書評 『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー』

ヴィゴツキー、生活言語、学習言語、真理を見抜くための「武器としての英語」、英語教育 (2015/04/03)
亡びるとき 
 日本経済新聞夕刊(2015年3月17日)は、"高3英語力 「中卒程度」、文科省が初調査「書く・話す 苦手」" という大見出しで、高校生の英語力が極めて貧弱であることを報じました。
 それと時期を合わせるかのように、長周新聞は3月25日の教育文化欄に、“人間的成長阻む「会話重視」”と題して、拙著『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー』(明石書店)の書評を載せました。
 日本の言語環境を無視した「会話・コミュニケーション重視の英語教育」が英語力低下をもたらすことは、すでに上記『英語教育が亡びるとき』で予言されていたことでした。そこで以下に、長周新聞の書評を紹介することにします。


人間的成長阻む「会話重視」
日本の現実に根ざして批判力 育てる英語教育を

寺島隆吉著『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー』

日本人が英語をしゃべることができないのは文法重視の英語教育の悪弊から抜け出せないからであり、会話重視の教育に転換しなければならないと、まことしやかに宣伝されてきた。その延長線上で今では小学校の低学年から英語授業が導入され、高校だけでなく中学校英語の授業まで英語でおこなうことが要求されるまでになっている。
 さらに大学の講義も英語でやるとか、学会誌でも内容以前に英語で書いた研究論文が評価される風潮が、ユニクロや楽天の英語公用語化、英会話教室の林立などとあいまって、マスコミによって時代の流れであるかのようにふりまかれている。
 著者は長年高校教師を勤めたあと大学で英語教育の研究・教育に携わった経験、また高校教師らの自主的研究会による授業実践、専門的な研究者の発言やデータをふまえて、こうした風潮がいかに現実離れした空論であり、時代遅れの謬論であるか、科学的体系的な暴露、批判を試みている。とくに「会話重視」を掲げて「英語で授業」を明記した新しい高校指導要領を詳細に分析し、そこに流れる冷酷で非人間的なイデオロギーをあぶり出すものとなっている。
 中学高校の現場では、英語の授業についていけない生徒は勉学の意欲を失い、わからないから騒ぐなど授業崩壊が日常化している。いわゆる「底辺校」「困難校」の英語教師はただでさえ国語や数学と同様に、その対応に追われ疲れ果て退職・休職、自殺、さらには管理職の降格願いが急増している。表面的には「授業が成り立つ」とされる進学校においても、受験対応型の授業一辺倒で「投げ込み教材」などで人間育成をめざす英語教育を進めることが困難に追いやられている。
 こうしたなかで小学校から英語を学習してきた生徒たちの間で、英語嫌いが増えており、英語の勉強をしなくなっている状況が生まれている。政府・文科省がこうした実情を見て見ぬふりをして進める英語教育が、生徒たちにますますわからなくさせて授業崩壊を加速させることは目に見えている。

「英語バカ」つくる文科省教育

 母語の日本語での授業すら成り立たないのに、どうして「英語で授業」を求めるのか。政府・文科省や、「英語で授業」を明記する新指導要領を作成した「英語教育専門家」はそれに誠実に答えずに、教師の説明で終わる授業ではなく「生徒の活動」を通しての理解とか、「生徒を信頼せよ」とはぐらかすだけである。そして、英語でディベートができることを目標に掲げて「会話重視」の「コミュニケーション英語」の推進に拍車をかけている。その過程で、教科書から「平和・人権・環境」などを扱った教材や文学作品が消えていき、「深い内容の読み物教材」が外に追いやられてきた。
 著者は生徒・学生が主体になるような授業実践・授業研究を長期にわたって築いてきた体験から、会話教育よりも読解教育を重視すべきであること、会話中心の授業から会話力は育たないことを強調する。そこには、英語教育が求める学力観の根本的な対立がある。今の日本社会に巣立っていく生徒たちに必要なのは、日常会話ができる「英語力」ではなく、実際に英語が必要になったときに生きて役立つ基礎の習得である。そのためには「話す力」よりも「読む力」、さらに作文教育を通した「書く力」を育てることこそ必要なのである。
 さらに、文法を使って教授・学習する方がはるかに能率的で教育効果があることについて科学的な裏づけをもって明らかにしている。外国語学習は、母語のように「生活言語」から「学習言語」への学習という過程をたどらず、逆に「学習言語」としての文法などの学習から「生活言語」に達するという道筋をたどるからである。それはロシア革命後に世界的な研究成果をあげた言語学者ヴィゴツキーの言語認識論もふまえた考察である。
 政府・文科省の「文法重視」から「会話重視」への方向転換は、英語教育を感性的な「生活言語」としてのレベルに押しとどめ、論理的な思考をともなう「学習言語」としての英語の力をつけなくても良いとする観点が貫かれているといってよい。それは、英語の学力を著しく低下させ、しゃべることができても日常会話レベルの「英語バカ」を生み出すものでしかない。
 著者は、政府・文科省が「すべての日本人に英語を」「すべての授業を英語で」と現実不可能なことを押しつけるが、そのくせそのために不可欠な少人数学級への改善や教師の教材研究や自主研修の時間的な保障、指導における自由裁量の拡大などの環境整備に力を入れるどころか、逆に上意下達の統制を強めてますます閉塞状況を強いていることに厳しい目を向け、鋭く告発している。

植民地的教育からの脱却を

 だが本書は、単なる政策上の批判にとどまらず、今日の日本における英語教育の本来の目的、英語教師がはたすべき役割について、建設的な立場から具体的実践的に論じている。それは、日本の空を覆う異常な「英語熱」がいつか必ず正される日が来るという確信とともに、それを放置することが生徒たちの人間的成長を破壊し、教師を精神的肉体的に疲弊させ、社会的な損失につながるという譲れぬ観点からである。
 なによりも「すべての日本人」が英語がしゃべられないことを問題にすること自体、間違っているのだ。それは、英米の植民地であった国のように、日常生活で英語をしゃべる必要がないからであって、当然のこととして誇るべきことなのである。著者はまた、「英語力」が経済力や研究力を示すと見ることも大きな誤りだと指摘。英語を公用語とするフィリピンの経済力が弱く、海外への出稼ぎに頼っている実際からも論じている。
 さらに外国語教育を英語一辺倒にしていく政府・文科省の言語政策を日本社会の実際からかけ離れた時代遅れの産物だと批判を加えている。英語だけが外国語ではないことはいうまでもない。日本社会で日常的に接する外国人は圧倒的に中国人、朝鮮人をはじめとするアジア人であり、ブラジル人などである。また現実に日本の企業が進出する大半が中国、ベトナム、タイなどアジア諸国だ。
 著者は英語教師は、「外国語は英語だけではない」ことを教えるべきであり、さらに「アメリカが理想の国だから英語を学ぶ」のではなく、「日本をアメリカのような国にしないために、英語を学ぶ」ことを英語教育の目的として明確にあげている。それは隠された真実を知っていく武器として英語を学ぶという観点である。アメリカのマスコミ、さらにはそれをそのまま垂れ流す日本のマスコミを通して、為政者から与えられる情報に振り回されたのが、湾岸戦争やイラク戦争などだったからだ。
 文科省の「戦略構想」はどこから見ても、高校生の意識にも現実の企業行動にも合致していない。著者は、「それを求めているのはごく一部の超大手企業か外資系企業であり、英会話やTOEFLやTOEICテストなどを売り物にしている英米や国内教育産業だ」と指摘。財界が会話中心の「英語が使える日本人」の育成を求めるのは、日本が「アメリカの五一番目の州」であるかのようにみなしているからだと喝破している。
 そして、「日本は一九五一年にアメリカによる占領状態を脱し、独立国になった」とされるが、今日まで植民地状態を脱却していない現実にその根拠を認めている。著者が「日本人の、日本人による、日本人のための英語教育」というあたりまえのことを主張しなければならないのは、まさに今日の英語教育がそれに真向から対立するものになっているからであり、「アメリカの、アメリカ(それに隷従する日本支配層)による、アメリカのための英語づけ教育」に堕しているからだといえよう。
 著者は、今日の「英語熱」の背景に、第二次世界大戦の反省を投げ捨てて「中国・ロシア・朝鮮と距離を置き、軍備を拡張しつつ、軍事も経済もアメリカと一体化すること」だけを目指し、「そのうえに、アメリカとの軍事演習が英語でのみおこなわれている」状況を見据えている。さらに、それが「かつて日本が台湾・朝鮮・インドネシアから多くの若者を徴兵し、日本語で指示命令を下した光景と重なって見えてくる」と記している。
 本書は二〇〇九年に、当時の小泉政府への批判の矢を向けて発行されたが、六年を経た今日、安倍政府への鋭い批判として威力を放っている。(一)

(明石書店発行、B6判・三二八ぺージ、二八00円+税)

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