エジプトの民衆蜂起から何を学ぶか(5)―「頭髪・服装指導」と「英語でディベート」への疑問

今日(2月27日)は、前々回のブログ「英語教育の目的と方法を問い直す」で書き残したことを書くつもりでしたが、その前段が長くなって、なかなか目的地に到達できません。

それで少しイライラしています。翻訳が予定のスケジュール通りに進まないので、なおさらです。しかし頑張って先を急ぐことにします。

さて、その前々回のブログで、エジプトの民衆蜂起で大きな役割を演じた若い女性アスマ・マフフーズの映像と訴えを紹介しました。そして、「彼女の訴えを英語に翻訳したものがあるから、それを読解教材や音声教材として利用したらどうか」という提案もしました。

ところが、しばらくぶりに Democracy Now Japan! をアクセスしてみたら、私が前回に紹介した若い女性アスマ・マフフーズだけでなく、エジプトの民衆蜂起で大きな役割を演じた、もうひとりの若者ワエル・ゴニムの映像と訴えも、「動画エクスプレス」として、字幕付きでアップされていることが分かりました。

エジプト蜂起の火付け役アスマ・マフフーズのYouTubeビデオ
http://democracynow.jp/video/20110208-2
エジプト蜂起のフェイスブック呼びかけ人、ワエル・ゴニム 「私は英雄ではない」
http://democracynow.jp/video/20110208-3

ワエル・ゴニムについて前々回のブログで少し書きましたが、彼はエジプト当局に密かに拘束されていました。彼は、12日間の牢獄生活の後、釈放されました。そこでローカルテレビ番組が彼にインタビューを申し込み、その結果、上記の訴えになったのでした。

ですから、これは、民衆への決起を直接に訴えるものではなかったのですが、若き女性マフフーズの訴えを全土をに配信する道具=フェイスブックの運営・管理者だったとして、エジプトではあっという間に英雄になってしまいました。

しかし彼は「俺は英雄ではない。皆が広場や街頭で血を流しているときに俺は牢屋で寝ていただけだ。本当の英雄は体を張って闘った(或いは死んでいった)若者や民衆だ。俺を英雄扱いしないでくれ」と涙ながらに訴えたのでした。

これがアスマ・マフフーズの訴えと重なって感動を呼び、1月25日(火)の大集会を成功につながったのでした。

アラビア語による彼の訴えも、上記の「字幕版」を視聴すれば、字幕がありますから、訴えていることの内容も分かります。また翻訳された英文も付いていますから、英語学習の教材としても最適です。

前回のブログでアスマ・マフフーズさんを紹介したときにも述べたことですが、「単文の羅列だけでこれほど人を動かす英語が話せる(書ける)のだ」ということを生徒・学生に教えるのに、これは最適の教材ではないかと思うからです。

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ところで、前回のブログでは次のようなことも書きました。

<インターネットの独立メディアDemocracy Now! を毎日のように視聴・購読しながら、今度の「エジプトの民衆蜂起」を追いかけてきて思ったことは、英語を「読む力」「聴く力」の大切さ・重要さです。>

上記の字幕付きの「動画エクスプレス」を見ると、ますます英語を「読む力」「聴く力」の大切さ・重要さを確信させられます。

というのは、この字幕付き動画を配信しているDemocracy Now Japan! の活躍なしには、英語が読めない一般の日本人は、米国の独立メディアDemocracy Now! による目の覚めるような報道に接することは不可能だからです。

Democracy Now Japan! は、日本の大手メディアがますます「権力の召使い」「財界の従僕」に成り下がりつつある現状に我慢ができず、せめて米国の独立メディアDemocracy Now! の報道を翻訳して日本の人たちに伝えようではないか、との趣旨で起ち上げられたものでした。

その翻訳にたずさわっている人たちの多くが女性ですから、「女性パワー」のすごさを改めて認識させられます。

それはともかくとして、ここで第1に必要なのは「読む力」であって、「話す力」ではありません。彼女たちの英語を「読む力」がDemocracy Now Japan! を支え、それが日本のメディア界に新風を吹き込んでいます。

つまり日本で英語が一般庶民のために最も生きたかたちで役立っているのは、「読む力」であって「話す力」ではないということを、いちばん明瞭に示してくれているのが、Democracy Now Japan! の仕事ではないのか、と私は言いたいのです。

そして最近では、それが、Democracy Now Japan! 「動画エクスプレス」というかたちで更に機動性を増しています。

エジプトの民衆蜂起をきっかけに、Democracy Now Japan! に新しい番組「動画エクスプレス」がスタートしました。そのトップページには下記のように書かれていました。

<いますぐ見たい動画を超特急でアップする「動画エクスプレス」のページをつくりました。まずはエジプトの民衆蜂起から。若干ラフなのはお赦しください。>

私が上記で紹介した「エジプト蜂起の火付け役アスマ・マフフーズのYouTubeビデオ」「エジプト蜂起のフェイスブック呼びかけ人ワエル・ゴニム「私は英雄ではない」は、そのトップバッターだったということになります。
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<註> Democracy Now Japan! 「動画エクスプレス」の3番目に載っているのは、数々の賞を受賞している著名な中東ジャーナリスト=ロバート・フィスクが、カイロの現場から歴史的なエジプトの民衆蜂起を語ったものです。これを見ると、オバマ政権の偽善がいかなるものかがよく分かっていただけると思います。

ロバート・フィスク 「差しのべた手を握りこぶしに変えたオバマ」
http://democracynow.jp/video/20110203-5

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ところが、昨今の英語教育は、英語が話せないと全く英語学習の価値がないかのような風潮に満ちあふれています。しかし、拙著『英語教育原論』でも書いたことですが、英語教師ですら、教壇を離れれば、ほとんど英語を話す機会はありません。

英語教師は、教室で「英語は役に立つから勉強せよ」と生徒・学生にお説教し、文科省も新高等学校学習指導要領で「英語で授業」と言い始めていますが、英語の「会話力」を日常生活で役立てている教員は(私の周りを見ている限り)ほとんどいないのです。

そして使う機会のない外国語は確実に消えて行きます。しかし、読みたいものさえあれば「読む力」は消えて行きません。それどころか確実に向上していきます。それを私は、Democracy Now!で日々、体験しています。
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<註> 私は世界で大事件が起きると、「これについてチョムスキーはどう言っているのだろうか」ということが気になって、いつもインターネットで「Chomsky.Info」やZNet「Noam Chomsky」を覗くことにしています。これを読むと、人間や世界を見る眼がどんどん広く深くなっていく自分を感じて、とても充実感を感じますし、「読む力」が確実に伸びていくのを実感できます。

http://chomskydotinfo.blogspot.com/ 「Chomsky.Info」
http://www.zcommunications.org/zspace/noamchomsky ZNet「Noam Chomsky」

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では英語教師に「読む力」があるかといえば、必ずしもそうではないように思います。というよりも、「読む力」をつけている暇がないといった方がよいかも知れません。

後述するように、特に「困難校」にいる教師は、生活指導に追われて、ほとんど自己研修どころか教材研究をする時間もありません。

では「進学校」にいる教師はどうでしょうか。生徒と一緒に、大学受験問題集(あるいは受験参考書)に取り組んでいれば「読む力」は向上するのでしょうか。

少なくとも私は、母校の進学校で(周りの雰囲気に押されて)そんな教育=学習を10年近く続けたのですが、英語を学び・教える喜びを感じたことはありませんでしたし、英語力が伸びたという実感を持つことができませんでした。

私が英語を教える喜びだけでなく自分の英語力が伸びたと感じたのは、「統一進度・統一テスト」の網の目をかいくぐって、自主教材・投げ込み教材を授業に取り入れたときや、定時制高校に異動して「統一進度・統一テスト」の縛りから解放されたときでした。


<註> 私が大学に異動するまでの事情は「できない英語教師の歩み」『英語にとって教師とは何か』(第3部、あすなろ社/三友社出版)に書きました。いわゆる「TMメソッド」「記号研方式」なるものが誕生したのも、このような悪戦苦闘のなかでのことでした。

こうして少しだけ英語が読解聴解ができるようになってから大学に異動しました。

ですから私の場合、英語ができるから英語教師になったのではなく、生徒・学生に言い続けてきたのは、「英語ができないから英語教師をしている」「英語ができるようになったら英語教師をやめる」でした。しかし、結局は定年になるまで「英語教師」をやめることができず、「ダメ教師」のまま教師生活を終えてしまいました。

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今の教育現場は、特にいわゆる「困難校」では、頭髪・服装指導などの生活指導に追われ、教科指導にかける時間、教材研究にかける時間、自主研修に振り向ける時間がほとんどないのが実情です。

教育現場がこのような状況であるにもかかわらず、各県の教育委員会では、新高等学校学習指導要領=「英語で授業」を振りかざし、[私の見聞きする限り]、それを現場に押しつけているところが少なくないのです。

もっと驚いたのは、教育委員会の強制研修で、「英語で授業」の延長として「英語でディベート」を、英語教員に押しつけているところがあることです。私が講演で呼ばれた県でも、夏の官製研修会は「英語でディベート」一色で、参加を義務づけられた教師は困り切っていました。

「論争したくないテーマで論争させられ、守りたくない立場を無理やりに守る議論をさせられることほど苦痛なことはない」というのが、その教師の言い分でした。ところが、最近は授業でも、「英語でディベート」をさせるのが、英語授業の最善最高の形態であるかのような風潮も出始めています。

しかし、授業の最初10分間を、「マニキュア・付け睫毛」を取らせるなどの「服装検査」をしてからでないと授業を始めてはならない、ということが授業順序として強制されている学校に、「英語で授業」や「英語でディベート」を押しつけることが、果たして英語教育として、どれだけの意味をもつのでしょうか。どれだけの教育効果があるのでしょうか。

以上の話は、ある県の新採教師が「自分は職業として教師を選んだが、選択を間違ったのではないか」と思い悩んで、遠路はるばる私の家まで訪ねて来たときに聞いた話です。これと同じことは全国的にあるようで、最近で私の研究会に入会してきた新入会員の「入会申し込み書」の「悩み・疑問」にも、次のように書かれていました。

<生徒指導担当の教師が行き過ぎとも思える眉指導・髪形指導を行うため、教師間で基準が統一されていない。教師間では話し合いというより言い争いになり、雰囲気が悪くなる。また、当然生徒は教師集団への信用を失う。眉の一本一本を覗きこんでまでしなればならない頭髪・服装指導の持つ意味を 私自身生徒に語ることができない。>

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上記のような服装指導(眉指導・髪形指導)は、教師と生徒との関係を悪くするだけで、得られる教育効果はほとんどないのではないでしょうか。

まして授業の最初10分間を眉指導・髪形指導に費やすことは、まず生徒と教師の関係を気まずくさせた上で授業を始めるのですから、その後の教科指導がうまく行くはずがありません。

しかも、そのようなことが、教育的な観点で、納得いくまで「話し合われる」のではなく、感情的な「言い争い」になるような環境で、「英語で授業」「英語でディベート」をするよう要求されたのでは、「私は職業の選択を間違えたのではないか」と悩むのは当然のことでしょう。

[ 既に述べたことですが、このような教育的論争が率直におこなえない環境が珍しくないなかで、「英語で授業」や「英語でディベート」だけが強く推奨されるというのも,私には全く理解し難いことです。]

また生徒が荒れていて(そのような学校は、同時に眉指導・髪形指導が非常に厳しいのが普通ですが)、授業以外の時間を学校の巡回に当てざるを得ず、教師に休む暇も教材研究する暇もない学校を、私は幾つも知っています。

しかし校内の巡回に費やす時間を教材研究や授業の工夫に回し、生徒が目を輝かす授業をおこなえば、授業の荒れや生徒の生活の荒れは確実に減っていきます。私の定時制高校における経験からも、それは、はっきり断言できます。

ですから、生徒と教師の関係を破壊し、授業崩壊を招きかねない服装指導は、一刻も早くやめるべきではないでしょうか。さもないと、生徒と教師の関係を悪化させるだけでなく、教師に対する刺殺事件すら起きる可能性すらあります。


<註> 生徒に対する「生活指導」「服装指導」をどう考えどう指導するかについては拙著『英語にとって教師とは何か』の第2部「つまずく教師とともに」で詳しく論じました。ここでは、「女教師の服装(ファッション)」や「かつて起きた教師に対する刺殺事件」についても論じてあります。興味のある方は参照ください。

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拙著『英語教育が亡びるとき』でも述べたことですが、いま学校では校長の「指導力」というので、職員会議そのものが形骸化していて、教育をめぐる率直な論争がありません。

大学でも同じです。国立大学が「民営化」「法人化」されてから、学部長や学長の「指導性」が声高に叫ばれるようになり、教授会も上の方で決められた方針をそのまま了承する場になりつつあります。

かつては日産のゴーン社長が大量の首切りをしたとき「さすが指導力・決断力ある社長だ」と言われたものですが、それが教育の場にも広がっているのです。

だとすれば、「英語でディベート」をする前に、「日本語で率直に論争する場」を回復することこそが、今の教育現場では急務なのではないでしょうか。そうすれば確実に学校の「荒れ」も収まり、教師も生き甲斐を回復できます。

逆に、学校現場が(大学すらも)日産のゴーン社長のような指導者を良しとする風潮が広がっていけば、その先に待っているのは、ウイスコシン州のウォーカー知事であり、エジプトのムバラク大統領やリビアのカダフィ大佐ということになるでしょう。

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「英語でディベート」に関しては、他にも論ずべき点は数多くあります。しかし、もう十分に長くなりすぎていますし、私も翻訳に復帰しなくてはなりませんので、別の機会にゆっくり論じたいと思います。

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