ジョン・ピルジャー「タリバンを育てたアメリカ」その2
国際教育2016/09/30、タリバン(神学生)、ムジャヒディン(聖戦士)、アフガン人民革命1978、大統領補佐官ズビグニェフ・ブレジンスキー、「サイクロン作戦」
ズビグニェフ・ブレジンスキー


(右側写真) 銃を持つビン・ラディンと並んで立つ、ブレジンスキー
http://www.bibliotecapleyades.net/sociopolitica/sociopol_brzezinski06.htm
前回のブログでは、1978年にアフガンで王制独裁国家を倒す革命が起きたことを紹介しました。それは、ピルジャーによれば、「あらゆる意味で幅広い人民の革命」でした。そして新しい政権のもとでは次のような明るい光景が広がっていました。
「女子でも皆、高校にも大学にも行けた。どこにでも行きたいところに行き、着たいものを着ることができた……。喫茶店にでも行けたし、金曜日には最新のインド映画を見に映画館に行くことも、最新のヒンドゥー語の音楽を聴くこともできた。」
「新政権は貧困地域には無料医療を導入した。強制労働は廃止され、大規模な識字運動が開始された。女性たちとっては、これまでに聞いたことのないような前進だった。一九八○年代後半には、大学生の半数が女性となった。アフガニスタンの医師の四〇パーセント、教員の七〇パーセント、公務員の三○パーセントは女性になった。」
これを革命以前の次のような状態と比べてみてください。
「部族主義と封建制のもとで、平均寿命は三五歳、幼児の三人に一人は死亡した。識字人口は、人口の九パーセントだった。」
しかし、できたばかりの新政権は、「男女平等、宗教の自由、少数民族への権利、農村における封建制の廃止など、これまでは認められていなかった諸権利の承認を含む新しい改革計画」を発表したのでした。
その結果として現出したのが冒頭で紹介したような明るい光景でした。ところが、アメリカが育てあげたムジャヒディン(聖戦士)と呼ばれるイスラム原理主義集団が、新政権と戦って勝利し始めると、一転して次のような暗い光景が広がり始めたのでした。
「ムジャヒディーンが勝利し始めると、こうしたことすべてが悪いことになった……。教師を殺し、学校を燃やした……。私たちは怯えた。こうした人たちのことを西欧が支援していたのは滑稽だし、悲しいことだった。」
では、アメリカは何故どのようにしてムジャヒディンを育て上げ、彼らにどのように資金援助や武器援助をしたのでしょうか。以下のピルジャー記者の説明をよく読んでいただきたいと思います。
「イスラム原理主義集団を育てたアメリカ」(下)
(ジョン・ピルジャー『世界の新しい支配者たち』岩波書店、2004:194-200頁)
人民民主党政権の問題は、ソ連の支援を受けていた、ということだった。その中央委員会はスターリニスト的ではあったが、西欧で言われていたような「傀儡政権」ではなかったし、当時の西側のプロパガンダが主張したようにソ連に支援されたクーデタでもなかった。カーター大統領時代のサイラス・バンス国務長官が回想録のなかで、「クーデタにソ連が関与したという証拠は何もなかった」と認めている。
カーター政権のもう一人の実力者だったズビグニェフ・ブレジンスキー国家安全保障問題担当補佐官は、アメリカのベトナムにおける屈辱を挽回する必要があったと考えており、ポスト・コロニアルの解放運動の前進は、世界中どこでもアメリカに対する挑戦となったと考えた。そのうえ、アングロ・アメリカは、中東と湾岸における最良の取引相手だった王制独裁国家イランを、「防衛する」必要があった。アフガニスタンが人民民主党のもとで成功したならば、それが「前例となる可能性」があり、脅威になると考えられた。
一九七九年七月三日、アメリカの世論にも議会にも知られないまま、カーター大統領はムジャヒディーン(聖戦士)として知られる部族グループを支援するために五億ドルの秘密工作計画を許可した。その目的はアフガニスタンで最初の非宗教的な進歩政権を打倒することだった。冷戦時代の神話とは逆に、ソ連のアフガニスタン侵攻とは何の関係もなかった。ソ連がアフガニスタン侵攻したのは、それから六か月後のことだった。
実際、ソ連がアフガニスタンに対して決定的な行動に出るのは、部族主義義的、宗教主義的な「テロリズム」に対応するためだったということをすべての証拠が示している。ちょうどアメリカが二〇〇一年一一月の侵攻を正当化するときに使った「テロリズム」と同じ類いのものだった。[したがってソ連のアフガニスタン侵攻が悪であれば、同じようにアメリカによるイラク侵攻は非難されねばならなかった。]
ところが、一九九八年のインタビューのなかで、ブレジンスキーはアメリカの役割についてワシントンが嘘をついていたことを認めている。
「歴史の公式解釈では、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した後の一九八○年にCIAがムジャヒディーンを支援したことになっている……。しかし実際には、今日まで秘密にされてきたが、まったく逆だった。」
一九七九年八月に、カブールの米大使館は次のように報告している。
「アメリカによるムジャヒディーンの支援によって、アフガニスタンの将来の経済的、社会的改革がどのように遅れようとも、(人民民主党政権の)消滅によって、アメリカに大きな利益がもたらされるだろう」
こうして、ワシントンは地球上でもっとも残虐な狂信者の一部とのファウスト的な取引を始めたのだった。グルブディン・ヘクマティヤルのような男たちがCIAから数百万ドルを受け取ったのである。
ヘクマティヤルの特技は、大麻の取引と、ベール着用を拒んだ女性の顔に酸をかけることだった。彼は、一九八六年、ロンドンに招かれて、サッチャー首相から「自由の戦士」として賞賛された。人民民主党政権が続いた一九七八年から一九九二年の間に、ワシントンは四〇億ドルをムジャヒディーンの各派に注ぎ込んだ。
ブレジンスキーの計画は、中央アジア全体にイスラム原理主義を広げることで、ソ連を「不安定化させ」、彼が回想録に書いている言葉で言えば、「ムスリムの反乱」を創りだすことだった。ブレジンスキーの壮大な計画は、パキスタンの独裁者、ジヤ・ウル・ハック将軍の、この地域を支配したいという野望とも合致した。
一九八六年にCIA長官ウィリアム・ケーシーは、パキスタンの情報機関ISIが世界中から人をリクルートしてアフガニスタンのジハードに参加させるという計画の実施を支援した。一九八二年から一九九二年までの間に十万人のイスラム兵士がパキスタンで訓練された。
作戦要員は、最終的にはタリバーンやオサマ・ビン・ラディンのアルカイーダに加わることになる(タリバーンとは「神学生」「神学校の生徒・学生」を意味している)。
ニューヨークのブルックリンにあるイスラム大学でリクルートされた学生は、ヴァージニア州のCIAキャンプで準軍事的な訓練を受けた。これは「サイクロン作戦」と名づけられていた。
他方、パキスタンでは、ムジャヒディーンの訓練キャンプが、CIAと英国のMI6によって運営され、英国のSAS(陸軍特殊空挺部隊)が未来のアルカイーダやタリバーンの戦士たちに爆弾製造技術を初めとして、さまざまなテロ技術を訓練していた。これは、一九八九年にソ連軍がアフガニスタンを撤退した後になってもずっと続いていた。
一九九二年、人民民主党政権が最終的に崩壊したとき、西欧のお気に入りの軍閥の首領、グルプディン・ヘクマティヤルは、アメリカが供給したミサイルの雨をカブールに降らせ、二千人を殺戯し、他の派閥も最終的に彼が首相となることを承認した。
人民民主党の最後の大統領、モハメッド・ナジブラーは、国連総会に対して必死に助けを求め、カブールの国連施設の敷地内に避難した。ナジブラーは、一九九六年にタリバーンが政権を樹立するまで、その国連施設にとどまっていた。タリバーンは、このナジブラーを街灯に縛り首にした。
翻訳の紹介はここまでです。ただし上記の翻訳は、読みやすくするため、私による改訳改行を加えてあります。
次回のブログでは、以上のピルジャー論考を元にして、マララ演説を英語教育の教材として使うことの意味を、もういちど考えてみたいと思います。
ズビグニェフ・ブレジンスキー


(右側写真) 銃を持つビン・ラディンと並んで立つ、ブレジンスキー
http://www.bibliotecapleyades.net/sociopolitica/sociopol_brzezinski06.htm
前回のブログでは、1978年にアフガンで王制独裁国家を倒す革命が起きたことを紹介しました。それは、ピルジャーによれば、「あらゆる意味で幅広い人民の革命」でした。そして新しい政権のもとでは次のような明るい光景が広がっていました。
「女子でも皆、高校にも大学にも行けた。どこにでも行きたいところに行き、着たいものを着ることができた……。喫茶店にでも行けたし、金曜日には最新のインド映画を見に映画館に行くことも、最新のヒンドゥー語の音楽を聴くこともできた。」
「新政権は貧困地域には無料医療を導入した。強制労働は廃止され、大規模な識字運動が開始された。女性たちとっては、これまでに聞いたことのないような前進だった。一九八○年代後半には、大学生の半数が女性となった。アフガニスタンの医師の四〇パーセント、教員の七〇パーセント、公務員の三○パーセントは女性になった。」
これを革命以前の次のような状態と比べてみてください。
「部族主義と封建制のもとで、平均寿命は三五歳、幼児の三人に一人は死亡した。識字人口は、人口の九パーセントだった。」
しかし、できたばかりの新政権は、「男女平等、宗教の自由、少数民族への権利、農村における封建制の廃止など、これまでは認められていなかった諸権利の承認を含む新しい改革計画」を発表したのでした。
その結果として現出したのが冒頭で紹介したような明るい光景でした。ところが、アメリカが育てあげたムジャヒディン(聖戦士)と呼ばれるイスラム原理主義集団が、新政権と戦って勝利し始めると、一転して次のような暗い光景が広がり始めたのでした。
「ムジャヒディーンが勝利し始めると、こうしたことすべてが悪いことになった……。教師を殺し、学校を燃やした……。私たちは怯えた。こうした人たちのことを西欧が支援していたのは滑稽だし、悲しいことだった。」
では、アメリカは何故どのようにしてムジャヒディンを育て上げ、彼らにどのように資金援助や武器援助をしたのでしょうか。以下のピルジャー記者の説明をよく読んでいただきたいと思います。
「イスラム原理主義集団を育てたアメリカ」(下)
(ジョン・ピルジャー『世界の新しい支配者たち』岩波書店、2004:194-200頁)
人民民主党政権の問題は、ソ連の支援を受けていた、ということだった。その中央委員会はスターリニスト的ではあったが、西欧で言われていたような「傀儡政権」ではなかったし、当時の西側のプロパガンダが主張したようにソ連に支援されたクーデタでもなかった。カーター大統領時代のサイラス・バンス国務長官が回想録のなかで、「クーデタにソ連が関与したという証拠は何もなかった」と認めている。
カーター政権のもう一人の実力者だったズビグニェフ・ブレジンスキー国家安全保障問題担当補佐官は、アメリカのベトナムにおける屈辱を挽回する必要があったと考えており、ポスト・コロニアルの解放運動の前進は、世界中どこでもアメリカに対する挑戦となったと考えた。そのうえ、アングロ・アメリカは、中東と湾岸における最良の取引相手だった王制独裁国家イランを、「防衛する」必要があった。アフガニスタンが人民民主党のもとで成功したならば、それが「前例となる可能性」があり、脅威になると考えられた。
一九七九年七月三日、アメリカの世論にも議会にも知られないまま、カーター大統領はムジャヒディーン(聖戦士)として知られる部族グループを支援するために五億ドルの秘密工作計画を許可した。その目的はアフガニスタンで最初の非宗教的な進歩政権を打倒することだった。冷戦時代の神話とは逆に、ソ連のアフガニスタン侵攻とは何の関係もなかった。ソ連がアフガニスタン侵攻したのは、それから六か月後のことだった。
実際、ソ連がアフガニスタンに対して決定的な行動に出るのは、部族主義義的、宗教主義的な「テロリズム」に対応するためだったということをすべての証拠が示している。ちょうどアメリカが二〇〇一年一一月の侵攻を正当化するときに使った「テロリズム」と同じ類いのものだった。[したがってソ連のアフガニスタン侵攻が悪であれば、同じようにアメリカによるイラク侵攻は非難されねばならなかった。]
ところが、一九九八年のインタビューのなかで、ブレジンスキーはアメリカの役割についてワシントンが嘘をついていたことを認めている。
「歴史の公式解釈では、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した後の一九八○年にCIAがムジャヒディーンを支援したことになっている……。しかし実際には、今日まで秘密にされてきたが、まったく逆だった。」
一九七九年八月に、カブールの米大使館は次のように報告している。
「アメリカによるムジャヒディーンの支援によって、アフガニスタンの将来の経済的、社会的改革がどのように遅れようとも、(人民民主党政権の)消滅によって、アメリカに大きな利益がもたらされるだろう」
こうして、ワシントンは地球上でもっとも残虐な狂信者の一部とのファウスト的な取引を始めたのだった。グルブディン・ヘクマティヤルのような男たちがCIAから数百万ドルを受け取ったのである。
ヘクマティヤルの特技は、大麻の取引と、ベール着用を拒んだ女性の顔に酸をかけることだった。彼は、一九八六年、ロンドンに招かれて、サッチャー首相から「自由の戦士」として賞賛された。人民民主党政権が続いた一九七八年から一九九二年の間に、ワシントンは四〇億ドルをムジャヒディーンの各派に注ぎ込んだ。
ブレジンスキーの計画は、中央アジア全体にイスラム原理主義を広げることで、ソ連を「不安定化させ」、彼が回想録に書いている言葉で言えば、「ムスリムの反乱」を創りだすことだった。ブレジンスキーの壮大な計画は、パキスタンの独裁者、ジヤ・ウル・ハック将軍の、この地域を支配したいという野望とも合致した。
一九八六年にCIA長官ウィリアム・ケーシーは、パキスタンの情報機関ISIが世界中から人をリクルートしてアフガニスタンのジハードに参加させるという計画の実施を支援した。一九八二年から一九九二年までの間に十万人のイスラム兵士がパキスタンで訓練された。
作戦要員は、最終的にはタリバーンやオサマ・ビン・ラディンのアルカイーダに加わることになる(タリバーンとは「神学生」「神学校の生徒・学生」を意味している)。
ニューヨークのブルックリンにあるイスラム大学でリクルートされた学生は、ヴァージニア州のCIAキャンプで準軍事的な訓練を受けた。これは「サイクロン作戦」と名づけられていた。
他方、パキスタンでは、ムジャヒディーンの訓練キャンプが、CIAと英国のMI6によって運営され、英国のSAS(陸軍特殊空挺部隊)が未来のアルカイーダやタリバーンの戦士たちに爆弾製造技術を初めとして、さまざまなテロ技術を訓練していた。これは、一九八九年にソ連軍がアフガニスタンを撤退した後になってもずっと続いていた。
一九九二年、人民民主党政権が最終的に崩壊したとき、西欧のお気に入りの軍閥の首領、グルプディン・ヘクマティヤルは、アメリカが供給したミサイルの雨をカブールに降らせ、二千人を殺戯し、他の派閥も最終的に彼が首相となることを承認した。
人民民主党の最後の大統領、モハメッド・ナジブラーは、国連総会に対して必死に助けを求め、カブールの国連施設の敷地内に避難した。ナジブラーは、一九九六年にタリバーンが政権を樹立するまで、その国連施設にとどまっていた。タリバーンは、このナジブラーを街灯に縛り首にした。
翻訳の紹介はここまでです。ただし上記の翻訳は、読みやすくするため、私による改訳改行を加えてあります。
次回のブログでは、以上のピルジャー論考を元にして、マララ演説を英語教育の教材として使うことの意味を、もういちど考えてみたいと思います。
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