「英語が話せないのは日本人だけ」という神話、その3

チャータースクール、小中一貫の「義務教育学校」、中高一貫の「中等教育学校」、英語教育の外注(アウトソーシング)・民営化、英語教育(2015/09/08)

目次
1 はじめに
2 EUでも6割のひとが英語を解しない
3 何が英語学習・外国語学習を促すのか
4 教育を破壊する、「ザルみず効果」の英語教育
5 英語の害悪―公教育の民営化・差別化


5 英語の害悪―公教育の民営化・差別化
 先述の調査では、言語学習を阻害する要因として「時間がない」「十分なモチベーションがない」「費用がかかりすぎる」の3つをあげ、他方で言語学習を促進する要因については、「授業が無料であること」「金銭的な補助が受けられること」の2つが常に上位に挙げられていました。
 すでに紹介したように、「授業が無料であること」「金銭的な補助が受けられること」が、「十分なモチベーション」を持つ学習者には極めて効果的であることは、岐阜大学留学生センターの日本語プログラムでみごとに証明されています。彼らには短期集中型のプログラムで「無料」で「十分な学習時間」を与えられていたからです。
 とすると、政府文科省も英語教育に実を上げたいのであれば、全国に英語教育センターを設置し、「動機・目的が明確である学習者」に、留学生センターでおこなわれているのと同じような短期集中型の英語教育プログラムを、「無料」で実施すればよいだけなのです。
 そうすれば小学校英語に莫大な金を費やす必要もありませんし学校教育をゆがめる恐れもなくなります。また莫大な金をかけて外国人教師を輸入し小学校から大学に至るまで、くまなく配置する必要もありません。そこで浮いた予算を英語教師の海外研修に充てるほうが、はるかに英語教育に有益です。
 政府・文科省がこのような政策をとらないのは、そんなことをすると教育産業から強力な抗議や圧力があるからでしょう。公教育で教育効果が上がるのであれば、わざわざ英会話教室に行ったり、高価な英語教材を買う必要がなくなるからです。教育産業が儲かるためには、学校教育が効果を上げてもらっては困るのです。
 民営化できるものはすべて民営化して企業に儲けさせるのが現政府の経済政策ですから、英語教育もできるだけ外注(アウトソーシング)あるいは民営化し、経済活性化の道具として使いたいのでしょう。だからこそ、「大学入試もTOEFLなど民間企業が開発した検定試験を使え」という方針が出てくるわけです。
 もし現行のセンター試験に不備があるのであれば英知を集めてさらに優れた入学試験を開発させればすむ話で、わざわざ莫大な血税を民間の試験に浪費する必要はありません。ましてアメリカ企業が開発したアメリカ留学用のTOEFLに、莫大な血税を無駄遣いする理由は、まったく見当たりません。事実、他の教科はすべて自前の試験で間に合わせています。それとも将来は、他の入試科目もすべて民間会社に外注するつもりなのでしょうか。
 あれほどたくさんのノーベル賞受賞者を生み出している日本の知性が、TOEFLやTOEICに代わる、もっと良い入試問題をつくりだせないはずがないのです。それをしないでアメリカで開発された資格試験を使えというのは、どう考えても無理があります。考えられる国内の理由としては経済活性化策あるいは教育産業による圧力、そして外国の教育産業からの圧力以外に考えられません。もう一つ考えられるとすれば、ALTを無理やり輸入させられたときと同じように、貿易赤字を理由にしたアメリカ政府からの圧力です。
 いずれにしても、政府文科省の英語教育政策は、本当に国民の言語力を高める施策としては、あまりにも稚拙かつ強引すぎるのです。「英語の授業は日本語を使わず英語でおこなう」という方針についても同じです。もし「外国語を教えるときに日本語を使わないほうが教育効果があるのであれば、NHKの外国語講座はずっと以前からそうしていたはずです。しかしいまだに日本人が日本語を使って会話練習をしています。外国人がいても補助役にすぎません。そのほうが無駄がなく能率的だからです。
 このように考えてみると、政府文科省が「英語を話せないのは日本人だけ」という言説を振りまきつつ、学校教育のありかたを根本的に改革(改悪?)していることに、私は大きな危機感を感じています。そのひとつは英語教育の改革(=改悪)を突破口にして、公教育の民営化が将来どんどん進行するのではないかと思うからです。大学入試が民間企業に外注されようとしていることは、TOEFLその他を大学入試に使えという圧力になっていることは先に述べたとおりです。
 このような流れが強くなれば、将来は大学入試そのものを民間企業に任せようという動きが出てくる可能性は十分にあります。私学では入学生を確保するため1年間に何度も試験をするところが少なくないのですから、入試問題の作成や採点の負担から逃れたい教員が、このような動きを支持するかも知れません。今までは文科省と地方自治体が責任をもって全国の学校に配置していたALT(外国語指導助手)も、最近はその採用を民間の派遣業者に委託するところが増えているのですから、このような動きはますます強くなる可能性があります。
 アメリカでは、市民が手作りで立ち上げる学校という名目で「チャータースクール」が広がり、公教育の解体・民営化が着実に進行していますが(同時にこれは公立学校の組合解体と軌を一にしています)、同じことが日本でも広がらないという保証はどこにもありません。すでに国立大学は法人化され、学長権限の強化や大学財源の民間依存など、大学の運営形態も企業経営にますます近くなっています。アメリカは、ずっと以前から医療・保険・教育分野の規制緩和を強く迫ってきていたのですから(医療と保険についてはすでに一部は実現してしまっています)、同じことが大学以下の公教育についても進行するのではないかと私は恐れています。
 ところで、「英語を話せないのは日本人だけ」という言説をひとつの根拠にして進行している、もうひとつの「公教育のゆがみ」は、小中一貫校を制度化する動きです。このたび国会では改正学校教育法が成立し、2016(平成28)年度から小中一貫教育を実施する「義務教育学校」が創設されることになったからです。表向きの理由として、これによって子どものつまずきの大きな原因の一つである「中1ギャップ」が解消できるといったことがあげられていますが、この裏には小学校英語教育の先取り実践が大きく関わっているように思われるのです。
 精神年齢から言うと、中高一貫校をつくるほうがむしろ自然ですし、「高1ギャップ」のほうがもっと大きいのですから、「中1ギャップ」が解消できるという理由で小中一貫校をつくるというのは、あまり納得できる説明とは言えません。むしろ学校統廃合のために安易に利用される危険性のほうが大きいでしょう。
 実際、複数の小学校を統廃合するに当たり保護者や地域住民を説得する理由として小中一貫教育の導入を掲げるケースは少なくありません。これまでは郵便局や小学校の存在が地域を守るかなめになっていたのですが、このような統廃合は過疎地の部落をさらに過疎化させ崩壊させていくでしょう。すでにアメリカの要求で郵政が民営化され、郵便局が廃止された集落も少なくないからです。
 また、過疎化しているから統廃合して小中一貫校をつくるというのは、そもそも教育の原理から言うと間違っているのです。なぜならフィンランドはOECDの学力調査で世界のトップをいく国として有名ですが、国土に比して人口が少ないため過疎地に小学校があり、複式学級が普通になっています。つまり少人数教育が徹底しているから学力世界一になっているとも言えるのです。
 日本もそのような理想的な環境に近づきつつあるときに、それを統廃合して大学級にするというのは、全くばかげた行為としか言いようがありません(日本でも全国学力調査で一位になったのは過疎地の多い秋田県や福井県でした)。これでは、統廃合して小中一貫校をつくるというのは、教育予算を削りその分を軍事予算に回そうとするための工作ではないかと疑われても仕方がないでしょう。
 ですから、統廃合して小中一貫校をつくるというためには、別の理由づけが必要になります。そこで口実として使われるのが、「英語が話せないのは日本人だけ」→「だから英語ができる日本人を育てる」→「そのためには小学校からの英語教育が必要」→「小学校からの英語教育を効果あらしめるためには小中の連携が不可欠」という論理です。
 つまり、市区町村教育委員会が政府文科省の指導で、小中一貫校の「義務教育学校」を進めようとするとき、そのもう一つの口実となっているのが「小学校における英語教育の実を上げる」という言い方なわけです。
 その証拠に、私の住む岐阜県の小中学校をみていても、小学校英語を充実させることを選挙公約に掲げて当選する市長や町長が目立ちます。そこでは、小学校英語を充実させるためと称して中学校の英語教師が小学校に送り込まれたり、小中共同の研究会が頻繁に開かれたりしているからです。
 たとえば多治見市笠原小学校は、笠原中学校と連携して、2008年10月31日(金)に「文部科学省指定・研究開発学校(英語)第2期、笠原小中一貫教育公表会」と銘打って大々的な公開授業をおこない、全国からたくさんの参観者が訪れたそうです。
 しかも最近は、この「小中の連接を踏まえた英語教育の在り方~笠原型コンテント・ベイストの手法を用いて」をテーマとする公開授業が毎年のように開かれ、今年度は中学校英語の公開授業は300人の参観者を収容できる中学校の体育館を使い、小学校英語の公開授業は、そこからバスを何台も仕立てて笠原小学校へ移動するという力の入れようです。
 しかし小学校英語は見かけは華やかなのですが、実態は「ザルみず効果」に終わることが多く、基礎学力を荒廃させる危険性が極めて大きいのですから、時間と予算を浪費する分だけ有害無益であることは、これまで何度も述べてきたので繰りかえしません。ここで私がもっと問題にしたいのは、小学校英語を口実にした中高一貫校は、学校格差をさらに広げてしまうという点です。
 もともと、「初等教育」と「中等教育」を分けたのは、子どもの発達過程を踏まえていたからでした。「思春期」「反抗期」を迎えた若者の教育を「中等教育」としてひとまとめにしたのは、この年齢の指導は「初等教育」とは違った困難さがあり、指導方法も「初等教育」とは違わざるを得なかったからです。ですから一貫教育をすべきだというのであれば、「小中一貫」ではなく「中高一貫」にすべきでしょう。
 小中一貫の「義務教育学校」が問題なのは、この学校が上記のような教育原理を踏みにじっているだけでなく、学校格差と貧富の格差を固定する危険性があるからです。現在でも「中高一貫校」は私立学校が多く、今では東大・京大・慶応・早稲田のような難関大学への進学者の多くは、このような私立の有名な「中高一貫校」で占められています。しかも、このような私立の有名な「中高一貫校」に進学できるのは一部の裕福な家庭の出身者だけです。
 公立・国立の「中高一貫校」もないわけではないのですが、数が限られていて、ここに進学するのも並大抵のことではありません。高倍率・高得点のところが多いのですから、家庭教師をつけてもらえたり学習塾・予備校に通わせてもらえる裕福な師弟が進学できることになります。それに反して、そのようなゆとりがない家庭の師弟は、貧困者が通う小中一貫の「義務教育学校」ということになります。学習塾・予備校が存在しない田舎や過疎地の若者も当然このような公立・国立の「中高一貫校」に進学する機会を奪われます。
 しかも私立の「中高一貫校」では文科省の指導要領による縛りが非常にゆるいので、「英語で授業」をしなくても監視されたり校長に呼び出されて注意されることもありません。有名大学への進学率を上げてくれさえすればよいので、日本語を使って説明しながら文法や読解にもたっぷり時間をさくことができますから、入試でも高得点をとらせることができます。こうして、ますます「小中一貫校」への進学者と「中高一貫校」への進学者との間に格差が広がっていきます。
 これは同時に貧富の格差を拡大再生産します。なぜなら「中高一貫校」への進学者の進学者は有名大学に進学し、大学を卒業したときの就職先も当然ながら高給が得られるところになるからです。他方、公立学校の「小中一貫校」へ進学する圧倒的多数の貧困者や中産階級の若者は、有名大学に進学できませんから、就職先も派遣社員などが多くなり、その大多数が非正規労働者になっていくでしょう。アメリカでは公立学校と言えば、黒人やラテン系アメリカ人など貧困者が通う学校になってしまっていますが、同じ状況が日本にも出現することになるかも知れません。
 そして、このような学校格差を生み出す元凶、貧富の格差の拡大再生産の元凶が、「英語が話せないのは日本人だけ」→「だから英語ができる日本人を育てる」→「そのためには小学校からの英語教育が必要」→「小学校からの英語教育を効果あらしめるためには小中の連携が不可欠」という論理だったとすれば、英語が果たす罪は極めて重いと言わねばなりません。だとすれば、このような悪循環を断ち切る道は、「英語が話せないのは日本人だけ」という神話を打ち砕く以外にはありません。この小論がそのための一助になれば幸いです。(完結)
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