翻訳 チョムスキー「企業モデルが米国の大学をダメにしている」その2

労働騎士団the Knights of Labor、ジョン・デューイ、「産業民主主義」"industrial democracy" 、「協同統治」 "shared governance"、労働者管理worker control 、「雇用の柔軟性」 "flexibility"、「労働改革」 "labor reform" 、教育原理(2015/08/19)


 かつて全共闘運動が盛んだったとき、「東大闘争」と言われるものが闘われ、その成果として7学部自治会と東大当局との間で大学統治に学生が参加する協定(いわゆる「確認書」)が結ばれました。この確認書の最も大きな特徴は「大学自治への学生参加」という点でした。(東大院生協議会『東大変革への闘い』労働旬報社1969)
 しかし大手マスコミは全共闘が安田講堂を占拠し、それと機動隊との攻防のみを大きく取り上げ、この「大学自治への学生参加」は全く無視されました。その意義を指摘する大手メディアは皆無だったように記憶しています。全共闘運動のほうからも、このような成果を「無原則な収集策動」とする強い攻撃がありました。
 もちろん自民党文教部会および政府・文科省からも、「確認書」にもとづく「大学自治への学生参加」にたいして、それを阻止しようとする強い圧力が大学当局にかけられました。その結果、せっかく花を開きかけた「学生参加」の運動は、蕾(つぼみ)のまま消え去ることになってしまいました。
 ところが、ほぼ同じ頃、アメリカで展開された学生運動は、黒人の公民権運動とあいまって、「大学自治への学生参加」という素晴らしい果実を手にしたのでした。このインタビューでチョムスキーは、「私の学部では、この40年間、学生は学部教授会に代表を出して、そのような参加は有益な効果をもたらしています」と述べています。
 それに反して現在の東大(とりわけ工学部)は、フクシマ原発で露骨に示されたように、原発を推進する御用学者の巣窟(いわゆる「原子力ムラ」)になっただけでなく、最近では、防衛省の「軍事研究」を積極的に受け入れようとする動きすら出ています。
 安倍政権が、一方では「大学の英語化」「グローバル人材の育成」を声高に叫びつつ、他方では集団的自衛権をふりかざして、「国立大学では人文系・社会科学系の学部は不要」と言い始めている今こそ、このインタビューを読み直す価値があるのではないでしょうか。


 目次
1 終身在職コースから排除した教員の雇用(前号)
2 高等教育はどうあるべきか(今号)
3 「協同統治」と労働者管理について(今号)
4 いわゆる「雇用の柔軟性」について(今号)
5 「教育の目的」について
6 「教育への情熱」について
7 助手が労働組合を組織することにたいする助言




企業モデルが米国の大学をダメにしている
Corporate business models are hurting American universities

ノーム・チョムスキー、PA, October 10, 2014
http://www.chomsky.info/talks/20141010.htm


2 高等教育はどうあるべきか
まず第一に、昔は「良き時代」があったと言う考えを捨てるべきです。状況は今とは違っていましたから、ある点では過去は良いことはありましたが、とても完全とは言えないものです。たとえば伝統的な大学は非常に階層的で、大学の意思決定に民主的参加をする余地はほとんどありませんでした。1960年代に広がった活動の一つは大学を民主化することでした。たとえば教授会に学生の代表を送り込んだり、職員を参加させたりしようとしたのです。

これらの努力は学生の主導で遂行され、かなりの前進を見ました。今では、ほとんどの大学は、程度の差はあれ、学部の決定で学生を参加させています。私が思うに、これらの活動はもっと前進させるべきです。民主的機関は、その組織の構成員が誰であれ、教員・学生・職員のすべてが、組織のありかたや運営方法に関して、その意思決定に参加すべきものなのです。同じことは工場でも言えます。

これらは過激な考えでも何でもありません。これらは古典的な自由主義から自然に導き出されるものです。ですから例えばジョン・スチュアート・ミルは[イギリスの]古典的自由主義の伝統に立つ代表的人物ですが、彼は労働の場はそこで働く人々によって運営され管理されるのが当然だと考えていました。それが自由であり民主主義だというわけです。同じことはアメリカでも言えます。例えば労働騎士団the Knights of Laborという労働組合の時代に戻ってみましょう。彼らはその目的を次のように明言しています。「協同組合的な業務体制を導入することによって、賃金奴隷制度に取って代わる協同的組織を創り上げること」。

あるいはジョン・デューイのような人物でもよいでしょう。彼は20世紀の社会哲学者の代表的人物です。彼は学校における教育は[外部からの干渉を退け]創造的独立を目指すべきだと主張しただけでなく、産業における労働者管理をも主張しました。それを彼は「産業民主主義」"industrial democracy" と呼びました。彼が言うには、社会の基幹産業(例えば、製造業・商業・運輸業・情報通信業)が民主的に管理されなければ、「政治は大企業によって社会に投影された単なる影にすぎなくなる」のです。

このような考えはほとんど基本的なものです。それはアメリカ史と古典的自由主義に深く根ざしたものです。それは勤労者にとっては第二の天性であるべきものですし、大学にも同じように適用されるべきものです。大学には民主的透明性を適用できない場合も(たとえば学生のプライバシーに関わることなど幾つかの微妙な問題など)若干はありますが、通常の大学運営では学生の直接参加が正当であるだけでなく有益であることを否定するいかなる根拠もありません。例えば私の学部では、この40年間、学生は学部教授会に代表を出して、そのような参加は有益な効果をもたらしています。


3 「協同経営」と労働者管理について

大学は、私たちの社会では、たぶん民主的労働者管理に最も近い社会組織です。例えば学部内では、少なくとも終身教授のひとたちが自分たちの実質的労働量・労働内容を自分たちで決めるのは普通のことです。たとえばどんなことを教えるか、いつ教えるか、どのようなカリキュラムにするかなどは自分たちで決めます。教員がおこなう仕事の大半は、終身教授が自分たちで管理します。

もちろん昨今は、私たちの上に管理職がいて、それを乗り越えた管理はできません。たとえば、教員は誰かを終身教授にするよう提言することはできますが、それを学部長や学長や、ときには理事や評議員が却下することはあります。とはいえ、それほど頻繁にあるわけではありません。しかし、そういうことはありうるし実際にあります。それは組織というものがある限り常につきまとう問題ですが、管理職が教員から選ばれていて、その管理職が不当な行為をしたとき原則的にリコールが可能であれば、たいした問題ではありません。

代表制のもとでは誰かが管理職の仕事をしなければなりません。しかし管理職のもとで管理されている教員が主権者であり、その管理職をある時点でリコールできることが重要です。しかし最近ではそのような権利が少しずつ浸食されています。ますます管理だけを専門とする管理職が増え、その階層がますます厚くなっています。教員から選ばれた管理職が減らされ、教員が管理できないポストがどんどん増えつつあります。私は先にベンジャミン・ギンズバーグ氏の『教員の地位の没落』(The Fall of the Faculty)という本について言及しましたが、この本はジョンズ・ホプキンス大学やコーネル大学など幾つかの大学について、その実態を詳細に調べたものです。

これと同時に、最近の教員はますます非常勤講師(臨時雇いの教員)といった地位におとしめられてきています。彼らは終身教授になる道を閉ざされ、非常に不安定な身分を強要されています。私の知人にも実質的には永遠に非常勤講師のままで、正教員の地位を与えられないひともいます。毎年のように講師の地位を得るために申請し直さなければならないのです。こんなことはあってはならないことです。

また助手についてですが、これは制度化されてしまっていて、意思決定機関の一部であることを許されていません。彼らは身分の保障から排除されています。これでは問題を増幅させるだけです。職員についても同じで、彼らも意思決定機関に参画を許されるべきです。彼らも大学の構成員なのですから。

ですから、なすべきことは多くあります。しかしこのような傾向が広がっていることは容易に理解できるでしょう。それらはすべて、ビジネスモデルを生活のあらゆる側面に強制しようとする傾向の表れなのです。それは新自由主義の思想であり、世界の大半がこの40年間そのような思想の下で生きています。それは民衆にとってはきわめて有害な考え方で、
それに対する抵抗も続いてきました。しかも世界の二つの部分が、かなりそのような思想から抜け出していることは注目に値する事実です。ひとつは東アジアです。そのような考え方を全面的に受け入れてはいません。もう一つは南米で、そのような考え方をこの15年間、拒否し続けています。


4 いわゆる「雇用の柔軟性」の必要性について

「雇用の柔軟性」という言葉は工場労働者には非常になじみの深いものです。いわゆる「労働改革」の一部が、もっと労働を「柔軟」にするということで、言い換えれば雇用と解雇をもっと容易にするということです。それはまたもや、利潤の最大化と労働者の管理を確実にする方法です。「柔軟性」は良いことだとされているのです。それは「労働者の身分をもっと不安定化させる」のと同じように、経営者にとっては良いことなのです。そのことが是とされている産業は別にしても、大学についていえば、それを正当化できる理由は何もありません。

たとえば、学生の登録人数が規定数に達しなかった場合はどうでしょうか。それはたいして大きな問題ではありません。私の娘の一人は大学で教えていますが、先日の夜、電話をかけてきて、教えるコースが変わったというのです。教えることになっていたコースに学生が十分に登録せず、その人数が規定数に満たなかったからだそうです。しかしそれで世界が週末を迎えるわけではないのですから大騒ぎをすることはありません。大学側が教員の配置を少し変えて、別のコースか予備のコースを教えることになるだけです。コースの学生登録人数が変動したからといって、解雇されたり身分が不安定になるということは、あってはならないのです。そのような変化に対応する調節方法はいくらでもあるからです。

労働者は「柔軟性」という条件を満たすべきだという考えは、労働者を管理し支配する標準的技術のひとつにすぎません。その学期に何もすることがない[つまり閑職]というのであれば、なぜ経営者から首を切らないのでしょうか。理事でもよいでしょう。彼らがそのポストに就いていなければならない理由は何でしょうか。これは大学以外の産業についても同じです。労働者は柔軟であるべきというのであれば、経営者はどうなのでしょうか。彼らの大部分はほとんど無用ですし、むしろ有害である場合すらあります。だから彼らから首を切ればよいのです。

こんな風に話しているときりがありませんが、最近のニュースを取り上げてみましょう。例えばJPモルガン・チェイス銀行のCEO、ジエイミー・ディモンはどうでしょうか。彼は大金のボーナスを手に入れたばかりです。およそ給料の二倍です。これは銀行を刑事罰から救ったことに対する謝礼です。さもなければ経営陣は牢獄送りになっていたでしょう。それを彼はたった200億ドルの罰金で切り抜けたのです。そんな人物を解雇するほうが経済にとって有益だと思いませんか。しかし「労働改革」ということが問題になるとき、このようなことは話題になりません。「労働改革」で苦しむのは勤労者なのです。身分が不安定になり苦しまねばならないからです。明日のパンすらどこで手に入れたらよいか分かりません。だから躾けられて従順になり、疑問の声を上げたり権利を要求することもできません。

それが圧政的体制の仕組みです。ビジネス界は専制君主の体制なのです。そのような体制が大学にも適用されたらどうなるか。それはあなたも自分の目で十分ご覧になっているでしょう。これは暴き出されねばならない現実です。
(以下、次号に続く)
 
関連記事
スポンサーサイト
検索フォーム
プロフィール

狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

Author:狐狸庵居士(田舎の国立大学を2010年に定年退職)

リンク
最新記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
RSSリンクの表示
QRコード
QR