ジョン・ピルジャー「タリバンを育てたアメリカ」 その1

国際教育2016/09/29、ジョン・ピルジャー、タリバン(神学生)、ムジャヒディン(聖戦士)、王制独裁国家アフガン、アフガン人民革命1978、アフガン人民民主党(PDPA)

ジョン・ピルジャー
ピルジャーとウィキリークスの創始者アサンジ

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*ジョン・ピルジャーとジュリアン・アサンジは、二人ともオーストラリア国籍で英国在住
(アサンジは、ロンドンのエクアドル大使館に亡命したが英国政府によって幽閉状態に追い込まれている)



 いま英語教育の現場では、タリバンによって頭を撃ちぬかれたマララ・ユスフザイさんのノーベル平和賞受賞演説(&国連演説)が検定教科書にも採録され、教材として使われています。
 つい先日も知り合いの英語教師から「マララ演説を授業で使いたいのだが何かアドバイスを」というメールをいただきました。
 しかし、彼女の演説が教材として使われることは、ひとつの危険性を伴います。
 というのは、彼女の演説が広まれば広まるほど、アメリカに主導されたNATO軍がアフガニスタンに居座ること、アメリカが無人爆撃機Droneで民間人を殺戮していることが、あたかも正当であるかのように若者の頭脳に定着しかねないからです。
 事実、アメリカがイラクを侵略したときも、リビアを爆撃し破壊したときも、そして今はシリアに介入する口実としても、チョムスキーの言う「人道的軍事主義」が使われているからです。ユーゴスラビアにたいする爆撃・解体のときも全く同じだったことは、先のブログで紹介したとおりです。
 その一方で、肝心のアメリカがムジャヒディン(聖戦士)というの名のイスラム原理主義者集団を育て上げ、それが後のタリバンとなり、今は「イスラム国」と名乗りながら、シリアで破壊行為・残虐行為を繰りかえしていることは、大手のメディアでは、ほとんど紹介されていません。
 そこで以下では、世界的に著名な調査報道記者ジョン・ピルジャーの論考を紹介して、皆さんの参考に供したいと思います。
 これを読んでいただければ、アメリカが「911事件」を口実にして攻撃する以前のアフガニスタンがいったいどのような国だったのか、それを破壊するテロリスト集団をどのようにしてつくりあげたのかが、よく分かってもらえるのではないかと、考えるからです。
 そして、このような視点を教師がもっていないかぎり、あるいは教師が参考資料としてこのような事実をも提示しないかぎり、、いつのまにかマララ演説はアメリカ賛美の教材として生徒の頭脳に定着していくでしょう。

<註> ジョン・ピルジャーについては、以前のブログ「ユーゴの空爆と解体、元ユーゴスラビア大統領ミロシェヴィッチへの無罪判決は何を語っているか」も参照ください。
http://tacktaka.blog.fc2.com/blog-entry-269.html



「イスラム原理主義集団を育てたアメリカ」(上)
(ジョン・ピルジャー『世界の新しい支配者たち』岩波書店、2004:194-200頁)


 イラクが九・一一に関わりがあったという、もっとも重要な「証拠」は、ツインタワーへの自爆ハイジャッカーのリーダーとされているモハメッド・アタがチェコ共和国でイラクの情報部員と会ったというものである。
 英国の新聞によれば、その情報部員は、「下級情報部員」(『ガーディアン』紙)から、「中級」(『インディペンデント』紙)、「上級」(『フィナンシャル・タイムズ』紙)、さらには「バグダッドの情報機関のトップ」(『タイムズ』紙)にまで昇進している。このうち『フィナンシャル・タイムズ』紙だけが「会合は実際にあったのかどうか」、あったとしても、「それがツインタワーの破壊と何らかの意味で関係があったのかどうか」について疑問を提起している。BBCの『ニュースナイト』では、外務省詰めのマーク・アーバンが、「サダム・フセインが発射を計画しているミサイル」に関しての「秘密情報」があったと伝えている。
 これとは逆に「イラク・コネクション」の疑わしさがトップニュースになることはなかった。『デイリー・テレグラフ』紙だけが、二〇〇一年一二月一八日に、モハメッド・アタはチェコ共和国に入国したことはなかったと、チェコ警察が否定していることを報道した。二〇〇二年二月五日の『ニューヨーク・タイムズ』紙が、「およそ十年間にイラクがアメリカに対する何らかのテロ行為に関わったという証拠をCIAは入手していないし、サダム・フセイン大統領がアルカイーダに化学兵器あるいは生物兵器を提供したことはないとCIAは確信している」と報道したときにも、あるのは沈黙だけだった。
 無視というのはもっとも悪質な検閲である。アフガニスタンに関する多くの報道のなかで、この世界でもっとも貧しい国のひとつをアメリカが攻撃することを正当化したのは、邪悪なタリバーンを想起させる強力なイメージだった。基本的な人権を否定され、テントのようなブルカをまとった女性たちの写真は、世界に女性への迫害を訴えた。タリバーンの誕生と狂信的なジハード(聖戦)をつくりだすにあたってアングロ・アメリカンが果たした役割について、大手メディアが言及することはめったになかった。この忘れ去られていた社会が、この数年間、異常な時代を経験したことへの言及もなかった。このことを理解していれば、ブレアの言う「人権と文明の価値のための戦争」を本当の文脈のなかに置くこともできただろう。

 一九六〇年代に、アフガニスタンでは解放運動が起こった。その中心になったのはアフガニスタン人民民主党(PDPA)で、ザヒール・シャー国王の独裁支配に反対し、一九七八年、ついに国王の従兄弟、マハメッド・ダウドの政権が打倒された。それは、あらゆる意味で幅広い人民の革命だった。
 『ニューヨーク・タイムズ』紙は、カブールにいた多くの外国人ジャーナリストがインタビューしたアフガニスタン人の誰もが、このクーデタを喜んでいると言っていると報じた。『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙は、「新しい国旗に敬意を表するために一五万人が行進した・・・。参加者は心の底から感激しているようだった」と報じた。『ワシントン・ポスト』紙は、「アフガニスタン国民の新政権への忠誠は疑いの余地がない」と書いている。
 新政権は、男女平等、宗教の自由、少数民族への権利、農村における封建制の廃止など、これまでは認められていなかった諸権利の承認を含む新しい改革計画を発表した。一万三千人以上が獄中から釈放され、警察のファイルが公式に焼却された。
 部族主義と封建制のもとで、平均寿命は三五歳、幼児の三人に一人は死亡した。識字人口は、人口の九パーセントだった。新政権は貧困地域には無料医療を導入した。強制労働は廃止され、大規模な識字運動が開始された。女性たちとっては、これまでに聞いたことのないような前進だった。一九八○年代後半には、大学生の半数が女性となった。アフガニスタンの医師の四〇パーセント、教員の七〇パーセント、公務員の三○パーセントは女性になった。
 実際、この変化は極めて急激だったので、その恩恵を受けた者は今でもありありと、それを記憶している。二〇〇一年九月にタリバーンから逃れた女性の外科医、サイーラ・ヌーラニはこう語っている
 「女子でも皆、高校にも大学にも行けた。どこにでも行きたいところに行き、着たいものを着ることができた……。喫茶店にでも行けたし、金曜日には最新のインド映画を見に映画館に行くことも、最新のヒンドゥー語の音楽を聴くこともできた……。ムジャヒディーンが勝利し始めると、こうしたことすべてが悪いことになった……。教師を殺し、学校を燃やした……。私たちは怯えた。こうした人たちのことを西欧が支援していたのは滑稽だし、悲しいことだった。」

(次回「その2」に続く)

<註> 上記の翻訳は、読みやすくするため、寺島が改訳改行を加えてあります。


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