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英語教育残酷物語 「『英語で授業』という名の拷問」その3

英語教育(2019/02/09) 母語力上限の法則、「ザルみず効果」

『英語にとって教師とは何か』 山田昇司

 前回のブログでは、「日本語を使わないでおこなわれる英語の授業」を受けることが、いかに苦痛で拷問に近いものになるかを考察したのですが、今回はそのような授業を「する側」から考察してみたいと思います。
 そのことを前回のブログで予告していたにもかかわらず、『寺島メソッド「日本語教室」レポートの作文技術』の出版準備に追われ、あっという間に1ヶ月が経ってしまいました。その結果、ブログのトップにいかがわしい宣伝が出てくるようになって、読者の皆さんに本当に申し訳なく思っています。

 そもそも、この日本の地で、外国語の授業を「日本語を使わないで」教えたり学んだりすることが、いかに非能率的で教育効果も薄いか。
 このことは、少し日本語で考えるちからがありさせすれば、すぐ分かりそうなものです。が、いまだにそのような考え方がまかり通っているのは、文科省の知性の程度を示すもので、唖然とさせられます。
 なぜなら、そのような考え方が正しいとすれば、なぜNHKの外国語講座は、日本人の講師によっておこなわれ、その外国語の母語話者はあくまで助手の役割しか与えられていないのでしょうか。しかもその母語話者は日本語も理解できるひとが人気なのです。
 もし「中国語を中国語で教える」「ロシア語をロシア語で教える」のが正しい教授法であれば。日本人講師はいらないはずですが、現実はそうなっていませんし、そのことにたいして政府や文科省からの抗議があったという話も聞いたことがありません。
 ところが不思議なことに学校英語の世界だけは例外のようで、高校の学習指導要領は「英語を英語で教えろ」と書いてありますし、今度は新指導要領で中学校までも「英語を英語で教えろ」となりました。そして、そのことに疑問を感じない若い英語教師が増えてきているように思います。
 というのは最近、文科省・教育委員会が教員として採用するのは「英語大好き人間」「アメリカ大好き人間」で、「英会話をすること」「英語で話すこと」だけに無上の喜びを感じる人間ばかりを採用する傾向があるからです。人間に興味があるのではなく英語にだけ興味があるのですから。英語だけを使って授業を受ける側の悩みや苦しみを知りません。分かろうとしません。
 ですから前のブログで紹介したように、そのような授業に耐えきれなかった生徒が実力テストの答案用紙に「○○死ね!」と書いた事件が起きても、その名指しされた教師や英語科が、これを契機に反省することもありませんでした。その学校では「○○死ね!」と書いた生徒が校長訓戒という処罰を受けただけで、「英語の授業を英語で」という体制そのものは、ほとんど揺らがなかったそうです。
 しかし「英語大好き人間」「アメリカ大好き人間」で、「英会話をすること」「英語で話すこと」だけに無上の喜びを感じる人間を、英語教師として採用したとしても、そのことが生徒の英語力を高めることに貢献しているかと言えば、事態は全く逆で、英語力はますます低下または停滞しているように思います。それは、全国学力テストをやればやるほど、その結果によく表れています。
 これは考えてみれば当然のことで、会話中心の授業では、生徒に要求されるのは丸暗記ばかりで思考力は要求されないからです。日本では日常生活に英語は必要ありませんから、憶えても憶えても、日常的に使わない単語や言い回しは、一週間も経たないうちに忘れてしまいます。私の言う「ザルみず効果」です。憶えても憶えても忘れていく、そこでさらにまた憶え直すという作業の繰り返しです。
 多くの生徒は、このような作業に疲れ果てて英語に絶望し、英語嫌いになります(私もそのひとりでした。だから大学は理系学部を選びました)。そして新指導要領のため、最近ますます、暗記力が優れている「英語大好き人間」だけが英語教師になっていく傾向が強まっていますから、このような悪循環は終わることがありません。だからこそ英語力は停滞または低下していくのです。
 進学校ですら、生徒は教科書とは無関係の分厚い単語集を与えられ、毎週のように「単語テスト」を受けさせられ、基準点に達しない生徒は居残りさせられ、基準点に達するまで「単語テスト」を受験させられるところもあるそうです。
 ですから教科書の文章は単なる「会話ごっこ」の材料であり、読んで思考力・創造力・作文力・批判的読解力を鍛える教材として使われることはほとんどありません。英語を読むことの面白さ楽しさを知らないで英語学習を終える生徒がますます増えています。
 教科書とは無関係の分厚い単語集を与えられ、毎週のように「単語テスト」を受けさせられる学習から、どんな学力が育つというのでしょうか。
 読んで面白い教材をどんどん読むなかで自然と語彙力は増えていきます。また読むちからは思考力を育て、かつ作文力を鍛えます。「英作文は英借文」だとよく言われますが、これは日本語でも同じで、読書量の少ない生徒の作文が良い文章になることなど、あり得ない話です。また作文力は会話力に転化します。貧しい日本語しか書けないひとが、豊かな日本語を話せるはずがありません。それと同じです。
 まして貧しい日本語しか欠けない教師が、それを超える英語を書けるはずもありません。だから話す英語も貧しいものになります。私の言う「母語力上限の法則」です。

 話が少し横道にそれたので、元に戻します。今日の本題は、「英語で授業」という体制が、いかに「生徒だけでなく英語教師をも残酷物語に引きずり込むか」という話です。
 「英会話をすること」「英語で話すこと」だけに無上の喜びを感じる人間が、英語教師になって、新指導要領に従って、「日本語をなるべく使わずに」授業したとしても、そのことを生徒が楽しまなければ、それは教師に跳ね返っていきます。
 それは「○○死ね!」ということばを答案用紙に書き込まれた教師の心をいたく傷つけたはずです。
 その教師は表面的には、「私は指導要領に指示に従って授業をしているだけで私に非はない」とふるまっていて、他の教師には、彼女に何も動揺するところがないように見えるかも知れませんが、心の奥深いところでは必ず傷ついているはずだと思うです。
今は「死ね!」という言葉だけ済みましたが、かつて中学校の英語女教師がナイフで刺される事件がおきました(拙著『英語にとって教師とは何か』あすなろ社/三友社出版を参照)、そのような事態になったとしたらどうでしょう。
 彼女にとって「英語で授業」という体制は、自分がいかに英語の出来る教師かを生徒の前でひけらかす自己満足の場だったはずのものが、一転して地獄の場に転化していたはずです。
 私の主宰する研究所に大阪外国語大学(現在は大阪大学外国語学部)を卒業し、大学時代に英検1級をとった教師がいます。彼は、「高校英語教師なったら日本語を使わずに英語の授業をしたい」と思って、意気揚々と最初の赴任校に行ったそうです。
 そこでは念願の「英語で授業」ができたので、おおいに満足して次の赴任校である工業高校で同じような授業を始めたら、今度は、廊下を歩いていると教室の中から牛乳パックが彼をめがけて飛んでくるようになったそうです。
 考えてみれば、最初の赴任校は元商業高校で女子生徒が多かったし、女子生徒は英語に対する憧れが強いというのが一般的だったので、「英語で授業」は何とか通用したのかも知れません。しかし工業高校は男子生徒が圧倒的ですから、「おまえはどんなつもりで英語だけで授業しているのか」という反発が、牛乳パック事件になったのかも知れないと、彼は自著『英語教育が甦えるとき』(明石書店)で自戒・述懐しています。
 つまり大学時代に英検1級をとっていた英語教師にとっても、「英語で授業」という体制、は教室を地獄の場に変えることがあるのです。まして今の教育現場では、英会話がそれほど得意でなくても生活の糧として英語教師なったひとは少なくありません。そのようなひとには「英語で授業」を強制されることは、毎日毎日が地獄であり拷問です。
 ですから私の周りにはうつ病になって精神科まわりをしている教師を少なからず見かけましたし、実際に退職した人もいました。教師が授業を楽しめなくて、どうして生徒は授業を楽しむことができるのでしょうか。生徒が授業を楽しめなくて、どうして学力が定着するのでしょうか。
 また授業をするたびに校長が日本語を使った授業をしているのではないかと点検に来るので、辞表を叩きつけて私学に転じた教師もいました。私学は指導要領に縛られないからです。それどころか「英語で授業」というやりかただと受験学力が落ちるので、日本人の英語教師には「英語で授業」は望まずに、英会話の授業は外人教師を雇って、彼らにそのような授業をうますというところが少なくないのです。

 また「会話力」としての英語が得意でなくても素晴らしい授業をする教師はいくらでもいます。ところが「英語大好き人間」の英語教師は、ともすると、英語が嫌いという生徒、英語が分からない生徒の気持ちが分かりません。
 生徒がどこでつまずいているかも分からないことが少なくないのです。
 というよりも、そもそも人間に興味がなくて英語だけにしか興味がないのですから、英語が嫌いだとか英語が分からないといった生徒に、あまり興味関心をいだかないと言った方が正確なのかも知れません。
 難病を治す医者こそ名医と言われます。だとすれば、「躓(つまず)いている生徒」に学ぶ意欲を与える教師こそ名教師のはずですが、今の「英語で授業」で、そのような教師を育てる気風が雲散霧消しかけているように思われます。
 最近、私の研究所のワークショップに、先述とは別の外国語大学を卒業した若い教師が参加して来たことがあります。その教師は外国語大学英文科を卒業してきただけあって英語力もかなりあるように見受けました。そしてワークショップで学んだ教材や教授法に大いに興味を持ち、それを使って秋学期の授業をやってみたいと言って、意気揚々とワークショップを会場を去って行きました。
 ですから私はその若い教師に大きな期待をもっていたのですが、あとで聞くところによると、結局その教師は教壇を去ることになってしまいました。どうも学級担任として学級経営がうまく出来なくなって休職し、けっきょく教師になる道を諦めたようでした。
 だとすると「英語で授業」というシステムは、その教師に別の苦痛・拷問を与えたことになったのかも知れません。もともと彼は英語にだけ関心があり、人間そのものに余り関心がなかった、だから彼は、人間としての生徒に関心を持つどころか、学級経営を通じて人間を育てることに苦痛・拷問を感じるようになったのではないかと思うからです。
 というのは、英語教員を採用するさい教育委員会は、「英語で授業」という観点で、英語教師に「会話力」「英語力」だけを要求し、学級担任として「日本語を使いながら生徒を説得する」「学級経営を通じて人間を育てる」という、「母語力」「人間力」を要求しなかったことが、その教師に教壇を去らせることになったとも考えられるからです。
 その若い教師は、聞くところによると、もともと教師という仕事にそれほど魅力を感じていたわけではなく、たまたま就職口の一つとして教員採用試験を受けたら、たまたま採用されてしまった、と以前から友人に語っていたそうです。
 教育委員会が英語教師を採用する際、「英語力」「会話力」という観点だけでなく、「母語力」「人間力」をも考慮に入れた、総合的観点で教員採用をおこなっていれば、その若い教師も英語教師として採用されず、英語力を生かした別の道を選んでいたかもしれません。
 しかし文科省・教育委員会は、「英語力」という観点でしか人間を見れなかったために、ひとりの若者に学級担任という別の拷問を味わせてしまったと言えるのではないでしょうか。
 だとすれば、これも、「英語で授業」という体制・システムが生み出した別のかたちでの拷問でしょう。つまり生徒だけでなく教師も、「英語で授業」とうシステムによって、様々なかたちの拷問にかけられているわけです。 
 中学や高校の教員は教科担任制だと言っても、大学の教員と違って必ず学級担任という仕事をしなければなりません。ですから私がまだ大学に異動する前の、高教教員をしていたとき、教科別の民間教育団体だけでなく全生研(全国生活指導研究会)といったような生活指導の民間教育団体が存在していて、私はその研究会で「人間の見方」「生徒の捉え方」「指導の仕方」を徹底的に鍛えられました。
 ところが最近の学校は、少しでも荒れた生徒がいれば、すぐその生徒を警察や鑑別所に引き渡したり、精神科医に引き渡して「アスペルガー」という病名を与えたりします。私が高校の教員だった頃は、生徒を警察や鑑別所に引き渡したりすることは、学級担任の指導力さの無さの表れであり恥だとする雰囲気がありました。
 先にも述べたように、難病を治す医者こそ名医と言われます。だとすれば「躓いている生徒」に学ぶ意欲を与える教師こそ名教師のはずですが、そのような教師を育てる気風が、教育現場では雲散霧消しかけているように思われます。今の「英語で授業」という体制が、そのような雰囲気を助長しているように思われてなりません。
 現在のような体制では、「トットちゃん」として有名になった黒柳徹子も、ADHD(多動性症候群)の患者として小さいときに精神科送りになったり薬漬けになったりして、タレントとしての黒柳徹子は存在していなかったかも知れません。

 繰り返しになりますが、英語教育に必要なのは、英語力・母語力(日本語力)・人間力という三つの力です。このどれが欠けても教育は機能しません。ところが文科省・教育委員会が求めているのは、ともすると英語力だけなのです。
 そして「英語教育がうまくいかないのは英語教師に会話力がないからだ」として、強制的にTOEICを全員に受験させたり、「英語で授業」の研修会を教育院会主催でおこない、それを強制的に全員に受けさせたりしています。これらもまた、英語教師にとって一種の拷問です。
 なぜなら理科教育や国語教育などを見れば分かるように、英語教師以外は、そのような試験を全員が受ける義務もありませんし、そのような資格試験の点数を問われることもありません。
 しかもTOEICはビネスマン向けに開発されたアメリカ製のテストですから、そのような試験を受けさせられることは無意味だという思いが、英語教師にいっそう強くなります。ですから、なおさら精神的に苦痛であり、拷問に近くなります。
 そのうえ、このような資格試験を、税金を使って受験させるわけですから、その無意味さは二重になります。アメリカの赤字対策のためにTOEICを受験させられることに何の意味があるでしょう。そのようなことに税金を使うくらいなら、夏休みを使って海外研修に出かける自由や金銭的援助を英語教師に与えるべきでしょう。
 ところが現在の学校は、夏休みですら教師を学校に縛りつけ、教育委員会主催の強制研修を受けさせることはしても、英語教師が自分の学びたいと思っている民間教育団体のワークショップや宿泊セミナーに参加する時間的ゆとりを、ほとんど与えられていないのが現実です。
 かつて私の研究所の研究員から「私の中学校では、英語教師の半分しか専任教員がいない。残りは専任または非常勤の講師ばかりです」との便りもいただきました。これでは専任教師の疲労は溜まる一方です。
 さらにまた、最近は高校の修学旅行で海外に出かけることも増えていますから、その交渉も英語教師の負担になっているところも少なくありません。別の研究員から、公用語が英語だからという理由でマレーシアに修学旅行に行くことになり、訪問先の学校との交渉を一手に引きうけさせられて、その負担に喘いでいるという便りもきました。
 つまり今では修学旅行に広島や長崎を訪れることはほとんどなくなってきているらしいのです。
 これでは「英語で授業」という政策は、英語教師を疲弊させているだけでなく、世界で唯一の被爆国なのに広島・長崎の惨状をほとんど知らない若者を大量に育てていくことになります。今では、中沢啓治が自分の被曝体験をもとに描いた『はだしのゲン』という漫画すら、松江市のように、閲覧制限する公立図書館すら出てきているのですから、日本の惨状は推して知るべきでしょう。
 だとすれば、現在の「英語で授業」は、税金を食い潰しながら生徒も教師も疲弊させているだけでなく、平和憲法の土台を掘り崩す悪質な役割すら果たしていることになります。ひょっとして、これが「英語で授業」という政策の真の狙いではないかと疑りたくなります。
 こうして「英語で授業」という政策を震源地とする「英語教育残酷物語」は終わるところがありません。
 しかし、もう十分に長くなったので、一旦ここで今回は打ち止めにしたいと思います。次回は「英語教育残酷物語その4」として、大学教師・村上春樹の「英語で授業」を書きたいと思います。

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