英語教師に求められているもの(3)― 続:「英語を読む力」以前に「日本語を読む力」を!

英語教育(2014/08/20)
『英語にとって学力とは何か』あすなろ社/三友社出版171


 東ウクライナへの攻撃は相変わらず熾烈を極めています。アメリカはウクライナ危機、とりわけマレーシア航空機の撃墜事件を口実にキエフ政府への軍事的援助を続けています。これでは東ウクライナの人道的危機は深まることはあっても弱まることはありません。
 ロシアから送られたトラック300台にも及ぶ人道援助物資も、国際機関が中に軍事物資がないと証言しているにもかかわらず、国境沿いで差し止められたままです。しかしマレーシア航空機の撃墜事件はロシア政府が仕組んだものでも、連邦制を求める反キエフ民兵がやったものでもないことは、ほぼ確実です。
 なぜなら、アメリカは「地上を走る車に乗っている人物でさえも識別して、無人爆撃機で暗殺できる、極めて高性能の宇宙偵察衛星」をもっているのですから、ロシア領から地対空ミサイルBUKが東ウクライナに搬入され使用されていれば、鬼の首を取ったかのように、証拠写真を全世界にバラ捲いていたことでしょう。
 そのような証拠をいっさい示すことができず、ひたすらプーチンを悪魔化する宣伝をバラ捲いているだけです。「フセインが大量破壊兵器をもっている」「アサドが化学兵を使った」という宣伝をバラ捲いていたときと全く同じです。アメリカはひたすらロシアを戦争への道に引きずり込みたいのだと思うしかない状態です。
 ウクライナやヨーロッパが瓦礫になろうと、集団的自衛権の行使を迫られて自衛隊員が砲弾の餌食になろうと、アメリカにとっては武器を売りまくるチャンスですし、瓦礫になったあとは復興ビジネスのチャンスです。またアメリカ国内で荒れ狂っている様々な矛盾にたいして、国民の関心を国外問題にそらすチャンスでもあります。
 このままではNATO軍とロシア軍との戦闘になりヨーロッパ一円が瓦礫になる可能性すらあります。元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者だったPaul Craig Robertsは、「世界には、死への願望があるのだろうか?」として次のような論説を書いています。
Washington Has Placed The World On The Road To War
翻訳 「アメリカは世界を最終戦争への道に向かわせている」


 閑話休題。今日の本題に移ります。
 前回のブログでは、ある高校英語教師が出席していた研究会で、朝日新聞「争論」―大学生は英語で学べ?「深い思考奪い、創造の芽摘む」(2014/07/03)が話題になっていたことを紹介しつつ、「英語を読む力」以前に「日本語を読む力」が問題ではないかと述べました。
 ところが同じ頃、定年退職した高校英語教師から別のメールが届き、英語で有名な私立大学の授業でも朝日新聞「争論」が話題になっていたことを知りました。その授業は「翻訳論」だったそうですが、それに出席していたMさん(退職教師の知人の娘さん)の報告によると、その授業で教授は次のように語っていたというのです。

 <「翻訳論」の視点から言えば、どちらの意見(寺島隆吉VS&鈴木典比古) も違うのではないか。グローバル化が謳われる今日において、翻訳は必要不可欠な作業だ。それと同時に翻訳の本質を見ると、翻訳とは一語一語の逐語訳ではないこと、また2つの異なる言語の中には必ず翻訳不可能な部分が存在する。つまり、翻訳した書物では原書に太刀打ちできないものがある。それは、第一言語である日本語にも言えることで、日本語は、私たちの思考において、単語の存在そのもの、認識を作るものだ。それでは第2言語に当たる英語は何を担っているかというと、第1言語で存在した存在を別のものに転用させるもの、具現化させるものだ。つまり、どちらか片一方で教育は成り立たない。つまり、どちらか片一方で教育は成り立たない。>


 さて、このMさんの報告をもとに、退職英語教師の彼女は、私宛のメールで次のように書いていました(Mさんの報告はもっと詳しいのですが、ここでは割愛させていただきます)。

<この報告を聞いて、訳書と原書という二元論にしてしまっているのは「翻訳論」の教授のほうで、寺島先生の言わんとしていることがきちんと理解され ていないという印象をうけました。
 大学の授業を全部英語にして学生たちの時間を奪い、深く思考し創造する芽を摘んでしまうような学問のあり方に警告を発しているのであって、ただ単に「翻訳に賛成とか」「翻訳書の是非」とかいうことではないと思います。
 また英語を学び英米の社会や文化を無批判に受け入れてしまうことの危険性や、こうした英語熱の背景については全く言及がなく大事な視点が抜けていると思いました(これは少なくともMさんの報告にはありませんでした)。
 詳しいことは忘れましたが、いつかこうした論争のテレビ放映で、画面の下に番組を見ている視聴者からの声が次々に書き込まれているのを見ていたら、「どうして英語をそんなに勉強しなければならないのか?」といったような素朴な意見がたくさん寄せられていて、少数のエリートはともかく普通の人々の素朴な意見はそうなんだよねと共感をもちました。>


 まさに彼女の言うとおりで、私は「翻訳に賛成とか」「翻訳書の是非」とかいうことを問題にしていないのです。
 確かに論争相手の鈴木典比古氏は「2つの異なる言語の中には必ず翻訳不可能な部分が存在する。つまり、翻訳した書物では原書に太刀打ちできないものがある」と言って「翻訳書の是非」を問題にしています。
 しかし私が問題にしているのは「原書でおこなう授業」「英語でおこなう授業」であって「翻訳書の是非」ではないのです。
 私は、「原書でおこなう授業」「英語でおこなう授業」では高等教育をおこなう日本人も教科書もなかった明治時代に逆戻りするだけであって膨大な時間の無駄づかいになりかねないと言っているのです。
 私はそれをインタビューでは次のように述べました。

<英語で授業をする必要があったのは明治初期、英語の教科書しかなかったころの話です。だから外国人から英語で教わったのです。
 でも、いまは環境がまったく違う。物理学であれ経済学であれ、高いレベルまで全分野が日本語で読めます。翻訳のレベルが高く、出版力もある。日本は大学の博士課程まで自国語で教育できる、アジアでは例外的な国なんです。
 実際、日本人物理学者が相次いでノーベル賞をとった2008年に、韓国日報がその背景を探り、「自国語で深く思考できるからだ」と指摘しました。韓国の名門大学は英語で科学を教えているのですが、日本と同様、自国語で教育すべきだと提言したのです。
 私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。>


 ですから上記の大学教授は私の主張をまったく取り違えていることがわかります。この教授の授業は「翻訳者を育てる授業」だったそうですが、翻訳の出発点は原書を正しく読み取ることから出発します。間違って解釈したものを翻訳しているかぎり間違った訳書が誕生するだけです。
 私は前回のブログで日本語を正しく読み取ることのできない英語教師が少なくないことを問題にしましたが、英語で有名な私立大学の教授でさえ、長くもないインタビューの要旨を正しく把握できないことに驚きを禁じ得ませんでした。これで、どうして翻訳業が成立するのでしょうか。
 「2つの異なる言語の中には必ず翻訳不可能な部分が存在する。つまり、翻訳した書物では原書に太刀打ちできないものがある」などということは、今さら説明する必要もないほど自明なことです。しかしどうすれば原書の香りを訳書に移し替えることができるのか、それを教えるのが「翻訳者を育てる授業」の任務のはずなのです。
 しかし、これは主として文学の話であって、論説・批評や工学・理学などでは、言っていることを正しくとらえることができさえすれば、原書を訳書に移し替えることはそれほど困難ではありません。問題は訳者が「原書を正しく理解できているかどうか」「それを明晰な日本語に移し替えることができるかどうか」にかかっているのです。
 ところが文学どころか論説すら正しく理解できないひとが少なくないことを、上記の翻訳論の教授は端なくも証明してくれました。しかし現在ほど、この能力が求められているときはないでしょう。というのは大手メディアの報ずる外国ニュースは歪められたものがあまりにも多いからです。
 その典型例が最近のウクライナ情勢にかんする報道ではないかと思います。前述のとおり大手メディアでは、ウクライナ危機のすべてはロシアとプーチンにあると言わんばかりの報道で満ちあふれているからです。『戦争プロパガンダ10の法則』によれば、戦争したいとき敵を悪魔化するのが法則の一つですから、「さもありなん」です。
 イラクを侵略したときはサダムを、リビアを侵略したときはカダフィを、シリアを侵略したときはアサドを、そして現在はプーチンの悪魔化です。しかしZNetやGlobal Researchなどに載っている論文を少し調べて読んでみるだけで、ウクライナ危機の根本原因は全く逆であることが分かるはずです。
 たとえば、CIAの元高官だったRay McGovernは、下記の小論で、現在のウクライナ危機はアメリカが何年も前から用意周到に準備してきたクーデターに起因していることを極めて簡潔明瞭にまとめています。
Ray McGovern: Roots of Ukraine Crisis
 しかし日本の大手メディアはこのような事実をひと言も報道しません。このような事実を日本語で知ろうとすると、今のところ、月刊『アジア記者クラブ通信』に頼るか、ブログ「マスコミに載らない海外記事」など、まったく限られた手段しかないのです。これだけ英語熱が盛んな日本なのに、私たちは全く情報鎖国の日本に住んでいるのです。
 しかも、ブログ「マスコミに載らない海外記事」がせっかく大手メディアが伝えようとしない情報を日々翻訳してくれているのに、その翻訳が極めて読みづらい日本語なのです。毎日、膨大な情報の中から厳選した情報を翻訳するのですから、わかりやすい日本語に推敲し練り直す時間がないことが、その大きな原因だろうと私は思っています。
<註> 月刊『アジア記者クラブ通信』およびブログ「マスコミに載らない海外記事」については下記を御覧ください。
http://apc.cup.com/
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/


 私はここで何を言いたかったのかというと、日本の英語教育は「明晰で論理的で分かりやすい日本語にする技術」をもった「真の翻訳家」を、必要な人数だけ育てることすら、できていないということです。
 月刊『アジア記者クラブ通信』で紹介されている海外記事もブログ「マスコミに載らない海外記事」も、たったひとりのひとが翻訳しているにすぎません。これでは大手メディアが垂れ流す誤った情報にどうして対抗することができるでしょうか。
 日本という環境では日常的には全く必要でもない「英会話」、これに莫大なお金と時間を使っているのに、いま最も求められている「読解力」「翻訳力」の要請はまったく無視されているのです。
 権力をもっているひとたちは庶民が真実に近づくことを何としてでも阻止したいでしょうから、庶民が会話ごっこにうつつを抜かしてくれることは、こんなに嬉しいことはないでしょう。というよりも、それこそが現在の「教育改革」の真の狙いなのかも知れません。
 ところが「翻訳者を育てる授業」を開講している高名な大学でも、こんなことは全く視野に入っていないようなのです。
 ですから、英語を「英語で学ぶ」とか、大学の授業を「英語で学ぶ」と言っている限り、若者の創造性や知的好奇心はすり減らされ、真理真実に近づくことは難しくなります。それを私はインタビューで次のように述べました。

 <いまのような丸暗記型の英語教育は、若者の創造力をすり減らすはかり。受験戦争をくぐり、ようやくいろんな本が読めるという時期に英語漬けの毎日を強いていては、「英語バカ」を育てるだけです。文学も経済も科学もかじり、オールラウンドな教養を身につけて初めて、全体を見渡した仕事ができるというものです。>

<私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。
 そうやって自らの関心を研き澄ませていけは、専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになるのです。
 ところが、大学1、2年の教養課程から英語で授業を始めたら、幅広い分野を学ぶわけですから単語もあらゆる領域に及ぶ。語藁は無限です。覚えても覚えてもキリがない、底なし沼ですよ。
 しかも英語で1冊の本を読む時間があれは、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです。英語の本をやっとこさ1冊読む間に、英米人なら5冊、10冊と読むわけですから永遠に追いつけない。それで勝てると思いますか。iPS細胞を開発した京都大学の山中伸弥教授も、いまのように若いうちから英語、英語と追われていたら、たぶんノーベル賞をとれなかったのではありませんか。>

<人間に与えられた時間には限りがあります。まずは考える力、そして疑問を持つ力を育てることにこそ大切な時間を使いたいものです。>


 何度も言いますが、このような視点が「翻訳者を育てる授業」の教授に全く欠けています。これが正しく読めていれば「原書がよいのか訳書がよいのか」という議論は生まれようがないと思うからです。その証拠に私にメールを送ってくれた退職英語教師は、私のインタビューについて次のような感想を書いてくれています。

<「英語で1冊の本を読む時間があれば、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです。」 このわかりきったことが私には今更ながら痛烈にひびくのです。
 昔は英語力をつけるにはとにかくできるだけ英書を読むことだと思い込んで辞書をくりながら根気よく英書(物語、小説)を読むことに時間を費 やしたものです。日本語を読む時間があるのなら英書を読むべきだなどと思って・・・・。
 と言うと大分英書を読んだように聞こえますが、「語彙は無限です。覚えても覚えてもキリがない。底なし沼です」から辞書を引く回数の多さからしても読んだ英書の数はわずかなものです。それでも当時「寺島メソッド」を知っていたらもっとたくさん読めたかもしれませんが、今頃になって若い時の失われた時間を惜しんでいます。
 退職して活動する世界も広がると、自分の世界の狭さを実感し、「英語バカ」とは人ごとでない自分のことだったのかなどと落ち込んでしまうことが あります。「私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。」はとても大切な言葉です。
 論争相手の鈴木典比古教授は「(英語で授業をすると)最初は帰国子女や留学経験者のほうが英語力が高く有利なようですが、2年3年とたつうちに差はなくなります。むしろ学習意欲や理解力思考力に優れた学生が成長してゆきます」と書いています。
 では、その「思考力」は「どこで」「どのように」身につけるのでしょうか」。その答えがここにあります。「私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる」のです。
 また鈴木教授は「書く力」の大切さもについても述べていますが、これは同時に「何を書くのか」「書く力をどうつけるか」の答えになっていると思いました。日本語で書けないことは英語でも書けないからです。>


 私は、未来の英語教師を育てる仕事、現職教師を鍛える仕事を永年やってきて、ときどき英語教師に絶望しそうになることがよくありました。
 彼らは英語のフレーズを覚えて英語を話すことに興味はあっても、内容のある日本語を読み、相手に分かりやすく伝わる日本語を書くことにあまり興味がないように見えたからです。
 つまり英語に興味はあっても、母語を鍛えることや人間を育てることには興味が無いのではないかと思わされたからです。まして世の中がどう動いているかにも興味がありません。これでは英語教育(そして学校教育)が良くなるはずがありません。
 しかし上記のようなメールをいただくと、私の主張をきちんと理解してくれる英語教師もやはり存在するんだと分かり、元気が出てきます。そして閉じようかと思っていた研究所の活動も、何とか細々とでも続けようかという気にさせられます。
 それにしても、日本語を正しく読むことができないにもかかわらず「翻訳者を育てる」仕事に従事している教授がいるという現実には、何ともやるせない思いをさせられます。しかしこれは日本の英語教育を別の面で象徴的に浮かび上がらせている事例とも言えそうです。

────────────────────────────────────────
<註> 朝日新聞「争論」インタビューの全体像については下記を御覧ください。 
大学生は英語で学べ―「深い思考奪い、創造の芽摘む」(2014/07/03)



関連記事
スポンサーサイト
検索フォーム
プロフィール

狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

Author:狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

リンク
最新記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
RSSリンクの表示
QRコード
QR