大学教育の「国際化」は、「創造的研究者」「グローバル人材」を育てるか(続)

英語教育、大学の「国際化」「英語化」(2014/12/09)

私の主宰する研究所の研究員(MK氏)から、研究所「掲示板」あてに、京都大学国際シンポジウムについて下記のようなメールが届きましたので、紹介させていただきます。なおMK氏のおかげで講演の文字起こしができましたが、これについては次回で紹介します。


寺島先生(また皆さんへ)
 先日は、京都大学でのシンポジウム基調講演、ありがとうございました。ご苦労様でした。
 その後、お疲れは出てみえないでしょうか。腰痛の方はいかがですか。ずっと立ったままの講演でしたので心配しています。
 みなさん向けに講演全体の感想や概要についてすぐに知らせようとまとめていると、結局、録音していた講演記録を何度も聴くことになり、であれば、私のレジュメではなく、原稿起こしをした方が良いのではないかと思い立ち、時間がかかってしまいました。
 また、シンポジウム後の11月26日の朝日新聞の「耕論・オピニオン」には、寺島先生が説明してみえた益川敏英さんの記述も掲載されていて、その後に、その記事を書かれた記者の方が先生あてに「京都のシンポジウムに行くことができなくて残念でした」と書いてみえることを知り、ますます原稿起こしをする意味があるかと思いました(文字起こししたものは、別便・添付で送ります)。
 それはともかく、講演記録を20回以上聴き、考えながら文字に起こすことで、とても勉強になりました。話し言葉と書き言葉の違い、前提となっている事柄についての気付き、先生の原稿の構成の軌跡、などなど、母語である言葉であっても、講演についての内容理解、他者に伝えるための内容についてのまとめや判断を、自分の思考と照らし合わせながら追いかけていくことの難しさを感じました。
 また、こうしたことを外国語で行うならば、さらに認識や判断のずれが生まれるだろうということも強く感じました。
 また、当日のシンポジウムの場・空間の状況を自分なりに再構成・再体験することにより、寺島先生の主張について、より説得力と論理性を感じました。同時にレビューを自分で書いてみることの価値も感じました。
 すでにSMさんの感想が届いていたので、その報告にプレッシャーを感じながら、やっと脱稿できましたので、お時間のある方は、お読み下さい。

<基調講演について全体的な感想>
 寺島先生の基調講演の内容は、具体的な事実に基づいていて、説明が大変わかりやすく説得力を感じました。
 また、そうした諸事実に基づいた具体的な教育上の弊害の指摘から、具体的な実践を示唆されると思われる内容もたくさんありました。
 京都大学も文科省から半ば強制的に「国際化政策」を実施させられているのではないかとも思われ、文科省側と大学の現場にいる方々との「大学の国際化」に対する捉え方の決定的な違いが、教育と研究の双方についてとても危機的な状況へと進められてしまっていることを認識しました。
 この状況は中学・高校でも同じで、寺島先生の中等教育と高等教育との両方を視野に入れた熱意のこもった講演内容に、これまでの英語教育行政の在り方や現場での困難の理由が深く理解できました。
 京都大学の先生方も深く納得してみえる様子でした。該当大学の内部にいる人には発言しにくいことも、外部的な視点も含めて指摘されることで、現場での実践の在り方を相対化する視点が獲得できたように思われました。
 以下は、講演の内容から<私が特に納得し・感動し・驚いた論点>です。(文字起こし原稿から引用・再構成してあります。)


1 大学教育のビジネス化
(1)「大学ランキング」の隆盛は、大学教育の指標化に拍車をかけている。これは「教育」が「ビジネス」、すなわち「利潤追求の対象、利潤追求の道具」になっているということ。
 「アメリカの大学はもう、ビジネス産業になってしまっている」(ハワード・ジン氏)。今や日本の国立大学でさえ、法人化されてからは、経営中心のビジネス産業になりつつある。(典型例が、コンビニ経営)

(2)大学が教育・研究を中心とする機関ではなく、経営を中心とする機関に変わりつつあることは、「組織編成の在り方」にも現れている。
 経営重視の体制と、学長の権限強化とは、1セットで進められており、今は学長と理事会が巨大な権限を振るう。現在の大学は、文科省の指導によって、民間会社と同じように、階層構造を何重にもして、経営重視の体制に変えられてしまっている。
 (小さな地方大学でも、8人もの副学長がいる:理事や副学長の数を増やして上意下達の体制を強化する目的)

2 「ビジネス・モデルは大学を駄目にする」(チョムスキー)
アメリカと同様に、「ビジネス・モデル」を、法人化された国立大学にそのまま移植しようとしている。

(3) 現在、多くの大学は、文科省の指導で、教員の自由な意見表明を抑え、学長の権限を強化することにのみにエネルギーが割かれ、教授会は単なる上位下達の機関になりつつある。このような研究環境からは、独創的な研究も、グローバル人材も生まれて来ない。
 ~大学ランキングとその3つの指標:「ランキング上昇のための大学の国際化」=①「留学生比率の増加」②「外国人教員の増加」③「(英語)論文の引用数」~

(4)「大学ランキング」で「国際化」という指標、すなわち「国際化=留学生比率」という指標と、「国際化=外国人教員の比率」という指標があることも、アメリカの大学経営者にとって便利この上ない、非常に好都合・有利なものである。

(5)「大学ランキング」において、アメリカの大学の経営効果を上げるのに役立っている指標に、「論文の引用数」がある。
 しかし、引用されるのは「英語で書かれた論文」が圧倒的に多く、これもアメリカやイギリスの大学の経営者にとって圧倒的に有利。また英語話者の研究者にとっても、母語で論文を書けるわけであるから、便利この上ない指標である。

(6)「大学ランキング」 は、上記(4)と(5)の点から見ると、「アメリカやイギリスの大学ランキングが高くなるように仕組まれた格付けシステム」の中で、行われ、競争させられている、と言える。
 逆に、日本の大学ランキングを引き下げている最も大きな要因は、「留学生の比率」「外国人教員の比率」その次が「論文引用数」である。これらはいずれも、アメリカとイギリスの格付け会社による数値だということに留意すべきである。

(7)大学は本来、教育と研究が本分なのだから、基本的にはこの2つの指標(教育と研究)だけで、評価されるべき。この2つの指標で大学ランキングを計算し直せば、日本のランキングは急上昇するはず。

( 8 )政府・文科省は、こうした不公正で不確かな「世界ランキング」によって振
り回されて大学に不要な圧力をかけるべきではない。
 (今年ノーベル賞受賞者:赤崎勇、天野浩の2氏は名古屋大学 ・中村修二氏は徳島大学。名古屋大学は、アメリカの格付け機関では99位、徳島大学は初めから対象外。イギリス  の格付け機関では、名古屋大学は150位以内にすら入っていない)
 (格付け会社の評価がいかにいい加減なものであるか:(トリプルA(AAA)で評価されていた超優良企業のアメリカ・エンロン社が、あっという間に破産しまった事実)←(「大学の世界ランキング」は、この程度の信用性)

3 大学への補助金問題
旧制帝大と有名私大に有利に働くだけ→優秀な人材の喪失

( 9 )政府・文科省は、国際化を断行する大学に高額の補助金を出すことに決めたわけだが、そのほとんどは旧制帝大・有名私立大学に集中している。これでは、中小の大学の研究はやせ細るばかりで、地方に埋もれている宝を発掘できないまま捨て去ることになりかねない。
(例えば、頭脳流出した中村修二氏は徳島大学、山中伸弥氏も神戸大学出身で、大学院は大阪市立大学。東大・京大に比べれば、超有名ではない。田中耕一氏は、島津製作所という企業で研究し、修士号すら持っていませんでした。)←こういった事実にもっと注目すべき。

4 独創的な研究を支える環境とは
( 10 )注目しておきたい事実:最近のノーベル賞受賞者(赤崎勇、天野浩、小林誠、益川敏英)は、名古屋大学に集中している。
 これは、坂田昌一研究室が、戦争直後に提唱した「名古屋大学物理学研究室憲章」によって、その精神が物理学教室だけではなく、理学部・工学部の全体に広がっていった結果ではないかと推察される。
 ←「このような学風のおかげで、研究室内に上下の隔てがない、自由な討論が保障さ
れ、そのことが自分達の研究の幅と質と深さを、広め・高め・深めた」(益川敏英氏)
 ←「自分のやりたいこと、いつ結果が出るかわからない研究に打ち込むことができた
ことが、今回の受賞に繋がった」(赤碕勇氏)
 今後このような自由な空間は生まれてこないのではないでしょうか。

( 11 )政府・文科省は、「英語化」「留学生の比率」「外国人教員の比率」などといった「国際化」に無駄なお金とエネルギーを使うのではなく、研究者に自由な討論を保障する体制、自由な研究ができる財政的保障にこそ、財源とエネルギー、精力を集中すべき。

5 「大学の英語化」をめぐって 
( 12 )「大学の英語化」について、教養部の時(教養課程)から英語漬けにすれば、学生達は疲弊し、むしろ学力は低下する。なぜなら日本語でたっぷり教養を身につける時間を奪われるから、「国際人」、あるいは「グローバル人材」になる土台が崩れる。実際に、苦労しながら原書を1冊読んでいる間に日本語では10冊から20冊本を読める。

( 13 ) 本質的には、「研究力」は「英語化」「国際化」とは何の関係もない。「研究力」にもし関係あるものと言えば、むしろ「国語力」「数学力」である。これらはいずれも<自然>と<社会>を 読み解くための<基礎言語>である。

( 14 ) 大学を「英語化」「国際化」で競争に駆り立て、「世界ランキング」第何位に入るなどという目標で尻を叩いても、そのような競争から意味のある成果を期待できない。
 (韓国が良いモデル:韓国は国を挙げて「英語化」を断行しているが未だにノーベル賞の受賞者は0[ゼロ])
 (韓国では、「日本では母語で深い思考ができるからノーベル賞受賞者が続出している」という反省すら起きている)

6 文科省の「国際化政策」をめぐって   
( 15 ) 大学の公金を削って大学財政を危機に追い込みながら、もう一方で億単位の補助金をえさにして「国際化」を断行する大学を作らせるやり方は、今まで日本の大学が持っていた「豊かさ」を削り取り、大学教育を劣化させるだけ。
 これは、「窮乏化する過疎地」とか「財政難に悩む地方自治体」を札束で誘惑しながら、「原発」を受け入れさせていったやり方と本質的には同じ。日本を危機に陥れる「亡国の道」である。

(16) 文科省が気にすべきは、「大学の世界ランキング」なのではなく、「教育にかける公的割合・公費の割合の世界ランキング」こそにある。(公教育への支出は、OECDの31カ国の中で、日本は最低水準。日本:30位 その下にはイタリアがいるだけ)

(17 )日本政府は、予算をかけて日本の文化を保護すること、世界に輸出すること
に、あまり熱心ではない。日本の政府の眼は、アメリカにしか向いていない。

(18 ) 結局、「大学の英語化」は、赤字解消の一環として「英語」や「英語話者」
を輸出したいと思っているアメリカを利するだけ。日本にTOEFLという高額商品を購
入させ、英語で教える外国人教員を日本に輸出したいと思っているアメリカにとって
は、絶好の機会である。

7 「グローバル化・国際化の定義」と「英語化」との関係性
(19) そもそも「国際化」「グローバル化」とは、「人や物が国境を越えて自由に交流する時代になったこと」を意味する。「英語化」「アメリカ化」は、だから<真の国際化>とは無縁なもの。

(20)ヨーロッパでは確かに、1999年のボローニャ宣言に基づき、欧州高等教育研究空間が創設され、大学の「国際化」が進行しているが、これはEUが一つの経済共同体・政治共同体でることに伴って、EU加盟国の教育制度も共同体にふさわしいものにしなければならない、という事情や要請がもたらしたもの。
 ○ 日本はEUと全く違った環境なので、「国際化」という名の下に、大学を「英語化」に追い込む理由や必然性は全くない。

(21) 今、世界は多極化しつつある。(最近ロシアが、中国やブリックス諸国と手を繋いで、世界銀行やIMFに代わる新しい国際的金融機関を作るという発表を行い,更に、アメリカを追い越して中国が、世界経済第1位になったというニュースも流れた。ロシアからは、これまでの恣意的な格付け機関に代わる、新しい国際的な格付機関を設立するということも出ている。)

(22)世界がグローバル化しているからこそ、大学は多言語・多文化であるべき。

8 留学生に関わる「英語教育と日本語教育」
(23)政府・文科省は、「外国からの学生・教員・研究者を受け入れるためにも、大学の英語化は不可欠だ」と言っている。
 しかし、留学生は「どうせ英語で授業を受けるくらいなら、日本ではなく英語話者の国に行きたい」と言うでしょう。その証拠にアメリカにどんどん流れています。
 留学生が日本に来たいのは、日本に興味がり、日本のことを知りたい、日本から学びたいと思っているからに他ならない。昔は日本の科学技術、今は日本の漫画やアニメを通じて、多くの若者が日本に興味を持っている。
 世界中で多くの若者が、日本語・日本文化に興味を持っているのにもかかわらず、英語だけで卒業する環境を創るというのは、留学生から日本語・日本文化を学ぶ貴重な機会を奪うことになる。

(24)本語・日本文化・日本の科学技術を学んだ留学生が自分の国へ戻った時に、彼らは、日本の企業進出のために大きな戦力になってくれるでしょう。
 ですから、英語だけの授業で卒業できるようにするということは、留学生の祖国と日
本を結ぶ貴重な人材を失うことでもあります。これは国益に反する行為であり、税金の無駄遣いです。

9 「京都大学外国人100人計画」
(25)政府は、留学や英語力を煽り、国際化の名の下に外国人教員を輸入することに血道をあげています。その典型例が、「京都大学の外国人教員100人計画」です。しかし、これは日本の優秀な研究者100人が職を得る機会を失うことに導きます。これではますます頭脳流出が進むだけです。

(26) 京都大学では、外国人教員100人計画に代表される「大学の国際化」が進みつつある。しかし、外国人教員を採用し、共通教育の半分は英語による授業を開講すると、そういったことで京都大学の真の国際化は衰退してしまうでしょう。「国際化」という名の「英語一極化」は、大学本来の使命を投げ捨てることになるだけでなく、今後は京都大学からノーベル賞は出なくなってしまうではないか。

10 現代アメリカの状況を眼差して
(27) ドルの一極支配が終わりを告げつつある。英語の強さは、ドルの強さと一体になっている。そのドルの強さに翳りが見え始めている。
 にもかかわらず、日本の大学を「英語一極化」にするということは、このような世界の動きが見えない人材を育てるということ。これは「グローバル人材」を育てるという趣旨に逆行する。「グローバル人材」とは、「世界の動きが見える人」を指すはず。

(28) そもそもアメリカの大学は、留学するのに値するのか。その理由は、OECD22カ国の学力調査(16歳から24歳を対象)の結果、アメリカは大変学力が低い結果が出ている。
 数学力は、イタリアが21位、アメリカは22位。読み書き能力(リテラシー)は、アメリカは21位、イタリアは22位。問題解決能力は、ポーランド19位、アメリカ20位。ただし「問題解決能力」は20カ国の調査。
 だから、留学、留学、という風に文科省が煽りたてるのには、別の理由があるとしか考えられない。

(29) 現在のアメリカは毎日のように、どこかで銃の乱射事件が起き、毎日どこかで人が殺されている(1日87件)。そのうえ高校や大学でのレイプ事件も後を絶たない(女子学生の5人に1人はレイプされている)。
 バイデン副大統領を委員長にして、特別対策委員会すら立ち上げねばならないほど、深刻な事態。日本政府は、このような事実を知っていて、学生にアメリカ留学を勧めているのか。
(もし知らないで勧めているとすれば、極めて無責任、知っていて勧めているとすれば、極めて悪質。
 外国への留学生を倍増にして12万人にすると言っているが、このままでは、アメリカ人の地で多くの日本人の被害者を出すことになりかねない。)

(30) 今アメリカの大学生の学費は、世界最高レベルでお金がかかり過ぎる。また、大学を出ても、最低賃金の就職口しかない。これがアメリカの現実。
 そのため、高い授業料を払えないから、今、アメリカからカナダへ流出している学生が続出。アメリカの大学から学生がどんどん逃げて行っている「穴埋め」に、日本人を送り込もうという訳か。
 したがって、今の日本政府・文科省の言っている「国際化」、「留学生12万倍増計画」というのは、信じがたい、何の根拠もない。「亡国の道」である。

11 文部科学省の「国際化」「英語化」の本当の意図は?
(31) TOEFLなどの外部試験を外国留学に役立つからという理由で大学入試に入れる必要があると政府・文科省は主張している。
 しかしTOEFLは、アメリカ留学のために開発された試験ですから、外国への留学生を倍増すると言っても、その外国は第1にアメリカなのです。
 このようなことを考えると、政府が大学の国際化というのは表向きの理由であって、むしろ政府が心配しているのは、アメリカへの生徒の激減ぶりだったのではないか、「英語化」はそれを食い止める口実ではないか、とすら思えてきます。

(32)かつて貿易摩擦の解決策としてALT(外国人英語指導助手)を強制的に輸入させられたのも、今回の「国際化」政策と同じ構造です。
 しかし、現場教師の強い反対を押し切ってALTをどれだけ輸入しても、日本の英語教育は良くなりませんでした。外国語学習では、授業時数やクラス・サイズが決定的な要因ですが、それを放置したまま、ALTの輸入だけを強行したのですから、当然の結果でもあります。
 また文科省は2002年度から、スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(SELHI)というプロジェクトを立ち上げて、これもまた補助金を餌にして、全国の高校に立候補を呼びかけました。しかしその成果はどうだったのでしょうか。このSELHIが成功していれば、今さら「指導要領」を改訂して、「英語の授業を英語で行う」などという新指導要領を作る必要もなかったはずです。
 今、大学で「スーパー・グローバル大学」という名の下に同じ愚を繰り返そうとしているのではないか、と私には危惧されます。

12 日本国内での日本語の現状
(33) <日本国内の日本語の状況>として、現在、日本語で会話ができない学生が増えている。
 また更に深刻なのは、「患者の症状が聴けない医者・歯医者」「顧客と会話のできない弁護士・会計士」が多くいることである。
 一方、高校入試で、日本語でのヒアリング試験が増えている状況もある。
 それくらいに日本語の学力は深刻である。にもかかわらず、そんな事態を放置してお
いて、「英語」、「英語」という風に叫んでいる政府・文科省の真意がわからない。

(34)高校で、日本語ですら上手く生徒に説明できない教師が、今度は日本語で説
明しても理解できない生徒を相手にして、英語で授業をしたら、どんな悲惨な結果に
なるか、想像に難くないでしょう。今度は、大学で、国際化を理由に、日本語のでき
ない外国人教員が、英語を速読すらできない学生を相手に講義する、それを学生が速
聴しなければならない、これはまたどんな悲惨な結果が待ち受けているか........。

(35)マレーシアの大学で、講座をマレー語の代わりに英語で始めたら、学生の成績が悪くなり中止されたという例もあります。同じことが日本でも起きる可能性が極めて大きいと私は思います。

以上です。

○ 「国際化」という言説が、ひとつの肯定的な価値を持って英語教育に影響していますが、実際にはアメリカの言語戦略に巻き込まれている面が大きいということを、もっと教育現場に関わる人々は認識すべきだと強く感じました。

 上記に加えて、<私が最も感動し、本当は一番重要で議論すべきだと感じたこと>は、基調講演に対する、ジャン=クロード・ベアコ教授からの次のような質問と寺島先生からのその応答についてでした。

○ ベアコさんから「なぜ、日本では、現状を変えようとする行動・運動が起きないのか?どうすれば現状を変えることができるであろうか?」といった質問が出ました。

○ それに対する応答として、即座に寺島先生は、
 日本人の心性として「長い物に巻かれろ」という習性がり、「物言えば唇寒し」という文化的な環境があることを指摘され、その国民性は教育によって躾けられていることを指摘されました。
 チョムスキーを引用されながら、「教育は、従順さ(obedience)を押しつけるためにある」という見方も提示されながら、特に日本で「異議申し立てをし難い状況が生まれる」のは、思春期に最も抑制してしまう教育の在り方があるからであると説明されました。
 日本の中等教育には違和感・不服従を表明させないような身体づくりの要因があると、制服と私服の例をあげながらの説明に深く納得しました。思いあたる点あり。
 また、社会が議論・異論・反論を許さない状況になっていることを、企業や国立大学の例から訴えられ、さらに、日本社会は(日本語で)議論を許さない方向性を教育にもたせながら、皮肉なことに、英語教育ではディベートがはやっていることを、熱く憤った様子で話されました。会場は爆笑。
 「こんな馬鹿げた現象は、<英語を通じた洗脳教育>である」と。
 「その通り、やれやれ」と言った感覚を私と同様に、他の聴衆の方々も共有していた様子でした。
 そして、その状況を打ち破るために、「では具体的な実践として、どのようなことができるか?」ということについては、チョムスキーの述べていることを挙げながら、「3つの事をすべきだ」と説明されました。
 ここが一番重要で、「大学の国際化についての諸問題」も、このチョムスキーの3つの枠組みから討論されると面白いと思われました。

「3つの事」として、
 一つめは「知ること」:世の中には違った人がいて、違ったことをしているということを知ること。
 世界には、あるいはもっと身近な自分の周囲にも、状況に対して異議を申し立てている人がいるということを知ること。
 二つめは「身近な他者に伝えること」:家族や友達、あるいはもっと広く他の人に、知ったことや感じたことを自分ができる方法で伝えてみること。
 そして三つめは「それらを形にすること」:小さなことでよいから形にしてきること。はがきを書いたり、メールをしてみることなどなど。

 このたった3つの小さなことをする中で、周りが少しずつ変わって世界が変わっていく、と説明されました。
 寺島先生ご自身は、二つめと三つめについて「情報として知り得たことや感じたこと考えたことは、ささやかながら、翻訳やブログで表現し発信している」と述べられました。

 その後のシンポジウムでは、このことについて、具体的にどうしたら良いかを話し合われるとよいなあと思いましたが、寺島先生の基調講演に圧倒されてか、指摘された諸事実について、議論が具体的にはなされなかったのは残念に思いました。
 それは、後に登壇されたフランス語圈の教授の説明に特にそう感じました。
 また、大学での第2外国語(初修外国語)教育の在り方の説明についても、異文化体験や異文化間交流を英語教育との関係の中で、どのように具体的に展開していくのかを示してほしかったです。それが一番現場では困っていることに思われます。

<フランス語圏の教授の方々の講演内容の感想>
彼らの議論が「英語の一極支配について批判する」ことは良いのですが、フランス語もまた、これまでの歴史で「リンガ・フランカ」としての地位を築いていたわけで、英語にその座を譲り渡している状態だから批判するというのでは、どちらも「言語帝国主義」の域を超えられないものであると感じました。
 また、議論が抽象的で、具体的な実践の場面でどうすればよいのかがはっきりとは見えない内容でした。「京都大学の外国人100人計画」にしても、「フランス人の導入は歓迎すべき」であるが、「アメリカ人・アメリカ英語主導の外国人100人は良くない」というだけの議論に陥りがちな傾向を感じました。
 寺島先生が出された、母語で思考することの意味と多言語化・多文化化の必要性を「国際化」の定義と照らし合わせながら展開することがなく、基調講演での抱負な事例に対するコメントから、具体的な実践の方法を話し合うまでには至っていないと思われました。
 その理由は、おそらく彼らの主張が「英語だけでなく、フランス語も学ぶ必要がある」というだけに留まるもので、結局は、寺島先生が指摘され批判されたことが、そのまま自分達の志向することにも当てはまってしまうからではないか、とさえ思ってしまいました。
 一方、日本は、母国語で博士課程まで学べる希な国であるから、教養の力や創造的なアイデアを母語で考えることを重要視するべきであるという主張も、外国人の視点から見ると「日本語を守れ」という、ある意味で「国語ナショナリズム」と逆に批判されてしまうものであろうか、とも思いました。しかし、ここでのポイントは、「母語で思考することの重要性」であると思われます。 
 ただし、国内も多言語化してきているので、日本語が母語であるという発想自体も、問いただされるべきものかもしれません。しかし、当座は「現代日本語」が母国語として日本における中核的な言語となっている国民国家日本では、まずはその言語で思考しながら発信していくことが大切であると考えるべきかと感じました。

                       以上、雑駁に書き連ねました。

 急に冬の気候になり、紅葉が美しい景色もその後の雨で冬景色へと移り変わって、おそらく今は、京都もとても寒くなってしまっているでしょうか。
 つい先日の11月の講演の折りはとても暖かく、京都大学近くの銀杏並木を見ながら「春にみなさんと桜を見るのも良いなあ」と思えるような穏やかな一日でした。
 講演の翌日は、雨で紅葉も散り始めていたようですね。「銀杏並木は春には桜並木に変わるよ」とタクシーの運転手さんが教えてくれました。
 また京都に行きたいですね。今後も、寺島先生の基調講演の内容について、意見を交わせることができればありがたいです。
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狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

Author:狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

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