で授業」はすでに強行されているから議論する価値はないとする教師の姿勢です。
これでは「権力者が力にものを言わせて強行したことに逆らっても意味はない」ということになりかねないからです。今の教育現場では校長が絶対的権力をもち、職員会議で議論しながらものごとを決めていくという民主主義の原則がほとんど風化してしまっているので、それが上記のような言動になって現れているのかも知れません。
教師自身が「権力者が力にものを言わせて強行したことに逆らっても意味はない」という態度を身につけてしまったら、「みんなで決めて、みんなで守る」という民主主義の原則を、どうして生徒に教えてやることができるのでしょうか。どうして生徒に「ものごとを批判的に見る力」「文章を批判的に読む力」を育てることができるのでしょうか。
また、このような力を抜きして、「誰も思いつかないようなアイデア」は生まれようがないし、「豊かな発想を生む創造力」も育たないでしょう。このような力を抜きにして、競争が激化している世界を生き抜いていく力をどうして生徒に育てることができるのでしょうか。
私は上記インタビューを次のように始めて、次のように結びました。
<競争が激化する世界を日本はどうやって生き抜いていくか。 いま一番求められているのが、誰も思いつかないようなアイデア、豊かな発想を生む創造力だと思うんです。それには幅広い視野と、深く考え抜く力が必要ですね。 ところが最近の英語熱は、そのすべての芽を演しかねない。大学を劣化させ、日本を支える研究の礎を壊してしまいかねません。
(中略)
人間には与えられた時間に限りがあります。まずは考える力、そして疑問をもつ力を育てることにこそ大切な時間を使いたいものです。>
先の研究会に集っていた英語の先生方には、「院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか」という疑問は浮かんだのですが、「留学生はなぜ日本語を学ばなくてもよいのか」「英語のできない日本人は留学生の犠牲になってよいのか」という疑問は浮かばなかったようなのです。
というのは、日本人がアメリカに留学したからといって向こうでは日本語で講義してくれることはありません。それどころかTOEFLの点数を問われるだけです。また留学生がせっかく日本に来ているのに、日本語を学ばせず(ということは日本文化も本当には知ることができない)そのまま帰国させて、私たちのどんな利益があるのか。
そのうえ留学生の多くは国からの奨学金をもらい授業料も免除になっていることが珍しくありません。だとすれば奨学金も貰わず授業料も免除になっていない日本人院生がなぜ留学生の犠牲にならなければならないのか。大学院というのは英語ができる外国人留学生のためだけに存在するのか。
このように疑問は尽きることがありません。しかし、私が朝日新聞のインタビューで問題にしたのは、実は大学院のことではありませんでした。それは私がこのインタビューで次のように言っていることからも明らかでしょう。
<ところが、大学1、2年の教養課程から英語で授業を始めたら、幅広い分野を学ぶわけですから単語もあらゆる領域に及ぶ。語彙は無限です。覚えても覚えてもキリがない、底なし沼ですよ>
つまり私がここで言っているのは、大学院の授業ではなく大学に入学したての教養課程から数学や工学や経済学などを英語で学ぶ場合の、学生の負担や学習効率を問題にしているのです。
教養課程では自然科学・人文科学・社会科学を学ぶのですから、それをすべて英語で学んでいたら、辞書を繰っているだけで時間の大半が奪われてしまって、何を学んだかを考えるゆとりもなく、まして疑問をつくり出すことは二の次になっていくでしょう。
大学というところは、自分の知りたいことが何かを発見する場であり、学び方を学ぶ場でもあると思うのです。そのためには日本語であらゆる分野のものを読み尽くし、自分の知りたいことを疑問のかたちでつくり出すことが必要です。
したがっておおまかに理科とか文科とかに分かれていてもよいのですが、教養課程から狭い専門分野が決まっているのはむしろ好ましいとは思えません。貪欲にいろいろな本を読み、自分の知りたいことが絞られてきて、専門課程に入っていくのが理想的でしょう。私の場合も教養学部基礎科学科に行くつもりで理科2類に入ったのですが、いろいろ本を読んでいくうちに教養学科の「科学史科学哲学コース」に行きたくなったのでした。
このようにいろいろな本を読んでいくうちに進路はどんどん変わってきます。したがって学部での専攻と大学院の専攻が違うことも珍しくありません。いずれにしても、「自分の知りたいことに関する答えを求めて日本の文献や翻訳の文献を読み尽くし、探していたらやっと英語の文献にぶつかった」という出会いの仕方が、原書を読む場合もっとも効率的だと思うのです。それを私はインタビューで次のように言っています。
<私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。そうやって自らの関心を研ぎ澄ませていけば、専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになるのです。>
だから英語を研究の武器として使いたいのであれば大学院、とくに博士課程でこそ生きてくるでしょう。修士課程で学ぶ程度のことは、翻訳書も含めて優れた文献がたくさんありますから、日本語の文献で十分に手に入るからです。ですから博士課程で本格的にやりたいことが決まったときこそ英語(あるいは他の外国語)の出番なのです。
というのは、調べたいことが日本語文献になくても、「専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになる」のです。自分の知りたいことが焦点を結ばないとき、しかも関連分野の文献が日本語で手に入るときは、そちらをまず読み尽くすことが先決でしょう。
自分の研究したいことが焦点を結ばないにもかかわらず、それを求めて英語の文献を読みあさっていたら、貴重な時間を浪費することになりかねません。1冊の原書を読むのに1ヶ月かかるかも知れませんが、同じことを書いている同種の本があれば5~10冊は読めるのです。それを私はインタビューで次のように表現しています。
<しかも英語で1冊の本を読む時間があれは、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです。英語の本をやっとこさ1冊読む間に、英米人なら5冊、10冊と読むわけですから永遠に追いつけない。それで勝てると思いますか。iPS細胞を開発した京都大学の山中伸弥教授も、いまのように若いうちから英語、英語と追われていたら、たぶんノーベル賞をとれなかったのではありませんか。>
まして知りたいことは英語で書かれているとは限らないのです。ですから、このブログ冒頭で紹介した英語の先生方は、「英語の教師」であるより前に「人間の教師」であることを忘れているのではないでしょうか。
だから彼らは、私が今まで述べてきたような単純なことが読み取れず、「大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている」「なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がない」となってしまったのではないかと思うのです。
文科省の「新高等学校学習指導要領」は「英語で授業」を高校に押しつけたことで非常に悪名高い指導要領ですが、それでも「文章を正しく要約できること」「文章の要旨を正しくとらえること」を、その到達目標として掲げています。ですが英語教育の現場では「いかに英語で授業をおこなうか」だけが評価の重点になっています。
つまり教科書に出てきたフレーズやセンテンスを使っていかに会話ごっこをさせるかだけに精力と関心が注がれているのです。これでは教師自身の「読みの力」は永遠に鍛えられないでしょう。なぜなら彼らの多くは英検やTOEFL、TOEICなどの点数学力だけをあげることに全精力を使いながら英語教師になっているからです。
私が「英語で授業」に強く反対した理由の一つは、このようなことを指導要領で教師に強制している限り、英語教師の頭から、「文章を正しく要約できること」「文章の要旨を正しくとらえる」という目標が消えてしまうことを恐れたからでした。ましてや「文章を批判的に読む」という目標は最初から頭に浮かんでこないのではないかと思います。
そして私のこの「恐れ」は不幸なことに今や現実のものとなりつつあるようです。冒頭で紹介したメールが私にそのことを教えてくれました。何しろ研究会に集って議論した英語教師たちには、インタビューで述べた私の次のことばが、まったく頭に残っていないように見えるからです。実に暗澹たる思いです。
<いまのような丸暗記型の英語教育は、若者の創造力をすり減らすばかり。受験戦争をくぐり、ようやくいろんな本が読めるという時期に英語漬けの毎日を強いていては、「英語バカ」を育てるだけです。文学も経済も科学もかじり、オールラウンドな教養を身につけて初めて、全体を見渡した仕事ができるというものです。
もちろん、才能あふれる学生が英語もできればすばらしい。英語を母語とする相手と議論し、交渉できる人材を育てる必要も間違いなくあります。しかし、様々な可能性に満ちた大学生全員を、一律に英語漬けにする必要はどこにもない。世界を複眼的に見る力が国際力なのに、英米人のものの見方を刷り込む英語教育なら悪い影響を残すだけです。>
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<註> 朝日新聞インタビューの全体像については下記を御覧ください。
「争論」大学生は英語で学べ―「深い思考奪い、想像の芽摘む」(2014/07/03)
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パレスチナのガザ地区にたいする残忍な攻撃は最近やっと世界の注目をあびるようになりましたが、相変わらず東ウクライナにたいする残酷な爆撃には、何の注目も払われていません。
見るに見かねてロシア政府が、トラック300台にも及ぶ人道援助物資を用意して、国際赤十字に「軍事物資かどうか点検してくれ」と要望していても、それすら拒否されていることを大手メディアは全く報道しようとしません。
それどころか水も食料も電気も医薬品も断ち切られた住民(ルガンスク市だけでも25万人が政府軍に包囲されて脱出することさえできません)に、ロシアが人道援助しようとすると、「それを口実にウクライナへ介入しようとしている」と非難する始末です。
この2週間で死者が2000人をこえているのですが、キエフ政府の「ロシア人を絶滅しろ」という「民族浄化」政策に欧米の大手メディアも同調しているのは、本当に信じがたいことです。
チョムスキーは、イスラエルの蛮行はアメリカの軍事的資金的援助なしには不可能なのだからオバマ大統領が「ゲームは終わった」と言いさえすればガザの惨事は終わる、と言っています。同じことは東ウクライナについても言えるのですが、これについては別の機会に詳論したいと思います。
Noam Chomsky on Media's "Shameful Moment" in Gaza & How a U.S. Shift Could End the Occupation
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さて今日の本題に移ります。前回に引き続き、「英語教師に求められているもの」について述べたいと思います。というのは、朝日新聞「争論」―大学生は英語で学べ?「深い思考奪い、想像の芽摘む」(2014/07/03)を読んだ英語教師から、下記のようなメールが届いたからです。
<私が所属している県の英語研究会で話されたことです。O高校では職員室に掲示されていたそうです。1人の先生が、寺島先生の意見の方に賛成すると発言すると、次のような発言がありました。大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている。理由は院生の(人数を聞くのは忘れました。)多くが留学生のため、日本語での授業が成り立たないからだそうです。先生は日本人です。なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がないという雰囲気になってしまいました。院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか、等といったことに関心が移って、それについての問題になりました。ただ日本人学生は日常で英語が使えるわけではないようでした。私も、よくわからなくなりました。その現実をどう考えればよいのか。>
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前回のブログでは英語教師の「書く力」を問題にしたのですが、私はこのメールを読んで、この研究会に集っていた英語教師は、英語以前に日本語を「読む力」があるのかと思ったのです。
上のメールによれば、そこに集っていた人たちは、「大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている」「なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がない」という意見が大多数だったそうです。
そして話題は「院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか」ということに移ってしまったというのです。
これを読んで私は深刻に考え込んでしまいました。というのは、ここには「日本語をよむ力」だけでなく、「教師の品性」が問われているような気がしたからです。
もちろん「院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか」という問題は、それだけでも考察するに価する多くの問題をはらんでいます。しかし私が今ここで問題にしたいのは、「英語で授業」はすでに強行されているから議論する価値はないとする教師の姿勢です。
これでは「権力者が力にものを言わせて強行したことに逆らっても意味はない」ということになりかねないからです。今の教育現場では校長が絶対的権力をもち、職員会議で議論しながらものごとを決めていくという民主主義の原則がほとんど風化してしまっているので、それが上記のような言動になって現れているのかも知れません。
教師自身が「権力者が力にものを言わせて強行したことに逆らっても意味はない」という態度を身につけてしまったら、「みんなで決めて、みんなで守る」という民主主義の原則を、どうして生徒に教えてやることができるのでしょうか。どうして生徒に「ものごとを批判的に見る力」「文章を批判的に読む力」を育てることができるのでしょうか。
また、このような力を抜きして、「誰も思いつかないようなアイデア」は生まれようがないし、「豊かな発想を生む創造力」も育たないでしょう。このような力を抜きにして、競争が激化している世界を生き抜いていく力をどうして生徒に育てることができるのでしょうか。
私は上記インタビューを次のように始めて、次のように結びました。
<競争が激化する世界を日本はどうやって生き抜いていくか。 いま一番求められているのが、誰も思いつかないようなアイデア、豊かな発想を生む創造力だと思うんです。それには幅広い視野と、深く考え抜く力が必要ですね。 ところが最近の英語熱は、そのすべての芽を演しかねない。大学を劣化させ、日本を支える研究の礎を壊してしまいかねません。
(中略)
人間には与えられた時間に限りがあります。まずは考える力、そして疑問をもつ力を育てることにこそ大切な時間を使いたいものです。>
先の研究会に集っていた英語の先生方には、「院生は何故、日本人よりも留学生の方が多いのか」という疑問は浮かんだのですが、「留学生はなぜ日本語を学ばなくてもよいのか」「英語のできない日本人は留学生の犠牲になってよいのか」という疑問は浮かばなかったようなのです。
というのは、日本人がアメリカに留学したからといって向こうでは日本語で講義してくれることはありません。それどころかTOEFLの点数を問われるだけです。また留学生がせっかく日本に来ているのに、日本語を学ばせず(ということは日本文化も本当には知ることができない)そのまま帰国させて、私たちのどんな利益があるのか。
そのうえ留学生の多くは国からの奨学金をもらい授業料も免除になっていることが珍しくありません。だとすれば奨学金も貰わず授業料も免除になっていない日本人院生がなぜ留学生の犠牲にならなければならないのか。大学院というのは英語ができる外国人留学生のためだけに存在するのか。
このように疑問は尽きることがありません。しかし、私が朝日新聞のインタビューで問題にしたのは、実は大学院のことではありませんでした。それは私がこのインタビューで次のように言っていることからも明らかでしょう。
<ところが、大学1、2年の教養課程から英語で授業を始めたら、幅広い分野を学ぶわけですから単語もあらゆる領域に及ぶ。語彙は無限です。覚えても覚えてもキリがない、底なし沼ですよ>
つまり私がここで言っているのは、大学院の授業ではなく大学に入学したての教養課程から数学や工学や経済学などを英語で学ぶ場合の、学生の負担や学習効率を問題にしているのです。
教養課程では自然科学・人文科学・社会科学を学ぶのですから、それをすべて英語で学んでいたら、辞書を繰っているだけで時間の大半が奪われてしまって、何を学んだかを考えるゆとりもなく、まして疑問をつくり出すことは二の次になっていくでしょう。
大学というところは、自分の知りたいことが何かを発見する場であり、学び方を学ぶ場でもあると思うのです。そのためには日本語であらゆる分野のものを読み尽くし、自分の知りたいことを疑問のかたちでつくり出すことが必要です。
したがっておおまかに理科とか文科とかに分かれていてもよいのですが、教養課程から狭い専門分野が決まっているのはむしろ好ましいとは思えません。貪欲にいろいろな本を読み、自分の知りたいことが絞られてきて、専門課程に入っていくのが理想的でしょう。私の場合も教養学部基礎科学科に行くつもりで理科2類に入ったのですが、いろいろ本を読んでいくうちに教養学科の「科学史科学哲学コース」に行きたくなったのでした。
このようにいろいろな本を読んでいくうちに進路はどんどん変わってきます。したがって学部での専攻と大学院の専攻が違うことも珍しくありません。いずれにしても、「自分の知りたいことに関する答えを求めて日本の文献や翻訳の文献を読み尽くし、探していたらやっと英語の文献にぶつかった」という出会いの仕方が、原書を読む場合もっとも効率的だと思うのです。それを私はインタビューで次のように言っています。
<私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。そうやって自らの関心を研ぎ澄ませていけば、専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになるのです。>
だから英語を研究の武器として使いたいのであれば大学院、とくに博士課程でこそ生きてくるでしょう。修士課程で学ぶ程度のことは、翻訳書も含めて優れた文献がたくさんありますから、日本語の文献で十分に手に入るからです。ですから博士課程で本格的にやりたいことが決まったときこそ英語(あるいは他の外国語)の出番なのです。
というのは、調べたいことが日本語文献になくても、「専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになる」のです。自分の知りたいことが焦点を結ばないとき、しかも関連分野の文献が日本語で手に入るときは、そちらをまず読み尽くすことが先決でしょう。
自分の研究したいことが焦点を結ばないにもかかわらず、それを求めて英語の文献を読みあさっていたら、貴重な時間を浪費することになりかねません。1冊の原書を読むのに1ヶ月かかるかも知れませんが、同じことを書いている同種の本があれば5~10冊は読めるのです。それを私はインタビューで次のように表現しています。
<しかも英語で1冊の本を読む時間があれは、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです。英語の本をやっとこさ1冊読む間に、英米人なら5冊、10冊と読むわけですから永遠に追いつけない。それで勝てると思いますか。iPS細胞を開発した京都大学の山中伸弥教授も、いまのように若いうちから英語、英語と追われていたら、たぶんノーベル賞をとれなかったのではありませんか。>
まして知りたいことは英語で書かれているとは限らないのです。ですから、このブログ冒頭で紹介した英語の先生方は、「英語の教師」であるより前に「人間の教師」であることを忘れているのではないでしょうか。
だから彼らは、私が今まで述べてきたような単純なことが読み取れず、「大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている」「なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がない」となってしまったのではないかと思うのです。
文科省の「新高等学校学習指導要領」は「英語で授業」を高校に押しつけたことで非常に悪名高い指導要領ですが、それでも「文章を正しく要約できること」「文章の要旨を正しくとらえること」を、その到達目標として掲げています。ですが英語教育の現場では「いかに英語で授業をおこなうか」だけが評価の重点になっています。
つまり教科書に出てきたフレーズやセンテンスを使っていかに会話ごっこをさせるかだけに精力と関心が注がれているのです。これでは教師自身の「読みの力」は永遠に鍛えられないでしょう。なぜなら彼らの多くは英検やTOEFL、TOEICなどの点数学力だけをあげることに全精力を使いながら英語教師になっているからです。
私が「英語で授業」に強く反対した理由の一つは、このようなことを指導要領で教師に強制している限り、英語教師の頭から、「文章を正しく要約できること」「文章の要旨を正しくとらえる」という目標が消えてしまうことを恐れたからでした。ましてや「文章を批判的に読む」という目標は最初から頭に浮かんでこないのではないかと思います。
そして私のこの「恐れ」は不幸なことに今や現実のものとなりつつあるようです。冒頭で紹介したメールが私にそのことを教えてくれました。何しろ研究会に集って議論した英語教師たちには、インタビューで述べた私の次のことばが、まったく頭に残っていないように見えるからです。実に暗澹たる思いです。
<いまのような丸暗記型の英語教育は、若者の創造力をすり減らすばかり。受験戦争をくぐり、ようやくいろんな本が読めるという時期に英語漬けの毎日を強いていては、「英語バカ」を育てるだけです。文学も経済も科学もかじり、オールラウンドな教養を身につけて初めて、全体を見渡した仕事ができるというものです。
もちろん、才能あふれる学生が英語もできればすばらしい。英語を母語とする相手と議論し、交渉できる人材を育てる必要も間違いなくあります。しかし、様々な可能性に満ちた大学生全員を、一律に英語漬けにする必要はどこにもない。世界を複眼的に見る力が国際力なのに、英米人のものの見方を刷り込む英語教育なら悪い影響を残すだけです。>
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<註> 朝日新聞インタビューの全体像については下記を御覧ください。
「争論」大学生は英語で学べ―「深い思考奪い、想像の芽摘む」(2014/07/03)
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