翻訳 チョムスキー「企業モデルが米国の大学をダメにしている」その1

「プルートノミー(財閥・富裕層)」 "plutonomy" 、「プレカリアート(不安定労働者)」 "precariat" 、元FRB議長アラン・グリーンスパン、大学のビジネスモデル、「民主主義の危機」、三極委員会、教育原理(2015/08/19)


 去る2004年に国立大学が法人化されてから、2014年3月で満10年となります。その結果、大学は良くなったのでしょうか。
 この間、国立大学は一貫して文科省からの予算を減らされ、他方で「学長の権限を強めろ」という指示のもと、ますます教育研究機関というよりも営利機関としての性格を強めてきました。
 そして「大学を英語化しろ」「グローバル人材を育成しろ」と言いつつ、補助金で大学のありかたを実利化の方向に誘導しています。それどころか最近では、役に立たない人文系・社会科学系の学部は縮小・廃止しろとまで言い始めました。
 このような実利や儲けを念頭においた大学経営は、すでにアメリカで先行しています。文科省の新しい方針は、このようなアメリカの先例を後追いしているだけとも言えます。
 そこで、このようなアメリカの先例をチョムスキーがどう見ているか、その翻訳「企業モデルが米国の大学をダメにしている」を以下で紹介したいと思います。いま日本の大学で起きていることを理解する一助になれば幸いです。


目次
1 終身在職コースから排除した教員雇用
2 高等教育はどうあるべきか
3 「協同統治」と労働者管理について
4 いわゆる「雇用の柔軟性」について
5 「教育の目的」について
6 「教育への情熱」について
7 助手が労働組合を組織すること



企業モデルが米国の大学をダメにしている

Corporate business models are hurting American universities

ノーム・チョムスキー、PA, October 10, 2014
http://www.chomsky.info/talks/20141010.htm


1 終身在職コースから排除した教員雇用

それがビジネス・モデルの一部ですね。工場の臨時社員やウォールマートのいわゆる「協同員(アソシエイト)」を雇うのと同じです。手当・給付金の恩恵のない従業員です。それは企業モデルの一部で、人件費を削減して、労働者の奴隷状態を増大させるように計画されています。大学が企業化するようになると、国民にたいする全般的な新自由主義的な攻撃の一部として、最近の世代に組織的に起きてきているのと同じことですが、大学のビジネスモデルも、問題は最終損益ということになるのです。
*手当・給付金(benefits):共済組合・保険会社・公共機関などの機関や年金制度によって支払われる年金や失業手当など。

大学の実質的所有者は理事(州立大学の場合は州議会)であり、彼らは費用を抑えて、労働者を扱いやすく従順なものにしたいのです。その方法は主として臨時雇用にすることです。新自由主義的気運が高まっていたとき臨時雇用が増えました。それと同じことが大学でも起こりつつあるのです。

そういう考え方は社会を二分しようとします。一つの集団は、ときには「プルートノミー(財閥・富裕層)」 "plutonomy" と呼ばれています。これは、シティバンクが投資家たちに資金をどこに投資したら良いのかについてアドバイスしていたときに使った用語です。富の最上層部であって全世界的な存在ですが、ほとんど米国のようなところに集中しています。もうひとつの集団は、その残りの人々で、「プレカリアート」 "precariat" と呼ばれています。いつ人生の落伍者になるかもわからない不安定な毎日を生きているひとたちです。
*プレカリアートは、「不安定な」(英: precarious、伊: precario)と「労働者階級」(独: Proletariat、伊: proletariato)を組み合わせた語で、1990年代以後に急増した不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および失業者の総体。

この考えはときには全く隠すことなく公言すらされています。だからアラン・グリーンスパン(第13代連邦準備制度理事会(FRB)議長)は、自分が動かしていたアメリカ経済の驚異について1997年の議会で証言をしたとき、率直にこう言いました。経済的成功の土台の一つは彼の言う「労働者の更なる不安定化」を進行させることだと。もし労働者がさらに不安定になるなら、経済は社会にとっては非常に「健全」になる。というのは、もし労働者が不安定なら、彼らは賃上げを求めないし、ストライキに入ることもなくなるし、手当や給付金も要求しなくなる。つまり彼らは喜んで、かつ受け身で雇い主に仕えることになるだろう。そしてそれが企業の経済的健康にとっては最善だと。

その当時すべてのひとがグリーンスパンの説明を妥当なものだと見なしたのです。反論は何もなかったし、彼の受けた盛大な喝采から判断すると、そうなのでしょう。さて、それを大学に当てはめてみましょう。つまり、「労働者の更なる不安定化」をどう確保するか? それは決定的に雇用を保障しないことに拠ります。人々をいつでもノコギリで切り落とすことができるようにしておくというよりも、むしろ周縁にぶら下げておくのです。そうすると、彼らは黙って少ない給料を受取り、自分の仕事をしたほうが良くなるのです。そして「もう1年間そのような惨めな状況下で勤めることを許される」という贈り物を甘受するなら、彼らはそれを歓迎して、それ以上を求めなくなるはずなのです。

それが企業の見地から社会を効率的で健全に保つやり方なのです。そして大学が企業モデルに移行するにつれて、まさに「身分の不安定」が教職員に押しつけられつつあるのです。そして私たちはますます多くのそういうものを見ることになるのです。

それが一側面ですが、別の側面もあります。それも民間産業では全くお馴染みのものです。すなわち、管理職層の著しい増大と官僚主義です。もし人を支配しなければならないなら、それをおこなう管理能力をもたねばなりません。ですから他のどこよりも米国の産業では、管理職の多層化があります。それは一種の経済的浪費ですが、管理と支配にとっては有益なのです。

そして同じことが大学にも当てはまります。過去30~40年間、教員と学生に比べて管理職の割合が非常に急増しています。教員と学生の割合は御互いに対してかなり適正な水準ですが、管理職の割合が上昇したのです。

それについての非常に良い本があります。有名な社会学者ベンジャミン・ギンズバーグの『教員の減少:管理職化した大学の勃興とその問題点』という題名の本で、大学のビジネス・スタイルすなわち莫大な数の管理職と管理職の幾つもの階層を詳細に描いています。もちろん管理職層には非常に高額な給料が支払われています。このなかにはたとえば学部長のような教授職の管理者も含まれます。かつては、彼らは2-3年は管理職として勤めるために教授職を離れますが、その後また教授職に戻るというのが普通だったのですが、今では彼らのほとんどは管理の専門家になっており、だから副学部長や秘書等々を雇い、管理職部門と手をつなぎながら、このような構造を拡大する役割を果たしています。これらすべてが、大学のビジネス・モデルのもうひとつの側面なのです。

しかし民間企業のモデルを追いかけるかぎり、安くて攻撃のしやすい労働者を使うということは、どこまでも続く商慣行ですから、それへの対抗策として組合が現れました。大学では、安くて攻撃を受けやすい労働者とは、非常勤講師や大学院生になります。院生は、明白な理由のためにさらにもっと攻撃されやすい存在です。つまり教育を[非常勤講師を含めた教員から]院生という不安定な労働者に移せば安上がりになるからです。そうすれば彼らの規律と管理をしやすくなるだけでなく、教育から別の目的へと資金を移動できるのです。

その犠牲・しわ寄せはもちろん、学生・院生あるいは攻撃されやすい仕事に引きずり込まれた人々に行きます。しかし人々に犠牲を転嫁するというのが、ビジネスが取り仕切る社会の標準的特徴なのです。実際、経済学者たちもこのような体制に無言で協力しています。ですから、たとえば、自分の銀行口座を調べていて何か間違いを発見し、銀行にそれを訂正するように電話をかけたとしましょう。さて、何が起きるかご存じですね。電話をかけると応答メッセージが出てきて「お電話ありがとうございます。以下の指示に従ってください」。その指示項目に目指しているものはあるかも知れないし、ないかも知れません。もし偶然に正しい選択肢を見つけることになったら、少し音楽が流れて、ときには次のような音声が入ってきます。「しばらくお待ちください、ご協力ありがとうございます」等々です。

最後に、しばらく待った後、人間が出てくるかも知れません。そしてやっとその人に短い質問をすることができるのです。それが経済学者が「効率」と呼ぶ代物です。経済的尺度からすれば、そのようなシステムは銀行に労働コストを減少させています。もちろん、それはあなたにコストを課しているのですし、そうしたコストは大勢の利用者によって何倍にも膨らんでいきます。それは莫大なものになり得るのです――しかし経済的計算からすると、それはコストとして見なされないのです。社会の動き方を見れば、いたるところでこんなことが起きていることに気づくはずです。

ですから大学は学生にコストを課していますし、また終身教授の地位を保証されていない正教員だけでなく何の身分保障もないことだけが明確な非常勤教員にコストを課しているのです。このすべては、企業モデルの中では、完全に自然なのです。教育には有害ですが、教育は彼らの目標ではないからです。

実際、もっと過去を振り返ってみれば、それよりさらに深刻です。もしこんなことの多くがはじまった1970年代初期に戻れば、1960年代の民主的改革運動について、政治的多様性を大きくこえて、多大なる懸念が寄せられていました。それは一般的には「騒乱期」と呼ばれていました。アメリカがだんだん文明化していったので、それは支配者とそれにつながる知識人にとっては「多くの困難に遭遇した時代」だったのです。それは危険だったのです。というのは、人々はだんだん政治的な関心を持ち始めていましたし、女性や労働者、農民、若者、老人などの「特別利益団体」と呼ばれる集団が権利を得ようと挑戦していました。それらは支配者・知識人からの深刻な反動を呼び起こし、それはかなり公然となっていました。

そのなかで政治的にはリベラルと自称する人たちから、1冊の本が出ました。それは『民主主義の危機:民主主義の統治可能性に関する三極委員会への報告書』(ミッシェル・クロジャー、サムエル・ハンチントン、ジョージ・ワタヌキ)で、リベラルな国際主義者の組織、三極委員会が出版したものです。カーター政権のほとんどは、そのようなひとたちから構成されていました。彼らは「民主主義の危機」と彼らが呼ぶものを懸念していました。民主主義が度が過ぎているというのです。

1960年代には国民から政府に対する強い圧力がありました。いわゆる「特別利益団体」が政治的権利を得ようとして、国家に強力な圧力をかけたのです。しかしそんなことは許されないことなのです。この「特別利益団体」から除外されたグループがひとつだけありました。企業・経営者です。その利益は「国家の利益」と一体だからです。企業・経営者は国家を支配すると考えられていましたから除外されたのです。しかしその「特別利益団体」は問題を引き起こしていましたから、「我々は民主主義にもっと節度を持たさねばならない」と彼らは言いました。国民は受動的で無感動に戻らなければならない、というわけです。

そして彼らはとりわけ学校と大学に関心を寄せていました。彼らが言うには、学校も大学も「若者を教化する」という本来の仕事をしていないというわけです。学生運動たとえば公民権運動、反戦運動、女権運動、環境運動などをみれば、若者が正しく教化されていないことは、よく分かるでしょう。

では若者をどう教化すればよいのでしょうか。それには多くの方法があります。ひとつは若者に絶望的などほど重い授業料の負債を背おわせることです。負債はひとつの罠で、特に学生の授業料の負債は途方もないものです。クレジットカードの負債など小さいものです。それは残りの人生をだめにするような負債です。なぜならアメリカの法律は授業料の負債にたいする自己破産を許していませんから、その罠から抜け出すことができないのです。たとえば企業は負債が多すぎた場合、自己破産宣告ができます。しかし個人の場合、自己破産宣告によって授業料の負債から解放されることは、ほぼ不可能です。もし債務を履行しなければ年金や生活保護などの社会保障を差し押さえることさえできるのです。

このような法律は学生を教化し躾けるために意図的に導入されたと言っているわけではありません。しかし実質的には同じ効果をもっているのです。また、このような法律は何らかの経済的根拠があると主張することも困難です。なぜなら世界中どこを見ても、高等教育が無料である国がほとんどだからです。世界で最も教育水準が高いとされる国々、たとえばフィンランドでも(ちなみにフィンランドは一貫してトップの地位にあります)、高等教育は無料です。あるいはドイツのような豊かで成功している資本主義国でも、授業料は無料です。メキシコは、直面している経済的困難を考えれば、その教育水準は賞賛に値するものですが、そのような貧しい国でも無料なのです。

実際、アメリカでも1940年代、50年代にさかのぼってみれば、高等教育は無料に近かったのです。復員軍人援護法(the GI Bill )のおかげで大量の若者が無料で大学に行くことができました。この法律がなければ無理だったでしょう。それは若者にとっても、経済や社会にとっても非常に有益なものでした。それが当時の経済成長率が高かったひとつの理由だったからです。私立大学でさえ、かなり無料に近かったのです。

たとえば私の場合を例にとってみましょう。私は1945年に、アイビーリーグと言われる大学の一つ、ペンシルバニア大学に行きました。当時の授業料は年額100ドルでした。現在のドルに換算すれば多分800ドルぐらいでしょう。しかも奨学金を得ることも非常に容易でしたし、その気さえあれば自宅に住んで、アルバイトをしながら学校に行くこともできましたから、ほとんどお金はかからなかったのです。しかし今は法外な授業料です。私の孫も大学に行っていますが、働きながら同時に大学へ行くことはほとんど不可能です。このように授業料は、学生を教化し躾ける道具になっています。

学生や教員を教化するもう一つの技術は、教員と学生が接触し交流する機会を奪うことです。大人数の授業で、しかも超過労働の非常勤教員を増やすことです。彼らは非常勤の安い給料ではほとんど生きていけません。しかも安定した身分を保障されていませんから研究業績を築き上げるゆとりもありません。だから、もっと良いポスト、もっと良い給料を得ることもできないのです。これらは学生や教員を躾けたり教化したり管理する技術なのです。

それは工場で期待されているものと非常に似ています。工場労働者はきちんと躾けられていなければなりませんし従順でなければなりません。彼らは工場できちんとした役割を果たすものとみなされていません。たとえば、生産を組織したり、どうすれば工場が機能するかを決めたりするのは、労働者の仕事ではなく、それは管理職の仕事なのです。そして、このような労働の形態は大学にまで及んでいます。私企業・産業界で働いたことがあるひとには、これは何ら驚くには当たらないことでしょう。が、とにかくこれが現在の労働形態なのです。

(以下、次号に続く)
 
関連記事
スポンサーサイト
検索フォーム
プロフィール

狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

Author:狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

リンク
最新記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
RSSリンクの表示
QRコード
QR