『英語で大学が亡びるとき:"英語力=グローバル人材"というイデオロギー』、その1

TOEIC&TOEFL、言語が商品となる時代、教育原理(2015/11/13)

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 拙著『英語で大学が亡びるとき:"英語力=グローバル人材" というイデオロギー』の最終校正を明石書店に送付し、やっと心と体を休めることができる喜びを噛みしめています。出版は今のところ11月30日(月)だそうです。
 この出版のため体をこわし10日ほど寝込んでしまったこともありました。そのときは体重が35.9キロにまで落ち込みましたが、今は39.5キロまで回復しました。体をこわさなければならないほど何故この本に打ち込まなければならなかったのか。
 それについては次に紹介する「あとがき」に詳しく書きました。いずれにしても、「英語化」「国際化」をひとつの駆動力にしながら急速に右傾化・軍事化していく日本(これ自体が非常に奇妙な事態です)にたいして、本書がささやかな警鐘になればと念じています。
 ただし、一挙にすべてを載せると読むのが負担になるかたがみえるかも知れないと考え、3回に分けて載せることにしました。なお、逆に「細切れで読まされるとかえって面倒」というかたのために、寺島研究室HPでは一挙掲載する予定です。

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あとがき

 本書は次の三部で構成されています。
1 京都大学で開かれた二つの国際シンポジウムで私がおこなった問題提起および基調提案、南山大学で開かれた日本フランス語教育学会で私がおこなった講演
二 京都大学新聞によるインタビュー(これは前編と後編の二回に分けて同紙に掲載された)に加筆修正を加えたもの、および「インタビューを終えて」と題して同紙に投稿したもの
三 私が書いているブログ「百々峰だより」に載せたなかから、大学の国際化に関連するものを選んで、それを大きく三つに分類し、さらに大幅な加筆修正を加えたもの

 私がこれまでに明石書店から出版した英語教育関係の著作は、ノーム・チョムスキーやハワード・ジンなどの翻訳を除けば、『英語教育原論』『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー』の二冊になります。
 前者の『英語教育原論』は副題がないので内容が分かりにくいのですが、第1章「英語教師、三つの仕事・三つの危険」という「英語教育論」「英語教師論」を除けば、残りの叙述のほとんどすべてが、当時の世論を二分した小学校英語の是非に充てられています。
 後者の『英語教育が亡びるとき』は、副題「『英語で授業』のイデオロギー」が示すように、文科省が新しい高等学校学習指導要領で「英語の授業は日本語を使ってはならない、英語でおこなえ」という方針を明記したことの是非を論じたものでした。
 要するに前者は小学校における英語教育を論じ、後者は高校における英語教育を論じたものです。ですから次に出すべき本は中学校における英語教育を論じたものになってしかるべきだったのですが、本書はそれを素通りして、大学における英語教育を論じたものになってしまいました。
 しかも「大学における英語教育」という場合、大学教養部すなわち共通教育における「教養科目としての英語教育」を思い浮かべるのが普通ですが、本書ではそれを飛び越して大学教育における英語の役割そのものを論じることになってしまいました。
 このような流れになってしまったのは、それを私が選んだからではなく、現在の政治情勢・教育政策が否応なしに私をそのような方向に押しやってしまったからでした。というのは大学設置基準が大綱化されてからは大学の共通教育にたいする縛りが緩くなり、外国語学習は第二外国語を必修としなくなったからです。
 その結果、国立大学でも独語・仏語などの履修者が激減し、それと並行して「教養・共通教育では役に立つ英語教育をしろ」という名目でTOEICを全員に受験させようとしたり、TOEIC受験対策を共通教育「英語」の授業内容として組み込めという暗黙の圧力が強くなってきました。このようなことを放置しておくと、共通教育における英語教育は、TOEIC受験対策を開講している予備校と何ら変わらなくなってしまいます。
 もっと問題なのは、岐阜大学のように医学部や工学部など理系学部を中心になりたっている大学で、ビジネス英語であるTOEICを強制受験させて何の意味があるかということです。ましてその受験対策のためにTOEIC受験問題集を共通教育「英語」の授業テキストとして使うようになれば、ただでさえ英語嫌いだった学生を、ますますを英語から遠ざけることになるでしょう。私の経験では、とりわけ工学部で共通教育「英語」を教えていたとき、「英語が嫌いだ」「英語が得意でない」からこそ工学部を選んだという学生が圧倒的に多かったからです。
 そのうえTOEIC受験には、もうひとつ別の問題があります。学生を強制受験させる場合は受験料を無料にしなければならないからです。そのためには教員の研究費を削って受験料に回さなければなりませんが、その一方で文科省からの交付金は年ごとに減らされる一方ですから、このTOEIC全員受験は二重の意味で無理・無駄を学生と教員に強いることになります。
 岐阜大学では、少なくとも教育学部では私たちの強い反対で「全員強制受験」を取りやめになり、「希望者受験」に切り替えましたが、しかしたとえ希望者受験であろうが、TOEICなどというアメリカ企業がつくりあげたビジネス英語を、研究費を削り税金を使ってまで受験させる意味は、まったくありません。
 しかも第二外国語を必修から外して外国語学習を英語に一極化し、英語以外の外国語を学ぶ機会を減らしたり奪ったりすることは、英語という眼鏡でしか世界を見れない学生を育てる危険性があるわけですから、これは単に独語教師や仏語教師の失職問題だけでは終わらない、それ以上に深刻な問題をはらんでいると言うべきなのです(これは本書で詳しく論じたので、これ以上の説明は割愛します)。
 ところが第二次安倍内閣になってから、今まではTOEICを振りかざして全国の大学を指導していた文科省が、今度は共通教育の「英語」どころか、共通教育の他の科目まで「英語で授業しろ」と言い始めました。そしていつのまにかTOEICではなくTOEFLを声高に叫び始めたのです。なぜこのような理不尽なことが次々と、しかも堂々とまかり通ってしまうのか、怒りを通り越して、あきれてものも言えない状態になりました。

 私が『英語教育原論』で小学校の英語教育を論じ、『英語教育が亡びるとき』で高校の英語教育を論じたあと、中学校英語ではなく、大学教育における英語問題に自分の研究や発言の重点を移さざるを得なくなったのには、このような背景がありました。
 かといって、ことは日本の未来に関わる重大事ですから、政府・文科省の言動にあきれてばかりもいられません。そこで明石書店にお願いして、今までに書きためたもの、講演やインタビューで語ったことを集めて緊急出版したいと強く思うようになりました。こうして出来上がったのが本書でした。
 しかし頁数の関係で本書に盛り込むことができなかったことや、本書の編集が終わったあとに起きた新しい出来事も少なくありません。そこで以下では、書き足りなかったこと言い足りなかったことを、「あとがき」というかたちで若干の補足をしたいと思います。

 冒頭でも述べたように、本書の第1章は京都大学でおこなわれた国際シンポジウム、第2章は京都大学新聞のインタビューが中心になっています。そこで大きな焦点になっているのが、「国際化を断行する大学」「共通教育の半分は英語で授業をおこなう」という京都大学の方針であり、そのための実効策としての「外国人教員一〇〇人計画」でした。
  その背景にあるのは「英語力=グローバル人材」という考え方ですが、これにたいする批判は本論で充分に展開したつもりなので、ここではそれを改めて繰りかえすことはしません。気になるのはこのような方針を掲げた京都大学のその後です。
 文科省が募集する平成二四年度「スーパーグローバル大学」に選定された京都大学は、「共通教育の半分は英語で授業をおこなう」という方針を実行するために「外国人教員一〇〇人計画」という政策を掲げたわけですが、このような政策をかかげた当時の京都大学総長・松本紘氏は今はいません。
 総長選考会議(その半数は学外委員)で、議長の安西祐一郞氏(元慶応義塾大学塾長、中央教育審議会会長)は、京都大学で従来からおこなわれてきた総長選挙=予備投票および意向投票を廃止し、基本的には総長選考会議だけで総長を選べる仕組みをつくろうとしました。
 それにたいする強い批判が学内で広がり、総長選考会議も予備投票・意向投票をふまえて総長を決めざるを得なくなったのでした。こうして現総長が続投する道は閉ざされ、その結果、新しく総長に選ばれたのが山極寿一氏でした。
 山極氏は、英語に一極化する国際化には批判的な人物です。そのことは本書でもふれました。しかしすでに文科省に提出した計画で京都大学は補助金をもらうことになっているのですから、いまさら「英語で授業」「外国人教員一〇〇人計画」を撤回するわけにもいかないでしょう。
 私はこの案にたいして本書では、「期限と人数まで決めて外国人を雇うわけだから能力が低い人物まで雇わざるをえなくなる危険性がある」「しかもこれは日本人の有能な若者が国内で研究者としての仕事が得られないことを意味し、頭脳流出につながりかねない」と批判しました。
 ところが事態は私が思い描いていたのとは少し違った方向に展開しているようです。というのは関西の大学にいる知人の話では、公募しても外国人研究者の応募が少ないので、手分けして「一本釣り」で外国人研究者を集めてこざるを得ない状況になっているというのです。
 今から考えてみると、これもある意味で当然、予想されたことでもありました。というのは私が東海北陸地区私立高等学校教育研究集会の講師として講演を頼まれたとき、「英語で授業をし、バカロレア試験も受験させている」というので有名な静岡県の私立高校が実践報告をしていたのですが、そのとき「外国人教員を雇っても給料の良いところへすぐ逃げ出してしまうので、教員確保に困っている」という話を聞いたからです。だとすれば、京都大学でも同じことが起きても不思議はなかったはずなのです。
 しかし私の頭では、ノーベル賞受賞者を多く輩出している、世界でも高名な京都大学のことだから、公募すれば、少なくとも人数だけは多くの応募者を確保できるだろうと予想していたのです。しかし、応募者が少なかったということは、世間はそれほど甘くなかったということでしょうか。
 ところが最近になって『中央公論』二〇一五年二月号に「大学国際化の虚実」という特集が載っていることを知り、さっそく取り寄せて読んでみました。すると、何と驚いたことに特集の最初に京都大学新総長の山極氏が「真の国際化とは何か」という一文を寄せているのです。
 しかも、そのなかで山極氏は、「なぜ日本の大学の外国人教員比率が低いかと言えば、給料の問題と居住環境の問題が大きい」「日本の大学、とくに国立大学の教員の給料は、外国、とくにアメリカの大学の教員と比べるとすごく安い」「京都は文化の厚みがある歴史的な町だから、毎日が楽しくて仕方がないと言ってくれる外国人も多いけれど、居住環境だけが整っていない」と述べていたのです。
 日本政府の公教育にたいする支出はOECDのなかでも最底辺のレベルにあることは周知の事実ですが、このようなことを放置しておいて文科省は、「大学世界ランキング」でトップレベルを目指せと尻をたたいているのです。しかし、それがいかに絵に描いた餅にすぎないかが、はしなくも京都大学の人事で露呈してしまったように思えました。
 この人事について知らせてくれた知人は、そのとき『中央公論』二〇一五年七月号に「外国人教員から見た、日本の大学の奇妙なグローバル化」という論文が載っていることも知らせてくれました。この論文は京都大学と九州大学に勤務する二人の准教授(前者はアメリカ人、後者はイギリス人)による共著論文でした。
 この論文については本書の第3章註5でかなり詳しく紹介したので、ここでは詳細は割愛させていただきますが、そこで彼らは、「外国人教員の召致に熱心なのは結構だが、それよりも心配すべきなのは日本人の優秀な研究者の頭脳流出ではないか。上意下達化している教授会その他の会議に、教員が意味のない出席を義務づけられ、事務員に出席しているかどうかだけを監視され点検されることに、教員は嫌気がさしているからだ」と書いていたのです。
 理事長や学長が権力をふるっている私立大学や地方の国立大学ならいざ知らず、天下の旧制帝大ですら議論の自由がなく、かつ教育と研究に専念できる環境が保障されていないことに私は驚かされました。このような環境に外国人教員が魅力を感じるはずがないのです。彼らは次のようにすら書いていました。
 「(大学改革の)本来の目的は、日本に当然あって然るべき高いレベルの授業と研究が大学で行われるようにすることでなければならない。これが実現すれば、文科省は国際的にトップレベルの学者を惹き付けるために特別な資金をあえて用意する必要はない。なぜならば、彼らは自発的にやってくるだろうから。」(一八七頁)
 これを読むと、現政権の大学改革がいかに荒唐無稽のものであるかが、日本人にとってだけでなく外国人の眼にとっても歴然としていることがよく分かります。というよりも、外国人だからこそ、より鮮明に見えた大学の姿かも知れません。

 ところで、先に紹介した『中央公論』二〇一五年二月号の「大学国際化の虚実」という特集に、もうひとつ私の目を惹いた記事がありました。それは「もし日本のすべての大学の授業が英語でおこなわれたら――斜めから見たグローバル化」という論文です。
 これを書いた清水真木氏(明治大学教授)は、数年前からグローバル化を肯定する「空気」が次第に濃くなり自分のような哲学を担当しているのんきな身分の教員ですら息苦しさを感じるようになった、そして英語で授業した実績がないと不利益を被ることになるのではないかといういやな予感が頭から離れなくなったというのです。
 そこで清水氏は履修者の多くない授業(週に一コマ、半期だけ、三年生以上)で実験することにしたそうです。この実験で得た結論を氏は次のように述べています。
 「日本語で聴いて分からないものを英語で聴いて分かるはずがない」「英語で聴いて分かる話のレベルが、日本語で聴いて分かる話のレベルを超えることはありえない」、したがって「英語による授業の割合が増えるとともに、これに比例して、大学が提供する授業の質の平均的なレベルが低下する」(一四五頁)
 このような結論は、私が京都大学国際シンポジウムの基調講演で述べたこと(二〇一四年一一月、第1章第2節に採録)と符合していて極めて興味深いものでしたが、しかし私にとっては実験するまでもなく、これは自明のことでした。しかし清水氏は、自らも述べているように、「実際に授業し、学生の反応を見るまで、うかつにもこれに気づかなかった」と言うのです。
 あの基調講演で私は次のように述べました。
 「有名な笑い話に『難しいことを易しく説明するのは小学校教師、易しいことを難しく説明するのが大学教師』というものがあるからです。大学教師や高校教師は、日本語で説明する授業でさえ、一般的には、小学校教師よりも下手なのです。だとすると、高校や大学で、日本語を使ってですら、上手く生徒・学生に説明できない教師が、日本語で説明してもきちんと理解できない生徒・学生を相手にして、英語で授業をしたら、どんな悲惨な結果になるか、想像に難くないでしょう。」
 ところが政府・文科省には、このような自明な結論が未だに見えていないのです。たぶん彼らも清水氏と同じように、日本の大学・学生のレベルが目に見えて低下するまでは、このことに気づかないのかもしれません。しかし、それでは大学が崩壊してしまいます。そうなってからでは遅すぎるのです。だからこそ私は本書の緊急出版を明石書店にお願いしたのでした。
(続く)



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